第三夜 10

「……私には目覚める前の記憶が……ないんです」  遙はぽつり、と言った。そして、黒正によって脱がされかけた着物の|襟《えり》を自ら下に下ろし──あの突いたような古く大きな|傷痕《きずあと》を黒正に見えるように|露《あら》わにした。 「……この傷は眠る前に何かが起きてできた傷です。私が目覚めたのは二十年ほど前ですが、|今日《こんにち》まで薄くなったりすることはなく、未だに|疼《うず》き、熱を持ちます」 「……」 「推測ですが、ひどい恨みによってつけられた傷だと思っています。|禊《みそぎ》をして抑えて、これからもずっとこの傷は残るんだと思います」  遙は|碧《あお》の瞳に涙を溜めた。この傷は誰の目にも触れさせたくはなかった。黒正にはなおのこと、だ。だが、黒正が求める以上、「嫌」だけではなく、理由をきちんと伝えなければ、という気持ちが遙の中で大きく|膨《ふく》らんだ。 「この傷がある以上……|貴方《あなた》と、その、体を重ねることは無理です」 恨みが貴方に流れる可能性があります、と遙は言った。キスを交わすだけではできない──二人の体の|芯《しん》がつながれば、きっと良いものも悪いものも黒正との間を行き交うことになる。それは避けなければならない、と遙は強く思った。  遙の頬を一筋、涙が伝った。何の涙かわからない。ただ、もどかしさだけが胸に広がった。  幼い頃にはわからなかった、『体』と『心』の関係が最近、遙にはようやく理解ができるようになった。遙の本体は『鏡』だ。良いことも悪いことも吸収し、それが自身に反映する。一人の相手を想うとそれは|顕著《けんちょ》に現れ──この身が黒正に|惹《ひ》かれ、黒正の『心』が遙に浸透し、そして共鳴する。似た者同士になる反面、互いが共有するものが増え、黒正の知らなくて良い内面も遙の中に流れ込む。キスだけで、あれほどの感情が流れ込んでくるのだ──黒正は確かに遙の中に別の遙を探している、それに気がついた。そして、遙の中のものも、きっと黒正に流れているはずだ──そう、遙の持ち得たもの、全部。 「私と貴方は、近づきすぎない方が良いのです」  遙はそう言って、着物の|襟《えり》を上げた。黒正の顔は見れない。見たら、もっと泣いてしまうような気がして……。  そこで、|俯《うつむ》いた遙の頬に何かが触れた。目の下を|撫《な》で、頬を包む──温かなものだった。 「だから、お前は真理を突き詰めすぎる」 相変わらずだ、と黒正が言った。言って、遙の頬をその大きな手で|撫《な》でて涙を|拭《ぬぐ》い、そして頬に優しく口づけをする。 「先ほどの口吸いで、お前は俺に何を見た?」 「何って……貴方は私の中の別の私を……」 「別のお前?」 「少なくとも『今』の私じゃなくて……」 「お前はそう感じたのかもしれんが、俺にとったら『今』のお前も、お前の中のお前も」 全部まとめて|遙鏡《ようきょう》だ、と黒正はそう言った。 「俺の|遙鏡《ようきょう》だ」 俺だけの……、と黒正は遙の白く細い手を取り、甲に口づけを落とす。 「それに、お前はその傷のことを大層気に病んでいるようだが……」 傷による恨みなんぞ、今更俺に何の影響がある?、と黒正は眉を上げて|呆《あき》れたように言う。 「散々好き勝手生きて、散々呪って呪われて今の俺がある」 それを今更お前の傷の恨み一つ俺に流れ込んだとして……腹を一回壊す程度のものだろう、と黒正は鼻を鳴らした。 「は、腹って」 「|厠《かわや》に直行だな」 「ちょ、リアルに言わないで」 「出したら|終《しま》いだ」 「もっと違う例えがあるでしょっ」 「どの様な?」 「……」 |目眩《めまい》がして寝込む、とか……、と遙は瞬きを繰り返して、そうつないだ。 「大差ない」  そう言って、黒正はしゅるしゅる、と再び遙の帯を|解《ほど》き始める。 「ちょ、私の話聞いてましたっ?」 「腹壊す話だろ」 「違うっ」 「ごちゃごちゃ言ってメソメソするお前の話か?」 「メソメソって! ……ちょっと!」  言う間に黒正は帯を|解《ほど》いて|襟《えり》を肩から落とし、遙の白い肩口に口づける。ちゅ、と音を立てて──あの|傷痕《きずあと》にもキスをする。 「ちょ、ま、何してっ」 「真理を突き詰めすぎるお前と気ままで適当な俺」 足して|均《なら》したら丁度良いと思わんか、と黒正はそう|悪戯《いたずら》に言って──遙をそのまま押し倒した。

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この作品の評価

34pt

毎日楽しみにしていました🎵とても好きな作品でした🤗こ

2020.04.05 23:26

のんこ

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