第11章・北の涯

「ジョス、いい加減に降りてくれないか、さすがに腹の上は重い」  甲板に仰向けに倒れたイルガスが呻いた。 「女性に向かって、重いとはなんですの、お兄さま」  むっとしてジョスは言った。 「ジョス」  深い父の声が間近でして、ジョスはぎくりとした。そして、肘を引かれた。 「来なさい」  父の命令は絶対だった。それは骨の髄まで染み込んでいた。 「はい」  大人しくジョスはその言葉に従った。  艫近くでは、ミルド達が心配そうな顔で立っていた。 「奥さま」 「大丈夫よ」  ジョスはミルドの言葉を遮り、微笑んで見せた。本当は大丈夫などではなかったが、そう答える他なかった。「わたしの事よりも、早くその鎖から解放してもらいなさい」  そう言うと、ジョスは父に従ってせり上がった艫の端まで上った。 「お前は、自分のした事が分かっているのか」  静かに<海狼>は言った。「イルガスが上手く受け止めたから良かったものを」 「お兄さまなら、大丈夫だと分かっておりました」 「そう言う問題ではない」<海狼>は溜息を吐いた。「舷側にでも当たっていたら、どうする」 「そのような《《へま》》はいたしません」ジョスは言った。「わたしは自分のできることは心得ております」 「無茶をし過ぎだ。母上を哀しませたくはないだろう」  その言葉には、ジョスは黙るしかなかった。やはり、父は何でもお見通しだ。 「何があったのかは、《《今は》》訊かずにおく。だが、スヴェルト殿は直ぐに追って来られるぞ。その覚悟は出来ているのだろうな」  ジョスは沈黙した。その時、自分がどうすれば良いのかまでは、考えてはいなかった。 「あの竜頭船では、この船には簡単に追いつけまい。ゆっくりと、母上への言い訳とスヴェルト殿への対応を考えておくのだな」 「でも」ジョスは言った。「お父さまはスヴェルトさまのことをご存じだったのですね。それなのに、なぜ、わたしには教えてくださらなかったのですか」 <海狼>は肩を竦めた。 「私を除け者にしたからだ。こちらも話す義理はなかろう。それに――」<海狼>は腰を上げた。「仮に知っていたとして、今の状況に変わりはあったか」  それにはジョスは一言も返せなかった。  父が去ると、ジョスは座り込んだまま、最後に目にしたスヴェルトの姿を思わずにはいられなかった。  頬を平手打ちしてしまった、その時の呆気に取られた顔。  ジョスの事を、スヴェルトは従順な大人しい女と思っていたに違いない。それが、いきなり暴力に訴えた。さぞかし失望した事だろう。マグダルが言ったように、化けの皮を何枚も被っていた。なるべく気に入られるようにと、自分を偽っていたのだ。スヴェルトが追って来るにしても、それは妻に逃げられた男の汚名をそそぐ為なのだろう。皆の眼前で恥をかかされたのだから、仕方あるまい。  名誉の為にスヴェルトが追って来るのならば、ジョスに戻る気はなかった。父も、ジョスが島に戻る事に関しては何も言わなかった。全ては、ジョスの話を聞き、スヴェルトと会ってからの事なのだろう。  それならそれでも良い。  島ではあの集落のように窮屈な思いをしなくても済む。母に子供のように甘える事も出来る。  ジョスは母を思った。  自分のこのような形での帰還であっても、母は非難する事はないだろう。ただ、何事もなかったのように受け入れてくれるに違いない。そして、ジョスが話す迄は何も訊く事はないだろう。父のように。  それは、今のジョスには有り難い事だった。フラドリスは両親に似てその辺りは心得ているが、マグダルは好奇心を剥き出しにして、あれこれ訊いて来るだろう。それを恐らく、イルガスや両親は諫めてくれるだろう。  誰にも何も話したくはなかった。  心に抱えておきたい事もある。いずれは皆に知れる事であっても、今はそっとしておいて欲しかった。  ジョスには時間が必要だった。 <運命>を、自ら棄てて来たのだから。     ※    ※    ※ <海狼>の船脚の速さに、スヴェルトは愕いた。  如何に出遅れたとは言え、帆を張った<海狼>の族長船と積荷船との間はどんどんと開いて行く。