懐恩 | 第4章 再生
龍 明道

再生(3)

 ティサンの予想と違って、調練の地に向かうニャムサンの機嫌は悪くなかった。都には一泊しただけで、訳経所に寄らずに旅を続けたので、体調もよさそうだ。  今回はタクを帯同して三人で都を出発してから三日目のこと、背後に迫る馬蹄の響きに振り返ったニャムサンが、眉間にしわを寄せて険しい顔をした。呂日将も振り返って見ると、十人ほどの騎馬兵たちが駆け寄ってくる。先頭にいたのはバー・ケサン・タクナンだった。呂日将はタクとともに馬を降りた。追いついた一行も、レン・ケサン以外は下馬する。  騎乗のままのニャムサンとレン・ケサンは、まるでケンカのような乱暴な口調で言い合いを始めた。  応酬が五回ほど繰り返された後、レン・ケサンが、呂日将に目を向ける。その視線に先日と違う好意の色が見えて、呂日将は戸惑った。 「こやつは貴公が翻訳者のひとりだと言い張ってきかぬのだが、まことか」  突然、レン・ケサンが唐語で語りかけて来た。ニャムサンの言葉がピタリと止まる。  唐語で話しかけられたのだから、唐語で返していいのだろうか。呂日将が戸惑っていると、レン・ケサンは弾けるように笑い出した。 「失礼した、呂将軍。陛下よりお話をうかがっておる。オレもこれから陛下のご命令でシャン・ゲルシクのもとに向かうところなのだ。オレのことはご存知だな」  いっきに肩の力が抜けた。 「ティサンどのよりうかがっております、レン・ケサン将軍」 「タクナンと呼んでくれ。ケサンという名は多いので、誰のことやらわからんのだ」  そういえば、賛普を暗殺したという先の大相も、ケサンという名だった。  ニャムサンが口を挟む。 「唐語を話せたのか」 「バカにするな。周辺国の主な言葉はたいてい出来る。オレは敵との交渉も、捕虜の尋問も、自分でする主義なのだ。部屋のなかで座ったまま、焼き付け刃の唐語でああでもないこうでもないとチマチマやっているおまえよりは、よほど話せるぞ」  ニャムサンは真っ赤な顔をしてそっぽを向いた。  呂日将が騎乗すると、タクナンは隣に馬を寄せる。そのまま並んで歩を進めた。 「去年、オレは南方の守りにいて、京師の攻略には参加出来なかった。もしも参戦していたら、みすみす日将どのに夜襲などさせなかったぞ」 「機会がございましたら、是非お手合わせ願いたいものです」 「おう、よく言った。覚悟しておけ」  その自信が決して過剰ではないのは、昨今の剣南での彼の戦いぶりからうかがえる。いかにも豪傑といったタクナンの言動に、呂日将の不安は吹き飛んだ。  しかしニャムサンが口を開けば言い争いになる。言葉のわからない呂日将には、ふたりがなにを争っているのかすら理解出来なかった。タクナンの家来も、タクも、困った顔をして眺めるだけで口出ししようとはしない。ニャムサンは、タクナンのことを「狂犬みたいに噛みつく」と言っていたが、一歩も引かないニャムサンもいい勝負だ。そんな口論が数回繰り返された後、ニャムサンはプイッと一行から離れてしまった。つい不憫に思って、呂日将は憮然としているニャムサンを慰めに行く。  タクナンのもとに戻ると、彼は苦笑いを浮かべた。 「日将どのもゲルシクどのと同じく、あやつに甘いのだな。みな、あの見た目にコロリとやられてしまう。顔だけは天女のように可憐だから、思わず庇ってやりたくなる気持ちはわからんではないが、そう甘やかすから目上の者をないがしろにする、ふざけた態度をとるのだ。少しはあの高慢な鼻柱をへし折ってやったほうが本人のためだぞ」 「しかしニャムサンどのもご苦労されたようですし、そこをゲルシクどのはお認めになられているのではありませんか」 「ご苦労?」  