本編

  子供の頃、本が好きで、繁華街へ出かけたら必ず本屋に入っていた。母は読書を一切しないのに、というよりもしないが故か、私が本を読むことを推奨し、本を買ってくれと我が子がせびる姿に一種の喜びと優越感を覚えているようだった。  私にとって、本は一番の友人であった。世界を広げてくれ、誰にも言えない秘密を共有する、特別な存在だった。  あれを読め、これを読めと指示する小煩い読書好きの大人がいなかったせいか、幸か不幸か、幼い頃はまさに乱読であった。そんな時、十一歳の私は、『私の中の見えない徴し』という本と出会った。著者は北米在住で、短編小説で名を挙げている人だった。そんな彼女の待望の長編一作目である当作品は、数字と木をノックすることが好きな少女が小学校の算数教師に就任して…という物語。  数字が好きってどういうこと?  木をノック?  ???と頭の中に数々の疑問が浮かんだが、ブックカバーに惹かれて(母が)購入。読み始めるが、やはり内容は意味不明。全然面白くないし、形而上学的な表現が合わなくて、途中で読むのを諦めた。それなのに、作中のいくつかの奇妙な点が、強烈な印象を残した。例えば、登場人物がその日の気分を表す数字のネックレスをかけている、という描写とか。主人公が得意なことや愛することをあえてやめる、というゲームをする点とか。それらは当時まだ十年そこそこしか生きていない私が理解するのには難しく、考えるだけ無駄なことのように思えた。  それから十年以上の時が経ち、一人暮らしを始めることになった私は、本棚と対峙し、新居に持っていく本を選別していた。大学以降、読書とは縁遠くなっていたが、二十数年にわたる本コレクションは、それなりのものだった。世界的ベストセラーになったファンタジーや、思春期に穴が開くほど読み返した青春小説。単位のために購入し、試験範囲の数ページしか読んでいない学術書等。本棚に入りきらず、押し入れに追いやられた二軍の本達の中に、その一冊はあった。 『私の中の見えない徴し』  大きな木と、木の実のようになっている複数の数字。そして、その幹をノックする少女の姿。白地を背景に、繊細な絵が描かれた表紙を見つけて、おっと小さく声が出た。昔読んで、全然理解できなかった小説。大人になった今は、どうだろうか。  荷造り用の段ボールを押しやり、壁にもたれかかって読み始める。文章は流麗で、比喩が美しい。まるで詩のような表現。そして、小難しい主人公。  結局、三時間かけて読破してしまった。  感想は、「やはりよく分かりませんでした」。  情けないことに、あれから十数年の人生経験を積んでも、この小説が何を意図して書かれたものなのか、主人公が何をしたかったのか、てんで理解できなかった。私の読解力は、小学生時から成長していないということなのだろうか。それとも…。  この小説の不思議な魅力は顕在だったが、「押し入れに戻す側」に仕分けた。もう二度と読み返すことはないだろう。私は、再び引越しの作業に戻った。 ◇◇◇  十代の頃の私は、所謂「いい子」であった。社交的で友人が多く、勉強も得意。スポーツもそれなりにこなせた。授業参観で友人の保護者と顔を合わせれば、「いつもお世話になっています」と昭和の貞淑な妻さながらに振る舞った。学校でいじめっ子達に、「ぶりっこ」となじられようと、笑ってやり過ごした。結局のところ、いい子としてなんやかんや周りから受け入れられていたし、そんな自分が好きだった。  歯車が狂い始めたのは、いつからだろうか。  大学を卒業後、金融会社に入社した頃は、エネルギーで満ち溢れていた。その時までは、確かに物事はスムーズに運んでいた筈だった。  それなのに。   次第に友人の誘いを断る回数が増え、仕事がない日は、一歩も家から出ず、天井を眺めて過ごすようになった。大学時代から付き合っていた恋人とも、別れてしまった。  もはや今の私に、何かをしたいという気力も、何かを愛する気持ちも残っていないようだ。  生きているのに死んでいるようだという思いが浮かんだ時、ふとあの小説の、奇妙なフレーズを思い出した。 「やめることを始めた」  エキセントリックな主人公は、自分が愛するものや大切なものを、次第に手放していく。それは不仲な家族の気を引くためでもなく。自分を哀れむためのものではなく。ただ、ひたすら、大好きなチョコレートを、陸上を、恋を止めていくのだ。それでも、どうしても止められないものが彼女にはあった。  数学と、木をノックすること。  喉を締められているかのように、呼吸が苦しい。パジャマを脱ぎ捨て、手近にあったジーンズに履き替えると、実家に向かう電車に乗った。櫛を入れていないボサボの髪と、すっぴんの酷い姿。昨日シャワーを浴びていないせいで臭うのか、新生児を連れたお母さんが、非難じみた目で睨んできた。  あと一駅で、実家の最寄駅に着く。  母親に連絡すら入れていないから、突然の帰省で驚かせてしまうかもしれない。でも、構わない。電車の扉が開き、ホームに足を踏み入れた。汚れたスニーカーを履いた足を、足早に運ぶ。  あの本を取りに。  私を迎えに行くために。 <終わり>

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この作品の評価

4pt

こんにちは。 人間だもの!(みつを) おかえりなさい、と申し上げていいのでしょうか? 言っちゃいますけど。   おかえりなさい! 生きていると……色々と、ありますよね。(遠い目) 感情が自分でコントロールできたらもう少し生きやすかろうにと思うことも多いのですが、できないものは時間に解決を委ねるしかないと諦めることも大事なのだろうと感じています。(セルバンテスにログインされたのも、そういう意味では時間の悪戯なのでは~? 笑) 茨木のり子の『自分の感受性ぐらい』をご存知でしょうか。 https://www.matatabi.net/Poetry/ibaraki_01.html 私は心に暗いものが巣食ってにっちもさっちもいかなくなった時は、この詩を唱えて自らの戒めとしながら、時が過ぎ去るのを待ちます。 本は週末に受け取る予定になっています! わくわく。

2020.01.23 11:29

皐月原 圭

1

読み終わった後に、主人公の未来がぱーっと開けていくような読後感でした。玄関のドアを、鍵を開けて入るでなく、インターフォンを押すでなく、手を握りしめてドンドンと(トントンではなく)しっかりとノックするような光景を思わず想像してしまいます。 しかも、この物語の主人公の本好きエピソードも、金融機関に就職するまでは輝いていたというエピソードも、そこから「やめる」が始まったエピソードも、読んでいて「あれ? 私?」と、自分に重なる部分があまりにも多くて、びっくりです。 なので、なんというか、自分の背中を押されてしまったみたいな感じがするのです。 作中の本、きっとこれだ、というのを見つけたのでポチっとしてしまいました。読むのが楽しみです。

2020.01.22 10:22

皐月原 圭

1

初めて実家を出る時、新居に持って行く本の選別に苦労した記憶があります。それぞれに思い入れがあるけど、全ては持って行けなくて。あの時にはよく分からなかった物語が、実は自分の物語だったんだと、ふと気付くこともあります。 邦題は「私自身の見えない徴」でしょうか。私も書店で手に取って読んで見たくなりました。

2020.01.13 00:32

結地 陸

1

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