懐恩 | 第1章 馬重英
龍 明道

馬重英(7)

 厳祖江も鳳州に行くことになると知ると、小群は田舎はイヤだと渋った。 「オレはここで別の旦那を見つけますから、辞めさせてください」  厳祖江は承諾した。そのうえ苗晋卿からもらった金の半分を小群にやってしまった。小群はそれを受けとると、サッサと立ち去ってしまう。 「これであれも新しい勤め先を見つけるまでなんとか過ごせるでしょう」 「ずいぶんとあっさりしたものですな。よいのですか」 「たまたま、仕事の欲しい小群と、従者の欲しいわたしが出会って主従になったのです。まあ、これから従者は必要ないからちょうどよかった」  ニコニコ顔の厳祖江に、呂日将は妙に感心した。  呂日将の身体は、年が暮れる頃にはすっかり以前の強靭さを取り戻した。厳祖江とは主従というよりも親友のような間柄になっている。聞けば年齢は呂日将と同じ、二十七だった。 「オレよりも二つか三つ上かと思っていた」  呂日将が言うと、厳祖江は自分の頬を軽くたたいた。 「そんなに老けてみえるか?」 「貫禄があるのだ。羨ましい」 「そうかな。まあ妓楼では偉そうに見えるからかモテるぞ。仕えていた主人よりモテて、クビになったことがあるくらいだ」 「よし、まことかどうか、今度試しに行こう」 「おう、望むところだ。美男の日将どのがフラれるのを見るのはさぞ気分がいいだろう」  厳祖江と戯言を言い合って笑う呂日将の心中に、ひと月前までの暗さはまったくなくなっていた。武術を磨くことは怠らなかったが、厳祖江と街に出て遊ぶ楽しみも覚えた。  これまでは戦場でしか喜びは見いだせなかった。だが、このように、穏やかな日々のなかの、小さな幸いをかみしめて暮らすのも悪くないものだ。  酒に酔って放歌する厳祖江と肩を組んで、夜道をそぞろ歩きながら、呂日将はしみじみと思っていた。  ふと、厳祖江はがなり声を止め、ろれつの回らぬ口で言う。 「おい、オレはいのちを掛けるものを見つけたぞ」 「なんだ急に。さっきの店の女か?」 「ふん。あの女、オレに酌をしながら日将どのに色目を使っていやがる。誰がいのちをくれてやるものか。クソッ。思い出したら腹が立ってきた」  呂日将はカカと笑った。自分のほうがモテると豪語していたのはどこの誰だ。 「ちぇ、もう教えてやらん。日将どのはなにかあるか」 「教えてくれないのに聞くのか。まあ、いまはまだないな」 「じゃあ、新しく見つければいい」  厳祖江は、満天の星に向かってまた歌いだした。  馬重英の夢は一日おきになり、二日おきになり、やがてまったく見ることがなくなった。死んで行った部下たちのことを思うと申し訳ない気分になるが、馬重英にたいする憎しみが薄れていくことを止めることは出来ない。彼のまことの名を必要とする日など、来ることはないだろう。  レン・タクラ。  いつの間にか、それは、記憶の波に呑まれてしまった。  年を越し、広徳二年の一月はなにごともなく過ぎた。巷では、いよいよ挙兵の事実が明らかとなった僕固懐恩の噂で騒然となっているようだが、呂日将には遠い世界の出来事にしか感じられない。  二月にはいってすぐ、五十の兵を連れた宦官が鳳州にやって来た。  勅使である、という宦官王徳浩を、呂日将は館の門前で拝礼して迎えた。これまでの怠慢を咎められるのだろうと思っていた呂日将に、王徳浩は意外なことを言った。 「僕固懐恩と呼応して挙兵しようと企んでおるであろう」  もちろんまったく身に覚えのないことだ。知らず、逆らうような口調になっていた。 「わたしにはまるで心当たりがございません。なにかのお間違えではありませんか」  王徳浩は、大げさに驚いたような声をあげた。 「ほう、恐れ多くも主上の代理である儂にそのような口を利くか」  呂日将は顔をあげると、王徳浩の蛙のような顔をまともに見据えた。 「どこにそのような兵がございますか。お疑いなれば存分にご検分ください」 「不遜ななやつめ。申し開きは京師にてするがよい。呂日将を捕らえよ」  王徳浩が命じると、数人の兵が近づいて来た。  僕固懐恩と通じているなどとは、言いがかりだろう。本当に謀反を疑っているのならば、こんな少人数で捕らえに来るわけがない。内偵で、部下たちが立ち去ったことも知っているのだ。  諦めの気持ちが湧いて来た。呂日将は目を閉じる。その腕に、兵士の手が触れたと思った瞬間、突風が吹き抜けるような音とともに、ギャッという叫び声が聞こえた。  目を開けると、大きな背中が立ち塞がっている。 「なにをしてる。逃げよ!」  太刀を手に仁王立ちする厳祖江の向こうには、血を吹き上げて転がる兵の身体と、息をのんで立ちすくむ兵士たちの姿が見えた。 「祖江どの、よいのだ」 「なにがいい。侍中さまのおっしゃったことを忘れたか」  王徳浩の声が聞えた。 「かまわぬ、この場で斬り捨ててしまえ」 「日将どの、生きよ! どこまでも行くのだ!」  叫びながら、厳祖江は兵に向かって身を躍らせた。  左から右に大きく振られた厳祖江の太刀を先頭の兵士は飛び退って避けた。空振りした厳祖江がよろける。 「あぶない!」  がら空きになった左脇に飛び込もうとする兵士を、体当たりして突き飛ばし、厳祖江の手から太刀をもぎ取った。 