意外なことを言う、というように、タクナンは目を丸くした。 「飛ぶ鳥を落とす勢いのナナムのボンボンに、苦労があるものか」  タクナンはナナム家の内情を知らないのだろう。だが、そのことを部外者の自分が話すのははばかれて、それ以上弁護することは出来なかった。  翌日も、飽きずにふたりは口論に終始した。自分に関係ないこととはいえ、常に争いを見せられて、気疲れがしてならない。  ありがたいことに、三日でタクナンのほうが折れた。これ以上ニャムサンとは一緒にいられないから、先に行くと言う。 「日将どのもご一緒にどうか」  タクナンの誘いに、ニャムサンをつけてくれた賛普のおこころづかいに背くわけにはいかないと断ると、「お坊ちゃまのおもりは大変だな。では、あちらでお会いしよう」と去って行った。  名残惜しく見送る呂日将に、ニャムサンは子どものように膨れた。 「おもりはいらない。必ず一緒にいろなんて命令はないのだから、あいつと行けばいい。いくさバカ同士、話が合うのだろう」 「そうつれないことをおっしゃらないでください」  呂日将が笑うと、ニャムサンは大きく息を吐いた。 「すまない。八つ当たり」 「それにしても、争いごとがお嫌いとおっしゃるニャムサンどのらしくない。なぜタクナンどのとは争われるのだ」 「ケンカを売って来るのはあいつだ」  それからはニャムサンの機嫌も直り、三人は無事に調練の地に到着した。見張りの兵はニャムサンの顔を見ると深々と礼をして、なにも言わずに通す。  やがて、土煙をあげて走り回る騎馬隊の姿が見えてきた。  呂日将がこの地を訪れるのは三度目だが、兵たちの姿を見るのははじめてだ。思わず笑みがこぼれる。 「やっぱり日将どのもいくさバカだ。あんなもの、わたしはぜんぜん面白くない」  文句を言いながらグズグズとしているニャムサンを置いて、呂日将はもっとよく見ようと近づいて行った。  ひとりの騎馬武者が、演習している隊を迂回して、向かってくる。タクナンだ。 「ゲルシクどのもルコンどのもお待ちしている。こちらにいらっしゃれ」  タクナンは馬蹄の響きに負けぬよう怒鳴った。ニャムサンは、と振り向くと、はるか後方で凶悪な顔をしてタクナンを睨んでいる。タクナンはそれを無視して颯爽と呂日将に駆け寄ると轡を並べた。  ゲルシクとルコンはすっかり仲直りしたらしく、並んで調練を監督していた。ゲルシクが笑顔で呂日将を迎えると、ルコンはあとからゆっくりと向かってくるニャムサンを見て眉をひそめた。 「どうしたかな。いつにも増してご機嫌斜めのようだが」  呂日将が答える前に、タクナンが言った。 「甘ったれているのだ。放っておかれよ」  唐語を解さないゲルシクは、満面の笑みで身を乗り出してニャムサンに手を振った。  それから半日、調練を見物した。昨年、呂日将が対戦したときには千数百騎だった精鋭騎馬隊は、賛普の意向によって二倍以上増加されて三千騎になっているという。隴右の地を占有したおかげで質のよい馬を容易に入手出来るようになった、とルコンは言った。  呂日将の目から見ても、精鋭騎馬隊の動きは決して唐の軽騎兵に劣るものではなかった。彼らとともに祖国を侵略することになるかもしれない、という罪の意識は、早く彼らとともに馬を走らせてみたいという熱情に飲み込まれて行く。  調練が終了すると、将校たちがルコンとゲルシクの講評を受けるために整列した。曹可華と年の変わらぬような十代半ばの少年もいる。他の兵士たちは夕食の準備に取り掛かっていた。  将校たちが散ると、ルコンが目配せをして、ひとの群れを離れる。呂日将はその背に続いた。  ふたりだけになると落ち着かない。