ある珍事――母を想う

「なにをボーッとしとるんじゃ! このエレベーターは七十歳以上専用じゃ。それにここはスポーツするところじゃ! 若者は階段を使え!」  スポーツセンターのエレベーターで、知らないおばあちゃんに、いきなり罵倒された。わたしはそのおばあちゃんをじっと見つめ、思わず笑ってしまった。 「なにニコニコしとるんじゃ!」  おばあちゃんがキレたとき、エレベーターがトレーニングルームに着いた。わたしは、「おばあちゃん、わたしのお母さんみたい」と言い捨てた。  わたしの母も、よく罵倒したものだ。ノロマだのバカだの言いたい放題。わたしは、自分はバカでノロマだと思い込んでいた。  ふたこと目には、 「あんたのためだから」  とキツイことばを投げかけた母。根性論が大好きで、負けん気を出せとわたしにハッパをかけるのが日常だった母。  母の葬式時、親戚は母の思い出話を一切しなかった。生前の母も、昔話をあまりしなかった。だから、母がどんな人だったのか、わたしは、しらない。  母は、親戚に憎まれていたのだろうか。あるいは、思い出話などしないのが、葬式のマナーなのか。母もその家族も、父の一家と同じように、謎の人だった。  ともかく母は死んだ。あれだけ元気だったあの母が、くも膜下出血で死ぬ直前、ベッドで、弱々しく謝ったのである。 「ごめんね、ごめんね」  思い出すことが、あまりにも多くて、わたしはその場を逃げ出した。 母よ、卑怯じゃないか。 持ち前の根性は、どうなったんだ。 三十年後、母そっくりの人がまた現れた。わたしは前から言いたかったことを、その人に口走っていた。 「ありがとう、お母さん」  

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