懐恩 | 第2章 摂政の失脚
龍 明道

摂政の失脚(4)

 呂日将は、目の前の馬重英がうつつにいる者とにわかには信じられなかった。  数え切れないくらい、夢に見た顔だ。  つい数日前、莫離の宿でも、自分をあざ笑った。  礼を交わそうとして、身体が強張っているのを感じる。 「遠路はるばる、わたしの首をとりにいらしたか」  労るような声色は、鳳翔のときと同じだ。目上の者が諭すような口調。  やはり甘く見られている。  その悔しさが声に表れてしまわないように、大きく息を吸い込み、応えた。 「その約束は、戦場にてまみえましたときに必ず。レン・タクラ将軍」 「ほう、わたしのまことの名をご存知か」  馬重英の驚いた顔を見て、フッと身体の力が抜けた。呂日将はようやく笑みを浮かべることが出来た。 「苗侍中からお教えいただきました」 「苗晋卿さまは侍中を辞められて太保となられたと聞いている」 「間者が京師にいるのですな。わたしはその前に京師を離れましたので、存じませんでしたが、まつりごとを離れたらゆっくり過ごされるとおっしゃっていた」 「それはいい」 「シャン・ゲルシク将軍は」 「ゲルシクどのはあとから参ります。僕固懐恩将軍からのご使者とうかがったが、間違えはござらぬか」 「はい。密使にござりますれば、正式な手続きを踏まず、入国いたしました。まずはレン・タクラ将軍と、東方の元帥であらせられるシャン・ゲルシク将軍にお会いしたかったのです」 「ゲルシク、来た、来た」  はしゃいだ声をあげてシャン・ゲルニェンが指し示す先にあったのは、鳳翔で後衛を率いていた将軍の顔だった。 「あの方が、シャン・ゲルシク将軍でしたか」 「さよう。|盩厔《チュウチツ》の夜襲で、貴公を迎え討ったのはあの将軍です」 「そうだったのですか。あのときは暗くて相手の顔もわからなかった」  シャン・ゲルシクは、ぐったりとしたシャン・ゲルニェンの家来を後ろに乗せて速歩でやって来た。駆け寄ったシャン・ゲルニェンは馬を指差してゲラゲラ笑っている。 「あやつがうっかりゲルシクどのの馬に乗って来てしまったから、遅れたのです」  レン・タクラが肩をすくめた。鳳翔ではいまにも飛び掛かって来そうな殺気を放っていたシャン・ゲルシクが、眉を下げ、悲し気な顔をしているのがおかしくて、呂日将もつい笑ってしまった。 「憎めないお方ですな、シャン・ゲルニェンどのは」 「あれでも|賛普《ツェンポ》の従兄弟です。筆頭尚論である大相と並ぶ地位につくはずだったのに、自分で投げ出した変わり者だ」 「あ、では先の摂政の……」  曹健福が声をあげた。一瞬、レン・タクラの顔に暗い影がさす。 「弟君の子息だ。だが心配はいらぬ。シャン・ゲルニェンはシャン・マシャンと違い、そなたがなにを商っても文句を言うことはない。彼の前でその名を口にするな」  曹健福は慌てて顔を伏せた。  一行はその場に留まることを命じられた。商隊が天幕を張るとシャン・ゲルシクは自ら兵を指揮して肉や酒を運ばせた。  将軍たちは、炎を囲んで車座になった。シャン・ゲルシクには曹健祥が、シャン・ゲルニェンには曹可華がついて通訳をする。 「堅苦しい呼び方はやめようぜ」  シャン・ゲルニェンは曹可華を通じて呂日将に言った。 「いちいちシャンとかレンとかつけれられちゃ閣議みたいで居心地が悪い。おれはニャムサンでいいよ。小父さんはルコン、おっさんはゲルシク」  ゲルシクは「うんうん」というようにうなずいている。  ルコンが話しを切り出した。 「お察しのとおり、われらは京師に間者を置いている。彼らに、われらと関係した者の消息を報告させたのだが、貴公のみ『不詳』となっていたのだ。いったい、どうされていたのか」  呂日将は吐蕃軍が去ってからのことを、詳しく語った。  ルコンはほとんど表情を動かさなかったが、ゲルシクはくるくると表情を変えた。馬璘に叱責されたことには憤然とし、呂日将が酒に溺れ、もう少しで自害するところであったという話しには、いまにも涙を流さんばかりになった。呂日将はゲルシクの裏表なくサッパリとして、情け深いようすに好感を抱いた。  先ほどまで曹可華や家来のタクという若者と戯れ合っていたニャムサンは、呂日将の話しが始まると、まるで親の敵でもあるかのように目の前の炎をにらみつけて、黙り込んでしまった。整っているだけに、炎に赤く照らされて印影を深めたその顔は、すごみを増して気味が悪い。  ルコンが初めて笑みを見せたのは、苗晋卿との対面を語ったときだった。 「まだ青二才とおっしゃったか」 「はい。せっかちなやつだと」  ニャムサンが、いきなり大声をあげた。曹可華も同じ調子で叫ぶ。 「ふたりとも、バカだよ」  ルコンが諌めるようになにかを言うと、ニャムサンはルコンにかみつくように怒鳴った。曹可華は必死にニャムサンのまくし立てる言葉を訳す。 「だってそうじゃないか。そりゃ、いくさで死ねば世間の人間は褒めてくれるしさ、格好よく死ねて本人も満足なんだろう。でも残された人間がどんな思いをするかなんてなんにも考えないで、勝手だよ。