第五話 パンケーキ(後編)

 ナターシャはパンケーキに思いを馳せた。パンケーキと言えば、母がフライパンで焼いてくれた薄めのものが思い出された。焼きたてのそれを数枚重ねてタワー状にし、バターを乗せ、シラップをたっぷりとかける。そこにフォークとナイフを差し入れるのが、休日の朝の喜びだった。もしくは、ロベルトおじちゃんの店の〈鉄鍋ごと石窯に入れて焼き上げたもの〉だ。おじちゃんのところのそれは、朝採れの卵をふんだんに使用した、サクサクふんわりとした食感が楽しいものである。同じ鉄鍋にサラダや肉などを豪快に乗せてドンと目の前に置かれるのだが、何度注文しても思わず感嘆の声を上げてしまう。  そういうものを想像しながら日比谷に連れて来られたお店は、何とも可愛らしい雰囲気を醸し出していた。お客は女性ばかりで、誰もが想像していたものとは違う〈見たこともないパンケーキ〉を食べていた。もっとしっかりと見たかったのだが、店員に着席を促されたため叶わなかった。――それにしても、髪を赤く染めてギターケースを背負った日比谷は店の雰囲気に合っておらず、あからさまに浮いていた。 「俺、甘いものがとても好きなんだ」  ナターシャがじっと彼の顔を見つめていると、彼は恥ずかしそうにポツリとそう言った。こういう店は、たしかに女性が好むものである。周りの女性達もそういう思いがあるからなのか、彼を奇異の目で見ていた。しかしながら、男性が甘いものを好きであってもいいと思うし、好きで来ているのに恥を感じるというのは可哀想な話である。  ナターシャは笑顔を浮かべると、親指を立てて「クール!」と返した。すると、日比谷はホッと胸を撫で下ろして小さく笑った。 「女の子は、こういうお店、好きだろう? だから一緒に行くんだけど―― エット……」 『彼女は喜んだフリをします。しかし、彼女は私を気持ち悪いと思います。私は、美味しいものを一緒に楽しみたい。しかし、それは叶いません』 「だから、悲しい」  日比谷は例の板の〈魔法〉を駆使し、こちらの世界で言うところの〈イングリッシュ〉をたどたどしく織り交ぜながら、ナターシャにそう言った。それを聞いて肩を落としたナターシャは、うっかり涙腺が緩みかけた。何故ならつい先日、〈誰かと食事をともにする喜び〉で泣いたばかりだったからだ。そんなナターシャの様子に、日比谷は不安そうに表情を曇らせた。ナターシャは「大丈夫」と返すと、満面の笑みを浮かべて言った。 「私も、美味しいものを一緒に楽しみたいわ」  彼はとても嬉しそうに笑った。――そんな顔もするのか。最初に出会ったときや、あの耳障りな音楽を奏でていたときには、もっと色男を気取って格好つけていたというのに。  店員が、水の入ったグラスとともにメニュー表を持ってやって来た。何でもこの店のパンケーキは、焼くのにかなりの時間を要するという。そのため、注文が決まったらすぐに教えて欲しいということだった。どうしてそんなにも調理に時間がかかるのだろうと思いながら、ナターシャはメニュー表を開いた。そして、まるで宝石箱や愛らしいリボンのたくさん詰まった箱でも開けたときのような、乙女らしいときめきをナターシャは覚えた。――何これ! まさか、王都のパティスリーで売っているスポンジケーキみたいに高さがあるだなんて! これは本当にパンケーキなの!?  メニュー表にはまるで|そのもの《・・・・》を紙に焼き付けたかのような、絵画よりもリアリティのある絵が添えてあった。それを見ているだけでも心が踊ったのだが、特に〈高級品であるだろうチョコレートが生地の全体に練り込まれているもの〉や、〈見たこともないような緑色のもの〉などに目を奪われた。 『どちらにしますか? もしも迷うなら、どちらも頼みましょう。分け合って食べましょう』 「いいわね、それ! そうしましょう!」  魔法の板から発せられた音声に、ナターシャは間髪入れずに食いついた。すると、日比谷がプと吹き出し、腹を抱えて笑いだした。それに対してナターシャが不機嫌を露わにすると、彼は謝罪しながらも「楽しい」「嬉しい」と単語を述べた。――楽しくて嬉しいから笑ったのか。たこ焼きが食べごろの熱さになるよう少しだけ表面を割いてくれていたときにも、先ほど助けてくれたときにも思ったが、彼はやはり〈いい人〉なのかもしれない。そう思うと、ナターシャは心なしかこそばゆい気持ちになった。  注文を終えると、彼は板を通して「また会えるとは思わなかった」と言った。そして板の表面を撫でるように操作すると、彼はその表面を見せてきながら再び口を開いた。 「君は〈夢〉なんだと、俺は思ったんだよ」  板の表面を指しながら、彼は〈これはフォトである〉と言った。そこには、見覚えのある風景が映し出されていた。――先日の、水野と日比谷の通う大学のお祭りの風景である。  彼は〈フォト〉というものが何なのかを教えてくれた。そして、本来であればこのフォトに写った水野と彼の間に、ナターシャが写っているはずだったということも。