極東黙示録1927 | 第壱章『帝都に舞う式鬼、霊鎮めたる巫女』
寝る犬

第伍話「白日の魔―はくじつのま―」

 東洋随一《とうようずいいち》の大都市、帝都東京。花の銀座は煉瓦街《れんががい》である。  いつもならば、華やかに着飾ったモガ・モボたちが大手を振って歩いているその街は、三月の暖かい日差しの中、場違いな静寂に包まれていた。 『大和くん、三崎伍長、周辺の非戦闘員の退避と封鎖は完了したわ。これより霊子《れいし》結界《けっかい》を張ります。十分後《じゅっぷんご》には飯塚少尉も現着《げんちゃく》予定です。それまで持ちこたえてちょうだい』 「中尉、これくらいぼくだけで充分です。それより救護班をお願いします」 『バカを言わないの。普通の武器では本体を倒すことは出来ても式鬼《しき》は返せないわ、返さなければ、相手は何度でも式鬼《しき》を放ち続ける事ができるのよ。少尉の天薙雲《あめのなぎくも》なら、確実に術者へと式鬼《しき》を返せます。九条二等兵、継戦《けいせん》を第一に考えなさい。いいわね?』 「足止めはします。でも、依代《よりしろ》ではなく式鬼《しき》自体を斬ってしまえば良いんですよね」  ヘッドセットから、櫻子の大きなため息が響く。  確かに、先程の千鶴の姿を見て分かる通り、式鬼《しき》自体へと攻撃する事ができれば、術者にもダメージを与えることは可能だ。  しかしそれは不可能なのだ。世界に満ちている霊子へ、意志の力により、ある特定の位相と周波数を与えた《《だけ》》の存在である式鬼《しき》を、通常の兵器で傷つけることは適わない。そんなことは、神道陰陽術《しんとうおんみょうじゅつ》を少しでもかじった者であれば、常識であるはずだった。  ただし、大和だけは違っていた。  陸軍幼年学校《りくぐんようねんがっこう》から逃げ出したあの夜、渾身の力を込めて突き出した大和の軍刀は、確かに式鬼《しき》の不浄な皮膚へと食い込み、傷をつけたのだ。  斬れる。  櫻子を含め、周りの大人たちには理解してもらえなかったが、大和はそう確信していた。  わずかばかりの間。そしてノイズと共に回線に割り込みが入り、飯塚少尉の楽しそうな声が囃《はや》し立てる。 『いいぞショーネン。その意気だ。だがな、やるならきっちりとやるんだぞ。三崎さんがそれ以上の怪我をしないようにな』 「はい。やります」 『少尉! 無責任に大和くんを煽《あお》るのはおやめなさい』 『おっと、いかんいかん。くわばらくわばら』  軽口を叩く飯塚の声には弾む息遣いが混じっていた。車のエンジン音も聞こえてくる。上野を巡回していたはずだ、急いでこちらへ向かっているのだろう。  壱与《いよ》の式鬼甲冑《しきかっちゅう》に至っては、宮城《きゅうじょう》の向こう、牛込区の士官学校に止めた運搬車両で待機していたのだ。  新型トヨクモ機関に換装《かんそう》して、実戦は今回が初めてでもある。  一報を受けてすぐにこちらへ向かっていたとしても、到着までには十五分はかかるだろう。それまでこうして、怪我をした千鶴をここに転がしておく訳にはいかない。  大和は決意を固め、柄に力を込めた。 ――その軍刀、銘《めい》を『鬼遊《おにすさ》び』と言う。  元は室町時代中期に打たれた儀礼用の太刀《たち》であったものである。大和が陸軍幼年学校《りくぐんようねんがっこう》へと進むことが決まった際に、父が大和の体格に合わせて打刀《うちがたな》として鍛え直させたものだ。  沸《にえ》に一対《いっつい》の鬼が遊んでいるような文様の浮き上がるこの不思議な日本刀は、大和と式鬼《しき》の間にあって、鈍い輝きを見せた。  小さな体を精一杯に大きく見せるようにして、上段に構える。  余韻を引く猫の鳴き声に合わせて、式鬼《しき》は縦に裂けた口に並ぶ鋭く尖った歯をこすり合わせ、不快な音を立てた。  背後に千鶴が倒れているのだ。大和の得意な、身のこなしで相手を撹乱する戦法は取れない。常に千鶴を背中に隠す位置を保ちながら、大和はジリジリと間合いを詰めた。  黒革がぎりりと軋《きし》み、周囲の景色がスッと暗くなる。  式鬼《しき》は鉤爪のついた四本の腕を大きく広げ、大和は大きく踏み込むのと同時に、軍刀を振り下ろした。  金属の澄んだ音が、静寂を切り裂く。  立て続けに何度も音を響かせながら、小ぶりな打刀《うちがたな》を高く掲げ、振り下ろし、そしてなめらかに薙《な》ぎ払った。  見事な連続技と言えるだろう。熟練《じゅくれん》の剣豪のような佇《たたず》まいがそこにはある。  しかし剣を振るっているのはまだ少年なのだ。  ハンチングからあふれる、猫のようにしなやかな髪をゆらし、黒マントを翻《ひるがえ》している。  それに相対《あいたい》する相手は、異形《いぎょう》である。  昆虫のような姿に、生々しい人間の皮膚を貼り付けたような、冒涜的《ぼうとくてき》な生き物。不健康そうな血管が縦横《じゅうおう》に走る顔には、本来なら耳のあるべき位置に輝く複眼《ふくがん》と、額《ひたい》から顎《あご》の先を結ぶ、縦に大きく裂けた口があるばかりだ。  