第三十三話

 文学は「狼が来た! 狼が来た!」と少年が叫びながらやって来るが、その後ろには狼なんかいなかったというその日に生まれた──だがもし、少年が叫び続けた虚構が出し抜けに凍り付き、途端に冷酷な現実となってしまったなら。  或いは望まれて生まれ得ない者こそ、皆多かれ少なかれ狼になってしまうという事だろうか。決して愛されない筈の存在がこの世に生まれ着いた時、そいつは餓えを満たそうと愛を求めて彷徨うのだろうか。  見た事も無い愛だけを。  見た事も無い愛。  見た事も無い愛だけが。 「見た事も無い愛だけが……私の中にいつまでも、凍り付いた|導《しるべ》となって……小さき胸の|最奥《さいおう》の深い轍のくぼみの傷に、爪先立ててとどまりつづける……その痛みたるや、痛みたるや……嘗て躍った熱情の……今日はか弱き足の平で……霜の柱を踏み付けた、貴女の顔を見たかのように……」  その日、私を殺人者にした。  しかし罪には問われない。  事実──真実。想像もつかない真実の積み重ねが時として無意識に見ず知らずの他者を殺めたとして、咎められるのは何者なのか。  ほんの二ヶ月前まで、私はただのカフェのオーナーだった。それがひとつの真実だ。  私はゆっくりと顔を上げた。  だがもうひとつ、遡れば、真実は──。 「パパ!」 「いたのか。済まない。気づかなかった」 「いいよ、どうせまだ慣れないんでしょ」 「嘘だよ気づいていたとも。君の階段を叩く足音は些か粗野で物怖じしない勢いに満ちている。時にそれは天地を揺るがす巨人の|一足《ひとあし》のようにね」 「いやそれ普通に酷過ぎない?」  クラーギンの詩集から視線を上げた先に制服に身を包んだエリューシュカが立っていた。帰って来てからの三十分間何をしていたのかを問うと、インターネットで英語のスピーチ講習を受けていたと言う。試験予定日はもう目と鼻の先にあり、ここ数日の彼女はどこか浮き足立っていた。 「その落ち着きの無さは君らしくも無い」 「だって志望校行く為の絶対合格の関門だもん。知らないままだったらヤバかったって」 「そうかな。少し前までは学校にも行っていなかったのに」 「それ言ったらパパもじゃん。あ、ペチカ、うん、帰って来てるよ」  エリューシュカは私の養子として迎え入れた。その為か養子になってからの彼女はかつての彼女とは比べるべくも無くますます遠慮の無い物言いに支配されてしまったように思う。それは私も同様で、以来私たちは家族とも知己の仲とも言えてしまうような奇妙な関係の中、保護したペチカを含め毎日を過ごしていた。 「そう言えば今日面会の日だっけ。行かなくていいの」 「面会可能時間ギリギリに来いと言われた。君も来るか」 「遠慮しとく。あたしはまだ納得できてないし」 「何をすれば良いのかは保留という事かな」 「そんなとこ……まあ行ってきなよ、夕飯適当に作っとくから」  彼女の厚意に甘える事にし、コートとマフラーを身に着け、用意していた紙袋を持った私は冬の外に出た。 ЯR 「獄中の飯はどうだ。美味いか」 「美味い訳無いだろ」 「死ぬまでに出られたらご馳走でも作ってやろう」 「残念だったな既に模範囚だ。死にゃしねえよ」 「本当に口だけは達者だ。入ったばかりでもう自分を偽ってるのか」 「馬鹿言うぜ。元警察官を舐めるな」 「オレンジ色のつなぎ姿に手錠と足枷とは大層な飾り気の模範囚だな」 「|揶揄《からか》う為に来たなら帰れ」  廃村での一件で私は確かに自らを撃った。肩に顔を乗せ微笑みを浮かべる彼女に二発、そして私自身に二発。紙で作られたおもちゃのような弾丸は火薬の量が極端に少なく、頭を狙って撃ったところで頭蓋骨にめり込んだだけで致命傷にも脳へのダメージにもならなかった。とは言え左のこめかみに撃ち込まれたそれは左目の視神経を圧迫し傷付けてしまい、以来私は片目を失明し動かす事もできない。今ではブルガーコフの形見の眼帯を使って死んでしまった左目を隠している。  そしてヴィズドムィは刑務所に入っていた。三人を殺害した犯人として自首し投獄され、即日判決された彼の罪状は懲役四十六年という途方の無い年数が掛かるものだった。模範囚として過ごしていれば多少減刑される事もあるが、それでも現在の年齢を考慮すると終えるまでに生存している可能性は限り無く低い。同時にそれは私にも言える事だった。半世紀近くも経てばこの件を覚えている者など消え去ってしまうに違い無い。この街ではただひとり、エリューシュカを除いては。  廃村からここに至るまでの経緯は病院でエリューシュカから聞いた内容が全てだった。頭を撃ち抜いて倒れた私に対し敵意を喪失した彼は、エリューシュカと私、ペチカを引き連れて下山、警察に事情を告げて事を収めた。