何でも、このフォトを撮ってすぐはナターシャも写っていたそうなのだが、ふとある時見返してみたらナターシャだけ忽然と消えていたのだそうだ。その話を聞いて、ナターシャはとても悲しい気持ちになった。――私は、こちらの世界のものを持ち帰れないだけでなく、こちらに何かを残すということすら出来ないのね。  しょんぼりとうなだれたナターシャに、日比谷は〈どうしたのか〉と尋ねた。ナターシャは〈探し物をしに、この世界に来ている〉〈もともとそれは、私の世界のものだった〉〈こちらの世界のものは持ち帰ることが出来ない。きっと、こちらの世界に私が何かを残すことも出来ない。だからフォトからも消えたのだろう〉ということを説明した。日比谷は信じられないとばかりに絶句していたが、ナターシャが話し終えるとニッコリと笑って胸をトントンと叩いた。 「でも、俺は知ってる。それは消えない」  彼の優しさが、心に染み込んでくるようだった。ナターシャは涙ぐむと、小さな声で「ありがとう」と呟いた。  しんみりとした雰囲気を払拭しようと、ナターシャは〈先ほどの店は何なのか〉と尋ねた。すると彼は〈大学で〈音楽サークル〉というものに所属しており、ああいう店で演奏するのが活動の一環なのだ〉と教えてくれた。 「へえ、そうなのね。――あのしっとりとした曲、とても良かったわ。あなた、ああいうのをもっと歌ったらいいのに」 「あれはあまり歌うなと言われているんだ」 「何故?」 「サークルのカラーではないから」 「サークルのカラーよりも、あなたのカラーのほうが大切だと思うわ。とにかく私は、あちらのほうが断然素敵だと思ったのよ」  日比谷は目を瞬かせると、心なしか首を傾げさせた。どうやら、ナターシャの言ったことをあまり理解してはいないようだった。ナターシャは言葉が堪能ではない彼にも伝わるようにと、出来るだけ単純な単語を並べてゆっくりと話した。すると、彼は顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。  どうしたのだろうとナターシャが不思議そうに首を傾げさせると、タイミングを見計らったかのようにパンケーキが運ばれてきた。ナターシャは「わあお」と声を漏らしながら、目の前に置かれたパンケーキに釘付けとなった。  高さ五センチはあろうかという黒いそれには、アイスクリームとフルーツが乗っていた。緑のほうには豆のような何かとクリームが乗っており、横に小さな小瓶が置いてあった。――ふんだんにチョコレートが使われているだけでなく、まさかアイスクリームも乗っているだなんて! おとぎ話の王族でも、滅多には食べられないというのに!  ナターシャは早速、目の前の〈黒いほう〉にフォークを差し入れてみた。すると中からトロリとチョコレートが溢れ出してきた。ただのパンケーキかと思いきや、まるでガトーショコラのようになっていたのだ!  ナターシャが感動で目を輝かせていると、日比谷が店員から小さな皿を受け取った。どうやら彼は最初の〈シェアしよう〉を遵守すべく、取り皿をお願いしてくれていたらしい。彼は〈緑のほう〉を半分に切って取り皿に載せると、上に乗っている豆やクリームも半分に取り分けた。そしてそれを、ナターシャに手渡してくれた。 「ごめんなさい。一人ではしゃいで、勝手に食べ始めようとして」 「何で? 俺はとても嬉しいよ」  彼は本当に嬉しそうだった。そんな彼を見て、恥ずかしそうに肩を落としていたナターシャも一転して笑顔を浮かべた。  ナターシャは目の前の〈黒いほう〉を取り皿に分けて日比谷に手渡すと、今度こそパンケーキに挑みかかった。溶け出したチョコをスポンジで掬い、アイスと一緒に口の中へと運ぶ。直後、ナターシャは大袈裟に頭を垂れて俯き、ぷるぷると震えだした。 「何!? どうしたの!?」 「……らしい……」 「何!?」 「素晴らしい!!」  ナターシャの反応に、日比谷はまたもや笑い転げた。彼は笑い止むと「珈琲も飲んでごらん」と勧めてくれた。恐る恐る珈琲を口に含んだナターシャは、背もたれに背中を預けきると額に手を当て「ああ、神よ」と呟いた。――何なの……。こんなにも美味しい珈琲、飲んだこと無いわよ! 私が知っているのは、もっと泥のような色で味も薄いのなんだけど! これはとても香り高くて、まるでアロマみたい! それに、このチョコレートのパンケーキにとてもよく合うわ! これこそまさに〈至福の一杯〉と呼ぶに相応しいわ! ていうか、パンケーキ! チョコとアイスを一緒にだなんて、なんて贅沢なの! しかも、このチョコレート、相当な高級品でしょう! だって、何かを混ぜてかさ増ししたような味がしないもの! すごく、すごくカカオって感じ!!  ナターシャは、このままチョコレートのほうを完食してしまおうか悩んだ。――でも、緑のほうが好みではなかったらどうしよう。そう思い、とりあえずそちらのほうも一口食べてみることにした。そしてわなわなと全身を震わせると、机上に沈み込んだ。 