口には鋭い歯が三重《さんじゅう》に並び、不浄《ふじょう》な唾液《だえき》を撒き散らしている。  肩の付け根から二対四本《についしほん》伸びる大きな鍵爪のついた腕は、その体の大きさ以上に差のある腕力《かいなぢから》で、剣撃《けんげき》を何度も受け流した。その度に大きく体を振られた大和は、既《すんで》のところで軍刀を引き戻し、なんとか決定的なすきを作らずに耐えている。  しかしそれは、細いロープの上で危うくバランスを取り続ける、綱渡《つなわた》りのような光景だった。 『大和くん。あと二十秒で霊子結界《れいしけっかい》が完成します。結界完成後は霊子通信はできなくなるわ。くれぐれも無茶はしないで。継戦《けいせん》を第一に考えなさい。それも無理と判断したなら、あなただけでも――』  陰陽大隊《おんみょうだいたい》の副官、獅子王院《ししおういん》櫻子《さくらこ》中尉からの通信は、突然途絶えた。霊子結界《れいしけっかい》の完成した証拠であろう。これで最低限、式鬼《しき》に逃げられるという結果は回避できたと言うことだ。  本来ならばもう大和が戦う意味はない。しかし、自らの放った式鬼《しき》を返されたために、丹田から内臓に大きな傷を負ったであろう三崎伍長を連れていては、とても逃げられるものではなかった。  それに――と、大和は式鬼《しき》のかぎ爪を撫でるように刀を振り上げ、付け根へ向かって刃《やいば》を滑らせる。  ただ式鬼《しき》が見える、それだけの力しか無い子供などではないと、証明したい気持ちも確かにあったのだ。このままでは、陸軍幼年学校《りくぐんようねんがっこう》で受けた、あの屈辱的な『御稚児《おちご》』扱いと変わらないではないか。  そう思うと、大和の左目にはより一層の力が込められ、溢《あふ》れるように赤い光が糸を引いた。 「おおっ!」  大和は咆哮《ほうこう》する。  踏み込んだ左足は、式鬼《しき》のつま先を踏みつけた。体ごと勢いをつけ、右手を伸ばし、左手を引く。  鬼遊《おにすさび》の銘《めい》の元となった刃紋の鬼たちが、ゆらりと踊った。  ずぶり……と、切っ先が式鬼《しき》の皮膚へと滑り込む。反撃のかぎ爪が大和を襲うかと思われたその瞬間、大和は体を沈めて背中を向け、左右の手を入れ替えた。  切っ先が、ぐるりと真円を描く。大和は煉瓦《れんが》の上を滑るように、式鬼《しき》の懐へと潜り込んだ。  柔道で言うところの『背負い投げ』のような格好で刀を担ぎ、屈《かが》めていた両足を一気に伸ばす。大和の両足に、本来ならば感じることのない式鬼《しき》の重みがかかった。  あまりの重さに、大和はよろめく。 「おおおっ!」  今一度の咆哮《ほうこう》。一瞬停滞したかに思えた切っ先が、式鬼《しき》の体を突き抜ける。大和にしか見えない、どす黒い血しぶきをあげながら、式鬼《しき》を切り裂いた刀と大和は、勢いのまま宙を舞った。  蜻蛉《とんぼ》を切ったように、背中から煉瓦《れんが》の上へと落ちる。両手で握った軍刀を離さなかったため受け身も取れず、大和は肺の空気が全て押し出されたようになり、息を詰めた。 「ぐっ……」  視線が定まらない。起き上がることも出来ない。  式鬼《しき》の姿を求めて地べたを這《は》う。そんな己《おのれ》の姿に、大和は絶望した。  これではただ子供のごとき功名心《こうみょうしん》に駆られ、命令違反をした挙げ句に三崎伍長を危険に晒した、本当の莫迦《ばか》ではないか。  両目に熱いものが滲《にじ》みそうになり、大和はキツく目をつむった。  ざらつく舌が、大和の頬《ほお》を舐《な》める。  転がるようにして体を離し、地面に座り込んだままの大和は、それでも軍刀を構えた。 「にゃぁん」  黒猫であった。  その向こうに、体を逆袈裟《ぎゃくけさ》に斬られた式鬼《しき》の死骸が見える。  猫の目には、式鬼《しき》の依代《よりしろ》となっていた先程までとは打って変わって、邪心が感じられなくなっていた。 「……斬れた……のか?」 「にゃあ」  黒猫が答える。気の抜けた大和は、握っていた軍刀を下ろし、鞘へと収めた。  なんとか呼吸を整え、千鶴《ちず》へと目を向ける。  大和はそこに、もう一匹の黒猫の姿を認めた。 「え?」  目を瞬《しばた》き、もう一度視線を定める。黒猫かと思われたのは、真っ黒なロシアの民族衣装《サラファン》に身を包んだ、一人の女性だった。  銀色の豊かな髪と雪原のごとく白い肌は、漂白したような印象を受ける。しかし、それ以上に大和の注意を引いたのは、両目を覆う真っ黒な目隠しの布だった。  天鵞絨《びろうど》のような目隠しには、銀糸《ぎんし》で大きな一つ目が縫い取られている。  女性は千鶴の傍《かたわ》らに屈《かが》み込み、そのお腹に向かって二言三言、何かを唱《とな》えた。  千鶴の表情が和らぎ、呼吸も安定したのがわかる。  立ち上がった目隠しの女性は、まるでその分厚い布越しにすべてが見えてでもいるかのように、真っ直ぐに大和を見つめた。

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