そんなふうにふたりが死んでさ、おまえらを守るためとか言われたって、当のトンツェンやツェンワやラナンが喜ぶわけがないじゃないか」  立ち上がると、ニャムサンは曹可華を連れてどこかに行ってしまう。ルコンは苦笑いを浮かべた。 「失礼いたした。あれは生まれたばかりで父母を亡くし、育ての親であった伯父も自らの手で、文字通り墓に葬るという経験をしている。身近な者を失う辛さを知っているから、死というものに敏感になってしまうのだ。話を続けてくだされ」  呂日将はうなずくと、宦官に殺されかけたことから僕固懐恩の使者となった経緯までを話した。ルコンはうなずいた。 「なるほど、これで日将どのが僕固将軍のもとに走ることになったわけがわかりました。さて、僕固将軍はわれらになにを求めていらっしゃるのか」 「隴右に残る貴国の軍と、僕固将軍は連絡を取り合っているそうですが」 「僕固将軍がそうおっしゃっているのでしたらそうなのでしょう」  はぐらかすような物言いに、呂日将は苛立った。 「まだ、京師を狙っておられるのではないですか」 「とにかく、いま押さえている地の支配を確かにすることが重要です」 「僕固将軍にお味方くだされば、それは保証します。そのためにも、隴右の軍だけではなく、この国の主力をあげての援軍が必要です。昨年同様、ルコンどのとゲルシクどののご出陣を願いたい」  ルコンは渋面を作ってため息をついた。 「僕固将軍のお立場には同情申し上げる」 「ならば」 「これはわたし個人の感情でどうこう出来る問題ではない」 「では、賛普をご説得いただきたい」 「申し訳ないが、それは出来かねる。わたしは反戦の立場なのです」  意外な言葉に、息をのんだ。 「いま、僕固将軍に同情されるとおっしゃったではないか」 「だから、それはわたしの個人的な感情だ。だが、尚論という立場に立てば、あと二、三年は唐とことを構えるのは得策ではないというのがわたしの考えです」 「なぜです。昨年となにが違うというのです」 「程元振が失脚した」 「しかし、新たに魚朝恩という宦官を帝はご寵愛遊ばしているという。わたしにはなにも変わっていないように感じます」 「宦官と申しても、ものの見かた、考えかたがすべて同じとは限らぬ。日将どのは運悪くこころの黒い宦官に目をつけられてしまったが、魚朝恩がそうとは限らない。実際、郭子儀や馬璘といった昨年功績をあげた将軍の処遇も変わりつつあるように見えます。今後、唐がどう変わるか、それを見極めねば動けません」 「怖気づかれているのか」 「貴公はいくさのことしか考えておらぬのだな」  当たり前ではないか。戦場で帝と唐のためにいのちを掛けることだけを考えて生きて来たのだ。そうした武人の生き方を愚弄されたような気がして、呂日将は頭に血が上るのを感じた。  ルコンは呂日将を眺めながら目を細めた。 「ときどき、貴公のような生き方が羨ましくなることがある。しかし、この国の尚論は武人と官吏を兼ねます。まつりごとのことも考えなくてはならない。国の運営には臆病さも必要だ」  すがるような思いで、ゲルシクに向かう。 「ゲルシクどのはいかが思われる。やはり、いくさには反対ですか」  曹健祥を通じてふたりのやり取りを聞きながら、黙々と酒を飲んでいたゲルシクは憤然としたようすで言った。 「儂はいつだっていくさからは逃げん。貴公や僕固懐恩という者の事情を聞くにつけ、唐のやり口には我慢がならん」  呂日将が希望を見出したと思った瞬間、ゲルシクはちらりとルコンを見、大きく息をついて肩を落とした。 「しかし、国がどう動くべきか、などということに関しては、ルコンどのほど見通すことが出来ぬ。ルコンどのがようすを見たほうがよいとおっしゃるのなら、それが正しいのだろう」  目の前が暗くなった。なんの根拠もなく、ふたりは賛同してくれる気がしていたのだ。 「なんだ、もうやる気をなくされたか」  よほど気落ちした顔をしていたのだろう。ルコンが笑った。思わず、にらみつけてしまう。 「いくさをする気がないルコンどのにとって、わたしは疫病神でしょう」  ルコンは肩をすくめる。 「だから?」 「帰れと命じられたら、無力なわたしは帰るしかない。いや、この場で消してしまおうと思われてもどうしようもない」  そのときは刺し違えてでも、この男だけは殺してやる。  その殺気を感じ取ったのか、ルコンは緩やかに笑みながら言った。 「そのご覚悟は戦場にて承ろう。わたしの一存でどうこう出来る問題ではないと申したではないか。話を聞いてしまったからには陛下にご報告しないわけにはいかない。このまま都に向かわれればいい」 「え、では」 「この国の方針は、重臣と各地の部族の王たちの会盟にて決定する。そこに参加する者の多くが僕固将軍との同盟に賛同するかどうかが問題です。ニャムサンはそろそろ陛下のもとへ帰るので、途中で追いつくはずだ。彼に相談すれば、道は開けるだろう」  ルコンは懐から木簡を取り出してなにやらスルスルと書きつけると、ゲルシクとともに署名し、呂日将に差し出しす。呂日将は礼を言ってそれを受け取りながら、また敗北を喫したような悔しさを、胸の内にうねらせていた。

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