兄の船の案内人も、あれに追い付くのは無理だと言った。船底が平らで吃水が浅いのは同じだが、細長い形状の為か北海のどの船よりも速いのだ、と。  帆を張ると、皆に一息つかせた。ここからは風に任せるしかなかった。北の涯の島まで、この時期の風ならば五日か六日で着くだろうと案内人は言った。この季節は風が止む事も海が荒れる事もまずない。僥倖、と言うしかないだろう。  舳先の自分の長櫃に座り込み、スヴェルトは乗組員を見渡した。  あの急な招集にも関わらず、全員が集まった。頭領冥利に尽きるというものだ。  スヴェルトはふと、ジョスが自分に投げつけた物を拾い集めていた事を思いだした。革の小物入れを開けると、そこには今迄にスヴェルトの贈った物があった。  婚姻の腕輪。これを外したという事は、ジョスに離婚の意思があるという意味だ。  後朝の指輪。これも同じ意味だ。  銀の飾り留め。初めて自分の意思で選んだ贈り物だった。ジョスの為にだけ、交易島で、どれが最も相応しいか似合うかを悩みながら購った品だ。もう、ずっと前のような気がする程に、ジョスは毎日、これを身に着けていた。渡した時のはにかんだ嬉しそうな顔が、今でも目に浮かんだ。  鯱の牙。  その意味をスヴェルトは計りかねていた。何故、ジョスはこれを自分に向けて投げたのだろうか。嫁入り前からの持ち物を、何故、投げて寄越したのか。  好奇心がスヴェルトを動かした。誰からの贈り物なのか。それが、自分とどう関わっているのか。  今迄は知りたくないと思っていた。<海狼>以外の誰かの名を見るのが恐ろしかった。ジョスが、かつて――もしかしたら今も、心を寄せているのかもしれない男の名を知るのが恐ろしかった。  だが、今は、却って知りたいと思った。  スヴェルトは牙に刻まれているはずの名を探した。  そして、瞠目した。  見覚えのある下手な文字。それは、スヴェルトの名だった。  一気に思い出が甦って来た。  島の集会へ父の随行船の荷に紛れて密航して渡った若い頃、イルガスの妹に出会った。まだ、少女だった。印象的な空色の目で、自分と結婚すると言った。  そうだ、自分は戯れでその少女に鯱の牙をやった。子供の事だと高を括り、そのまま忘れてしまった。だから、記念の牙をどうしたのかと人に訊ねられた時にも答えられなかった。訓練の最中にでも落としたのだろう位にしか思わなかった。  あの時の少女。それが、ジョスだったのか。  感じた事のない苦しさが襲って来た。胸がぎりぎりと痛んだ。取り返しが付かなくなるような事態になるまで、どうして気付かなかったのだろうか。気付いてやれなかったのだろうか。ジョスは、自分と知って嫁に来たのだろうに。あの微笑みも、優しい言葉も、全て真実、スヴェルトに向けられたものだったのだ。 「どうされました、顔色が悪いですぞ」  ヨルドの声にスヴェルトは我に返った。 「何でもない」  スヴェルトは品物をしまった。 「何でもない、という顔色ではありませんでしたよ」  そう言ってヨルドはスヴェルトに、航海用の麦芽酒《エール》を差し出した。 「一息、お付き下さい。団長がそのようにしょげ返っていらっしゃったら、士気に関わります」 「しょげ返ってなどいない」 「何を仰言る」ヨルドは苦笑いを浮かべた。「あの時の貴方は、泣きそうな顔でしたがね」  スヴェルトは黙って麦芽酒を呑んだ。水で薄めたかのように味がしなかった。 「全く、貴方という方は、肝心な所で不器用だ」呆れたようにヨルドは言った。「とっとと認めてしまえば良かったんです」 「何を」 「奥方様に惚れてらっしゃるって事ですよ」何事でもないかのようにヨルドは言った。「早くにそうしていらっしゃれば、こんなに拗れずに済んだと思いますが」  確かにそうかもしれない。もっと早くに気付いていれば、今頃は違っていたのかもしれない。結婚や家庭を持つ事に関して、もう少しは前向きになれていたのかもしれない。  そう、それは、自分がジョスに惚れているかどうかではでなく、ジョスと自分が以前にも出会っており、幼いながらもジョスが約束を欲したという事。