私たちは事件のあったW国ラビリンスクへ移送され、それぞれ拘禁、入院、保護の措置を受けた。トリグラフ作戦は既に終了しており、後日M国政府による誓約書を書かされた私は問題行動を起こさない限り再入国等を認められるようになった。 「それで、何しに来たんだ」 「君にこれを届けようと思って」  持参した紙袋から少しだけ頭を出すと彼が反応する。「ベルヴェデーレか」  幾分窶れた顔で目を輝かせ始めたヴィズドムィだったが、即座に監視官が警告してきた。「酒類の差し入れは禁止ですよ」 「名前で酒と分かるのはなかなかだが野暮が過ぎる。本当に差し入れたいのはこっちだ」  監視官に一言物申し、私はコートの懐に手を入れた。取り出したのは一本の枝葉で、穴から香りが向こうにも漂ったのか彼が反応した。「月桂樹だな。行って来たのか」  頷くと、彼は続けて言った。「ご苦労なこった」  その言葉に私は目を閉じた。脳裏に浮かんだ記憶を彼にも聞かせてやった。  退院後店に戻り、私はすぐさま再びジラント連山の廃村へと向かった。たったひとりで向かったため傍らにエリューシュカもいなかった私の脳裏には、しかし自らを呼ぶ声が聴こえた。やり残した事があるから早く来て、あの家で待っているから──そんな言葉が寝ても覚めても響き渡り、気付けばその家の前に立っていた。家の隣にあったヒーターは燃料切れで停止し、掛けられたビニールも風雪に曝され所々に穴が空いている有様だった。私はそのベールを持って来たナイフで破り取ってゆく。|露《あらわ》になった月桂樹はやはり厳寒と風雪によって激しく傷んでいた。そして、その横になるべく深い穴を二つ、掘った。  穴を掘り終えた後、私は家の中へと入った。再び家主を失った家は窓が割れ隙間から粉雪が侵入していた。キッチンを抜け奥の部屋へと向かうと、そこには放置されたままの彼女たちの遺体があった。私はどちらもすっかり軽くなってしまったその遺体を運び出し、穴にそれぞれ寝かしてやった。 「生命の樹に参らんとする名も無き旅人さん。戻って来てくれてありがとう」 「いたのなら名前くらい呼んでくれ」 「そんな風に言わないで」  背嚢から目的のものを取り出す間、彼女が話し掛けてきた。 「結局街角の亡霊は頭から離れてはくれないのね」 「しかしあれ以来街では見かけなくなったよ」  背嚢から取り出したのはペットボトルに入れた灯油だ。それぞれ流し掛け火を点けたマッチを投げ入れるとたちまち燃え上がり煤けた煙が立ち昇り始める。炎の勢いで周囲の雪が解けると、その下から点々とした緑が見え始めた。その緑は目を凝らしてよく見ると、名前を聞いても記憶に無さそうな小さな芽のようなものだった。既にここの植物たちは雪解けを待ち望み、彼女の願いの一部たる一新を請け負っていた。 「どうして戻ってこようと思ったの」 「君が呼んだからさ。やる事はこれで合っていたかい」 「ええ、でもできればこの樹も、この家も」彼女が見上げたのは彼が植え手厚く育ててきたであろう月桂樹と、他の家々と同様、後は朽ち果てゆくだけの廃屋だった。「枝を手折って。貴方たちの地に。魂さえも穢れ無く刷新されるように」 「そうしたら君は消えるのか」 「それはやってみなければ」  私は彼女の言われた通りにした。傷みの少ない健康な部分の枝を手折り、灯油を幹に掛け流し、家の中にも全て撒いて流した。玄関扉に火を点け月桂樹にも火を放つ。視界いっぱいが赤く燃え盛り晴天に舞い上がった。炎が消えるまで待ち、過去の名残りが消し炭になった時には彼女の姿もまた消えていた。手の内に残ったのは月桂樹の枝葉が一本だけだった。  だから今日はこれを届けに彼の元へやって来た。お互い死ぬまでに何度顔を合わせ仲間たちに言葉を尽くしていけるかは分からない。殺人鬼に心を許すのは今以て自分の頭では理解し難い面もあったが、それを差し引いてなお彼には近しい感情を抱いている事も事実だった。それは彼もまた同じだと信じたい。 「無人とは言え木造建物への放火か。もうあの国には鼻先も入れないな。あんたも晴れて犯罪者だ」  ヴィズドムィが喉の奥で笑いを堪えながら言う。当然、それは承知済みの行動だった。 「お互い罪を償って自分がした事を死ぬまで問い続ける。血を流しても死ぬ現実は有り得なかった者同士、君の言う唯一無二の友情として。それでどうだろう」 「言われなくても分かってる」  ヴィズドムィは身動ぎし僅かに顔を俯かせた。その姿に、私はあの日から確かめたかった真偽を彼に訊ねた。 「私たちはずっと同じ夢を見たかったのかな」  すると彼は顔を上げて一瞬目を合わせてくれた。  そして、ここではない遠い場所に向けた瞳を、やがて震える瞼で覆い隠した。  了

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