「どうしたの?」 「苦い……。すごく、苦い……」  突っ伏したまま、ナターシャは絞り出すようにそう答えた。すると日比谷が「見て」と声をかけてきた。何とか体を少しだけ起こして彼のほうを見やると、彼は一口大に切り分けた緑のパンケーキにクリームと豆を乗せ、更に横の小瓶から黒い液体をひと垂らしした。  ナターシャは完全に起き上がると、彼に倣ってみた。恐る恐る口の中に運んだそれは、先ほどのような地獄ではなく、天国へとナターシャを連れて行ってくれた。――パンケーキの苦味と濃厚なクリームがすごく、いい! 黒い豆の塊と液体は、どちらも甘いのね。しかも、どちらもまた違った甘さで、癖になりそう! 「ねえ、このパンケーキの〈緑〉とか、上に乗っているこれは何ていうものなの!?」  ナターシャが目を輝かせると、日比谷は指を差しながら「これはアンコで、これはグリーンティーで」と教えてくれた。更に彼は、アンコとやらもグリーンティーとやらも、この国の名物のようなものだと教えてくれた。  日比谷は楽しそうに含み笑いを漏らすと、「君の世界には、紅茶ってある?」と聞いてきた。それにYESと答えると、魔法の板が思いもよらぬ言葉を発した。 『紅茶とグリーンティーは、同じ植物を用います』 「ええええええ!? 嘘よ! だって紅茶はこんなに苦くもないし、こんな色もしていないじゃない!」 「だよな。俺も最初はそう思った」  日比谷は弾けるように笑いながら、食べるのを再開しようと促してきた。ナターシャは頷くと、溶けていくアイスと格闘しつつ、どちらを食べようかと悩みつつ食べ進めていった。そしてパンケーキを口に運ぶたび、ナターシャは感動して呻いた。  ナターシャは、自分が呻くたびに日比谷の雰囲気が柔和になっていくのを感じた。誰かと楽しく食事をするということは、本当に楽しいことだ。喜びや嬉しさを共有して何倍にも大きく出来るだけでなく、あまりよく知らない相手だとしても、こうやってどんどんと打ち解けていけるのだから。――それを彼に伝えると、彼は照れくさそうに笑いながら「誰かと食事をしてこんなに楽しいのは初めてだ」というようなことを言った。人と食事をして悲しみを覚えていたらしい彼が今、〈楽しい〉と思えているというのはとても良いことだとナターシャは思った。「私も嬉しい」と、ナターシャは彼に返した。 「そう言えば、探し物って何?」  パンケーキを食べながら悶ていると、出し抜けに日比谷がそう尋ねてきた。ナターシャはハッと息を飲むと、フォークを置いて日比谷へと手を伸ばした。すると、彼は不思議そうに「握手?」と言いながら、同じように手を差し伸べてきた。ナターシャは彼の手を取ると、その指に嵌められた獄炎をモチーフとした指輪を撫でて言った。 「この指輪よ。私の世界に、どうしても必要なのよ」  日比谷はとても戸惑っていた。そして、何やら思案しているようだった。また、彼は何となく苦しそうに見えた。  彼は切なそうに微笑むと、空いていた片手をナターシャの手の上に置いた。 「イイヨ。キミノセカイガ、ソレデスクワレルナラ。デモ、ゴメン。スコシジカンガホシイ」 「え?」 「コレヲアゲテシマッタラ、モウニドトアエナイヨウナキガスルカラ。オレ、モットキミト――」    **********  気がつくと、目の前の〈極上パンケーキ〉と日比谷は消えていた。代わりに、あの粗悪なウイスキーの店の店員の顔があった。店員は訝しげな表情を浮かべると、ナターシャに帽子を差し出してきた。 「あんた、いつからそこにいたんだよ。これ、あんたの忘れ物だよな? ――ていうか、あんた、さっき、そんなに飲んでいたっけか? 顔、すごく真っ赤だよ」  ナターシャは小さな声で礼を述べると、そそくさと店を後にした。そして帽子を目深に被り、近くに繋いであった馬の顔を撫でてやると、ナターシャはそのまま馬の首にしがみつくように顔を埋めた。 (あれは一体、何……? どうして私は今、苦しいの?)  艶を含んだ、潤んだ瞳。熱の篭った眼差し。――それは、世界を救う旅に出る前から世界中をさすらい、多くの人と出会ってきたはずのナターシャが初めて向けられたものだった。そしてその眼差しの意味と自身の胸が苦しい理由について、ナターシャは見当をつけることすら出来ないのであった。

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78pt

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現在第3話まで読ませていただきました。 まだ序盤ですがツボにハマりましたのでブックマークさせていただきました水野君大学生だったんですね。 フリーターだと思ってた。 続きも読ませていただきます。

2019.10.14 14:37

ソメヂメス

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