いい加減ながらも自分がそれに応えたのに、そこまで慕っていくれていたのに何もしてやれなかったという事だ。  最早、手遅れかもしれない。  スヴェルトは思った。  まだ十代だったとは言え、それ程までに自分を好意を抱いてくれる女がいるとは、思いもしなかった。あれから何年経ったのだろうか。それでも、ジョスは忘れずにいた。その為に嫁き遅れたと思うのは、余りに自惚れに過ぎるだろうか。  気付いていたならば、もっと慈しんでやる事も出来ただろう。今頃は、子の一人も産まれていたのかもしれない。 「順風ですな」ヨルドが風を一杯にはらんだ帆を見て言った。「だが、帰りは逆風。帰途は気を引き締めねばなりませんぞ」 「ああ」  連れ戻せても戻せなくとも、困難が待ち受けているのは分かっていた。いや、 ジョスが戻った時の方が、大変かもしれない。  人々の好奇は唯論、義姉や兄からは厳しい言葉が待っているだろう。スヴェルトがどう思おうと、族長の権限で離婚という事になるやも知れぬ。  それは、出来ない。戻って来てくれるのならば、自分は何でもしよう。それまでの償いもしよう。折角、戻ったとて、兄や義姉の言いなりになれば、永遠にジョスを失ってしまう。  その先の事は、今は考える事も出来なかった。  島影が見えて来たのは、六日目だった。  スヴェルトとヨルドは正装に着替えた。ここからは<海狼>の領域だ。最大限の敬意を払わねばならない。  案内人が数多くある深い峡谷の中から、港へ通ずる入り江への隘路を見付けた。 「峡谷に入るぞ。帆を下ろせ」  スヴェルトは命じた。だが、それでもすんなりと峡谷に入る事は出来なかった。  いきなり上から槍が投げられ、スヴェルトの足許に突き刺さった。 「誰か」  低くは抑えてはいたが、声変わりもまだのような若い声がした。 「敵意を持つ者ではない」スヴェルトは言った。「<海狼>殿にお目通り願いたい。某《それがし》は<白嵐>ダヴァルが弟にして<海狼>ベルクリフ殿の息女ジョスの夫、スヴェルトと申す」  断崖の岩陰から、あじさしの翼を兜に飾った若者が姿を現した。兜の目覆いの為にはっきりとした年齢は分からなかったが、髭も生やしていない若造だ。 「族長の許可なくしては、どなた様もお通しできませぬ。しばし、お待ちを」  若者の姿は見えなくなったが、多くの視線が自分達を監視している事が分かった。背筋が寒くなるような、鋭く、敵意に満ちたものだった。当然だろう。娘婿とは言え、簡単には通しては貰えぬ程の事を、自分は族長の娘に為したのだから。島の主だった者達は、もうジョスが島に戻った理由を知っているだろう。  ややあって、先程の若者が姿を現して言った。 「族長がお許しになりました。水先案内を務めさせていただきます」  若者は岩場を飛び移ると、スヴェルトの船に降り立った。それはまるで、兜のあじさしのように身軽な動作だった。ジョスを、思わせた。  多くの刺さるような視線の中を、船は進んだ。完全にこの船の指揮は少年とも言えるような若者の手にあった。帆柱を倒す合図も、櫂の指示も全てをこなしていた。同じ年齢の自分の指揮下にある見習達の事を思うと雲泥の差だった。この大役を、一人で成し遂げようとしているのは愕きだった。さすがは海の民と言うべきなのだろう。  一際狭い隘路を抜けると、そこは見覚えのある入り江だった。  既に何隻もの小船が待ち受けており、スヴェルトの船に綱を投げた。帆も櫂も仕舞った船を曳航してくれるのだ。スヴェルトの部下が綱を竜頭に括り付けた。  竜頭船は惰性で進んでいたが、その速度では小船が危険だった。だが、巧みな操船で巨大な船の速度を殺し、洞窟の入り口へと引いて行った。実に、見事だった。  ふと艫を見やると、そこにいたはずのあの若者の姿はなかった。曳航船に移った様子もない。ヨルドに訊ねると、隘路を抜けた所で岩場に戻ったとの事だった。鮮やかな事だ。  洞窟の中は灯りが点されて明るかった。船が、浜に引き上げられた。<海狼>の族長船と数隻の大型の船がやはり、陸揚げされていた。  下船の渡し板が掛けられ、スヴェルトはゆっくりと、下船した。