ゲルシクに対しては、なんらわだかまるものを感じることはないのに、ルコンを前にすると、胸になにかがつかえるような不快な気分を感じる。  ルコンは小さく笑んだ。 「タクナンどのとニャムサンとの諍いに巻き込んでしまったようですな。申し訳なかった」 「別にわたしに害があったわけではないので謝罪はいりません。しかし、いったいなにを争われていたのでしょう」 「口の利き方が悪いとか、そんなつまらんことだろう。あのとおり目上の者に敬意を払うということを知らぬニャムサンが悪いのだが、タクナンどのもタクナンどので飽きず咎めるから、常にいがみ合っている。日将どのはタクナンどのをどう思われた」 「わたしは、さっぱりとした気質の方と好印象を持ちました」 「よかった。タクナンどのがいらっしゃる間、いろいろ教えてやっていただけるか」 「もちろん、喜んで」 「ニャムサンは明日にも帰してやろう。見たくもないものを見せてもかわいそうだ」 「本当にニャムサンどのはここに来たくなかったのでしょうか。 タクナンどのとともにいるとき以外ははむしろ機嫌がよかったようなのですが」  ルコンはあごを撫でて一瞬空を睨んだが、フッと笑みを漏らした。 「本当はわたしやゲルシクどのに会いたかったのかな。マシャンどののこともあるし、気が疲れているのかもしれん。久しぶりにゆっくりと話しを聞いてやろう」  賛普はそれがわかっていてニャムサンを同道させたのだろう。年若いながら目端の利く君主を羨む気持ちがわいてきて、呂日将はため息をついた。ルコンがそのようすをじっとうかがっていたのに気が付いて、いっそう居心地の悪い気分になる。 「お話がお済みでしたら……」  言いかけた言葉に、ルコンが割り込んだ。 「無理をされてはおられぬか」  意味が分からず、ルコンの目を見返してしまう。 「どのような結果になるにしろ、ケリが着いたら唐にお帰りになるだろう。いずれまた敵対することもあるに違いない。ご使者としての仕事以外に、これ以上……」 「ご懸念には及びません」  ムッとして、今度は呂日将がルコンの言葉を断った。自分の行動は自分で決める。この男にいちいち指示をされるのは願い下げだ。 「わたしがこの国に情を残して手心を加えることをご心配なら無用です。次に敵として戦場でまみえたときには、必ずその首を頂戴いたす。その決意も変わりません」  ルコンは苦笑いを浮かべた。 「なら、よい」  踵を返したその背中をにらみながら、呂日将は唇を噛んでいた。  それから五日後、呂日将は都に帰るニャムサンを調練場のはずれで見送った。見違えるほど顔色のよくなったニャムサンは笑顔で言った。 「これからはもっと考えて行動する。ちゃんと寝るとか食べるとか、とにかく周囲に迷惑をかけないことから始める」 「それはよかった」 「悔しいけど、タクナンが甘えているというのは当たっている。尚論たちは訳経事業を賛普の気まぐれのお遊びだと思っている。いくさと同じくらい重要な仕事だと皆に認めてもらいたいけどわたしの努力が足りないから、理解してもらえないのだ」 「現場を見たわたしはご立派な仕事だと思いました。きっと他の方々にもわかってもらえる日が来ますよ」  ニャムサンは顔を輝かせた。 「いくさバカだけれども、日将どのは話がわかる。冬にルコンたちと一緒に都に帰って来る、それまでに、もっと唐語をしゃべれるようにする」  はじめて会った頃に比べれば、ニャムサンの唐語はだいぶ上達している。次に会うときには違和感がないほど話せるようになっているかもしれない。  ニャムサンは手を振ると、馬腹を蹴る。タクは慌てて呂日将に礼をすると馬に飛び乗り、主を追った。

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