「まったく、見ておれんぞ。どいてろ」  言いながら、右から振り下ろされて来た剣を払い、返す刀で右から左にその主の胴をなぎ払う。  倒れるそれを避けようとしてよろけた兵士の首を、ふたたび返した刃が飛ばす。  舞うように身体を回転させるとその勢いで、左から踏み込んで来た兵士を、首の付け根から脇腹まで斜めに斬り下げる。  一瞬の間に血しぶきをあげながら倒れた三人の兵士を見て、怖気づいた敵はジリジリと後退し始めた。  こんな弱卒で捕らえることが出来ると思われていたのか。  なめやがって!  ようやく怒がこみ上げてきて、奥歯を軋ませた。 「さあ、次に死にたいやつは誰だ! どこからでも来い!」  切っ先を向けてそれを解き放つと、赤い雫が王徳浩の額に飛んだ。目を見開いた王徳浩が、ヒッとひきつった声をあげる。ひとりの兵士が背中を見せて逃げ出した。他の者も、バラバラとそれに続く。 「ま、待て、返るのだ」  自分も逃げながら、王徳浩が金切り声をあげる。  疾走った。  必死に逃げる王徳浩に、軽々と追いつき、追い越すと、振り向いて行く手を塞ぐ。 「あ、あ……来るなッ、来るなァッ」  王徳浩がメチャクチャに刀を振る。呂日将が軽く後退ってそれを避けると、ヘニャヘニャの太刀筋が大きく左に振れて身体が開いた。その姿が、鳳翔で馬重英に戟をたたき落された、無様な自分の姿と重なる。  怒号とともに踏み込み太刀を振り降ろすと、刀を握ったままの右腕の半分が飛んで地に転がった。  一瞬遅れて放たれた王徳浩の悲痛な絶叫を打ち消すように、雄たけびが背後からあがった。  振り向くと、五騎の兵が、こちらに向かって突進してくるのが見える。  いざというときのために、騎兵を隠していたのか。  こうなったら、ひとりでも多くを道連れに討ち死にするだけだ。  スウっと息を吸うと、呂日将は太刀を構えた。  だが、そのはるか先で、騎馬兵は散開して槍を振るい始める。  彼らが餌食としたのは、逃げ散っていた王徳浩の兵たちだった。 「将軍! お怪我はございませんか」  あっけにとられて見つめていた呂日将のもとに、ひとりの将が馬から飛び降りて駆け寄って来る。  楊志環の顔を認めて、呂日将は剣を下ろした。  続いて馬を降りた者たちは、武器を投げ捨てて降参した兵と、半分になった腕を抱え泣き叫ぶ王徳浩を捕らえる。  みな、よく知っている呂日将の配下たちだ。 「戻って来てくれたのか」 「はい。兵が鳳州に入ったのを見た者から報告を受けて、もしやと思い、駆けつけたのです」  思わず、左手で副将の肩を強くつかんだ。笑みを浮かべかけた楊志環が、急に気遣わしげな顔になって呂日将の背後をうかがう。 「あの、あちらの方はお知り合いでしょうか? 怪我をされたのでは……」  振り向くと、門前で血にまみれた厳祖江が白い顔をしてへたり込んでいる。  どいていろと言ったのに。  厳祖江は呆然とした表情で、走り寄る呂日将を振り仰いだ。 「斬られたのか」 「いや、それは多分、大丈夫」 「どうした」 「ひとを斬ったのは、はじめてなのだ。いまになって怖くなった」  安堵した。腕を取り、厳祖江を助け起こす。 「すごかったな」  厳祖江の顔に血の気が戻ってきた。 「剣さばきがまったく見えなかった。あっという間に三人倒れていた。オレの助けなどいらなかったではないか」 「祖江どのがオレの目を覚ましてくれたからだ。あれは刺客だ。素直に捕まっていたら、京師に着く前に殺されていた。祖江どのには助けられてばかりだな」  楊志環が叫んだ。 「将軍、生きている者はすべて捕らえました。どうしますか」  呂日将は楊志環にうなずくと、絶叫を続ける王徳浩にゆっくりと歩み寄った。 「呂将軍、お助けくだされ! 儂は命じられたとおりにしただけなのだ」  抜き身を下げた呂日将がその前に立つと、王徳浩は血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた顔を歪めて叫んだ。呂日将は低く言った。 「勅使というのは嘘だな。誰に命じられたのだ」 「駱奉先さまです。将軍が京師にいらしたのは、われらの権勢を疎んじる者と通じるためかも知れないと」 「かも知れない、か」 「懸念の種は芽吹くまえに取り除くほうがいいというのが、駱奉先さまのお考えなのです」  武人に権力を奪われることを恐れるあまり、誣告によって次々と将軍たちを陥れ、吐蕃の京師占領を許してしまった程元振は、その罪を問われ官職を剥奪されて追放されたという。しかし、宦官たちはまったく懲りていないらしい。  呂日将は笑んだ。 「王徳浩どの。京師へわたしの返事を持ち帰ってくれるか」 「おお、お助けくださるのか。なんなりとお申し付けくだされ」  身を乗り出した王徳浩の首元へ、太刀を振り降ろした。  目を見開いた王徳浩の首が、地に落ちて転がる。首を失った身体が、血を吹き出しながらドウッと前のめりに倒れた。  顔にかかった彼の血を無造作に袖で拭うと、生き残った兵たちに言った。 「この首がオレの返事だ。駱奉先に持って行け」

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