自分が人々から歓迎されていないのは分かっていた。だが、洞窟内の人々はスヴェルトには無関心な様子で働いていた。族長船や積荷船の手入れをしているようだった。 「ようこそ、スヴェルト殿、御高名は以前より伺っております。やはり、いらっしゃいましたね」<海狼>よりは幾分若い、だが良く似た男が笑みを浮かべて進み出た。やはり、長身で細身だ。両腰に得物を佩いている。「私は族長の弟、エルドと申します。兄の館へ御案内申し上げましょう。他の方々は、私の息子が御世話致しますので、お任せ下さい」  エルドの後ろで、赤毛の若者が頭を下げた。  スヴェルトはヨルドに向かって頷いた。少なくとも、このエルド親子は敵意を持ってはいないようだった。 「ジョスが戻った時には愕きましたが」エルドは言った。「どうせ、何かやらかしたのだろうと、家《うち》の者達も呆れていますよ」  明るく笑うエルドにスヴェルトは内心、戸惑った。歓迎されるはずがないというのに。 「まあ、余り気にしない事ですな。どうせ、ジョスの癇癪が爆発したのでしょう」  返す言葉が見付からなかった。ジョスは何も言っていないのだろうか。 長い階段を上りきると、日の光の中へ出た。 「族長の館はそこですから」  エルドは先に立って行く。スヴェルトは黙って従った。「兄は今、戻ったばかりでしょうから、着替えもしてはいないでしょう。その辺りはどうか、御容赦を」  兄の館よりも大きかった。屋根には芝が生えかけており、壁は石組みだった。ぐるりを取り囲む生垣から正面の扉までは石が敷き詰められていた。どこからか羊や馬の声が聞えて来た。  寒さを防ぐ為の二重扉を抜けて館の中に入ると、家使いの者達がスヴェルトを迎えた。そこは、集会で使用される大広間だったが、閑散としていた。壁には色鮮やかな綴れ織りが掛けられ、高座には見事な彫刻を施した安楽椅子が置かれていた。だが、衛士は置かれていなかった。 「済まない、スヴェルト殿、待たせたかな」 <海狼>の声にスヴェルトはぎくりとした。高座の横の扉から<海狼>が姿を現した。普段着にしては上質な胴着に身を包んではいるが、袖口が汚れて強い魚の臭いがしていた。慌ててスヴェルトは跪いた。  正面の安楽椅子に座すると、<海狼>は脚を組み、スヴェルトを見やった。 「一日半の遅れだな、やはり」  責める口調ではなかった。だが、静かで深い声はスヴェルトには怒鳴られるよりも恐ろしく感じられた。 「ジョスを追い掛けて来られたのであろう」 「はい」  スヴェルトは答え、跪いた。 「某の不徳と致す所です」 「ジョスはまだ、私には何も話さん」  安楽椅子にゆったりと腰掛けたまま、<海狼>は言った。何と、その座が相応しい事だろうかとスヴェルトは思わずにはいられなかった。 「――某が、御母堂を侮辱する言葉を発したからです。反省しております」 「では、謝罪をするのは私にではなく、我が妻にであろう。しかし、憶えておいて戴きたい、私の妻だけではない、私の母も父が奴隷船で見染めた女性だった」  スヴェルトは消えてしまいたかった。「侮辱」の一言で全てを察せられたという事は、イルガスが話したのだろう。この最年長で誰よりも恐れられている族長の血にも、奴隷の血が入っている。それは、奥方を辱めたのみならず、<海狼>を、イルガスをも侮辱した事になる。この島の常識は北海の他部族の常識では量れない事を、今更ながらに思い知らされた。 「他にも事情はあるだろうが、私から貴公に訊ねる気はない。全てはジョス次第だ。暫くは時間の掛かるこ事だと心得ておいて戴きたい」  ぐうの音も出なかった。会って謝罪すれば取りなして貰えるなどというのは虫の良い話だというのは分かっていたのだが、言葉にされると辛かった。 「イルガスに案内させよう」 <海狼>はスヴェルトの背後に向かって頷いた。いつの間にいたのか、大広間の端にはイルガスがいた。そして、近付いてくるとスヴェルトを見て眉をひそめた。仕方がないとは言え、居心地が悪かった。 「スヴェルト殿を部屋に案内してくれ。