第二夜 18

 そうして、時が流れる──。      平成二十九年、|水無月《みなづき》──  松坂、|駅部田《まえのへた》の路地をのっしのっしと歩く女の姿がある。黒髪を後ろで一つに束ね、|腫《は》れぼったい|一重瞼《ひとえまぶた》、への字の口には真っ赤な紅が引かれている。|葡萄色《ぶどういろ》の着物に身を包み、白い足袋に|草履姿《ぞうりすがた》、風呂敷と一升瓶を大事そうに抱え、ふん、ふん、と歩くたびに息が漏れる。よく見ると、荷物を抱える手には水かきがあり──途中、飛んでいる虫を見つけるとキラリ、と眼が光る。 「……いけません」 今日は虫取りに時間を費やしている暇はないのです、とその女が自制するように、そう低く言って、またのっしのっしと歩き始めた。 「それにしても、梅雨の晴れ間の陽射しは暑ぅございますな」  独り言のように呟いて、目的地に着いた。門前に変な気配がないか左右を注意深く確認し、足元を悪くする草も生えていないか確認する。辿り着いたのは古い平屋の戸建ての民家。セメント瓦の──お世辞にも綺麗な家とは言い難いものだ。中年の女は辺りに変わりがないことを確認すると、|徐《おもむろ》に玄関の引き戸に手をかけた。 「お邪魔致しますぅ、|羅武《らむ》にございますぅ」  引き戸をガラッと開けて、腹から大きな声を出した。暗い玄関と廊下を声が抜けていくが、中から返事はない。 「|遙《はるか》さまーいらっしゃいませんかー、|羅武《らむ》にございますぅ」  勢い余ってゲロロという喉が鳴る音まで出た。しん、と静まりかえった空気が震えるようにこだまして、水かきのある手で抱えていた風呂敷を玄関の上り口に置いた。 「勝手に上がりますよー|羅武《らむ》にございますぅ」  |草履《ぞうり》を脱いで、|揃《そろ》えて上がり──ヤマアカガエルの化身、|羅武《らむ》はそう言って廊下を進む。すると、 「ごめんなさーい、今、手が離せないのー」  遠くで小さく、でも、確かに返事がある。女の声だ。|羅武《らむ》はその声を聞くと、 「|遙《はるか》さまー? 居間にございますかぁ?」  一升瓶を抱えた|羅武《らむ》がのっしのっしと|軋《きし》む床の廊下を歩いて、左奥にある居間をひょい、と|覗《のぞ》く。 「……何をなさっておいでですか?」 「えー……何って……」 |組紐《くみひも》ー、と居間の座卓の前に座る女は赤や緑、薄茶、黄色など、色取り取りの糸を両手に絡めながら、そうつないだ。 「|組紐《くみひも》でございますが、何でそんなに絡まっておいでなのですか?」 「うーん……新しい編み方を開発しようかと思って……」  座卓に置いたノートパソコンを|覗《のぞ》き込みながら、女は指だけでなく腕にまで絡まった糸と格闘しながら、そう口を開く。 「そんなに時間を使ってしまっては単価に響きますよっ」 「えー、|羅武《らむ》さんいつも時給換算ばっかり……」 「当たり前にございますっ。|費用対効果《ひようたいこうか》が悪くては|儲《もう》けになりませんっ」 一本十万円で売るのでしたらかまいませんけどっ、と|羅武《らむ》は女の|呑気《のんき》な様子に鼻息荒く言った。 「相変わらず厳しいですね……」 「ワタクシの母の里は商家でして小さい頃から読み書きそろばん帳簿付けは嫌という程叩き込まれております」 それより|御髪《おぐし》のお手入れ、いたしますよ!、と|羅武《らむ》は一升瓶をゴトン、と脇に置いて腕に掛けていた花柄のがま口のカバンから茶色の木の|櫛《くし》を取り出した。  その様子に女は眉間に|皺《しわ》を寄せ、口を|尖《とが》らせる。 「えー……面倒くさい……」 「ダメです、これしないとお酒、差し上げませんよ?」 「えー……それは困ります……」 「はい、|組紐《くみひも》しながらでも|御髪《おぐし》の手入れはできますから」 ほら、ほらほらほら!、と|羅武《らむ》が櫛を片手に迫ってきた。|腫《は》れぼったい|一重瞼《ひとえまぶた》に腹回りも尻周りもずどんと大きい|羅武《らむ》が近づいてくると中々の迫力がある。女は絡まった糸から手を離し、観念して|羅武《らむ》の方に髪を差し出した。

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この作品の評価

34pt

毎日楽しみにしていました🎵とても好きな作品でした🤗こ

2020.04.05 23:26

のんこ

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