私は仕事に先に戻っている」 「承知いたしました」  イルガスの返事を訊くや、<海狼>はスヴェルトに一瞥もくれる事なく、去った。 「それにしても、盛大な夫婦喧嘩をやらかしてくれたものだ」イルガスは言った。「お陰でこちらは大騒ぎだ」 「俺がお前との誓いを破ったせいだ」  スヴェルトが告白すると、イルガスは溜息を吐いた。 「まあ、口喧嘩ではよく心にもない事を言ってしまうものだが、誓いの重さを知らぬお前ではなかろうに」 「――済まないと思っている」 「だから、追い掛けても来たのだろう」イルガスは肘でスヴェルトを小突いた。「こちらは巻き込まれて良い迷惑だが、仲直りをしてくれれば問題はない」 「出来るかな」 「して貰わなくては困るし、それをするのが、お前の役目だろうが」弱気なスヴェルトの言葉に、イルガスは笑った。「土下座でもして赦して貰うんだな」 「ジョスは、俺と別れる気かも知れんのにか」 「床に血が出るまで額をこすりつける事だ。後は脚に取り縋って泣き落としか」揶揄われているのは分かっていた。「女は臍を曲げると手強いからな」  いつになくしょぼくれたスヴェルトに、イルガスは笑いを止めると、顎髭に手をやった。 「まあ、取り敢えずは部屋で一息、吐くと良い。妙案も浮かぶだろう」 「その前に、御母堂にお目に掛かりたいのだが」  その言葉に、イルガスは目を細めた。「謝罪を、したい」  溜息を吐き、イルガスは<海狼>が姿を現した扉に向かった。 「では、母の所に案内しよう。機を織っておいでだ」  イルガスは<海狼>が姿を現した扉へ向かった。家族の棟なのだろう、食堂らしき場所を通り、廊下を挟んで部屋の並ぶ所へ出た。正面の厳めしい扉には<海狼>の紋章が飾られているので、族長室であろう。そして、機を織る規則的な音がしていた。 「母上、宜しいでしょうか。スヴェルト殿が御挨拶にお見えです」 「どうぞ」  その声に、スヴェルトは一瞬、ジョスかと思った。 「失礼します」  イルガスは扉を開けた。割合に広い部屋に、水平機や竪機、羊毛や紡錘《つむ》等があった。水平機にジョスと同じ髪色の女性が座していた。 「申しわけありませんが、少しお待ちいただけますか。きりのよいところで終わらせますので」  振り向きもせず、女性は言った。 「では、私は父上の手伝いに戻ります」  そのような義母の仕種には慣れているのだろう、イルガスは気にする様子もなく、スヴェルトの肩を軽く叩くと部屋を出た。 「そちらの安楽椅子にかけてお待ちになってくださいな。すぐに、終わりますわ」  手持ち無沙汰でいると、ジョスの母が言った。言われた通りに 腰掛け、スヴェルトはジョスの母を見た。  良く似ている。いや、そっくりだった。年齢を感じさせず、兄の言った通り、姉妹でも通用するだろう。  規則的な音は心地よかった。  そう言えば、自分はジョスの機を織る姿を見た事がないとスヴェルトは思った。昼間は常に留守にしているが、その間に、ジョスもこうして機を織っていたのだろう。スヴェルトの正装や遠征の服の生地のみならず、普段着や下着まで。  まるで魔法のようだった。織機を造った時には嫌々ながらだった為に仕掛けにも興味がなかった。このうようにして布が織られて行くのだと、スヴェルトは感心した。そう言えば、あの夕日色の布も、この女性の手による物だった。  運命を操る女神の手のように、躊躇いなく何色もの色糸を使い分けて行く姿に、スヴェルトの目は釘付けになった。  心地の良い音は、航海中、殆ど眠ってはいなかったスヴェルトの眠気を誘った。  それが、油断に繋がったのではなかった。  何の音もなく、殺気すらも感じぬ内に、喉元に冷たい刃が当てられた。  すこしでも動けば掻っ切られるだろうと思った。不覚を取った。冷や汗が流れた。こんな危機に陥ったのは、初めての事だった。皆が快く自分を歓迎してくれるとは、限らないのだという事を改めて感じた。あの弟達の内のどちらかなのだろうか。  ふと、機の音が止み、ジョスの母がスヴェルトを――いや、正確にはスヴェルトではなくその背後にいる誰かに目を向けた。 「お止めなさい」  静かではあったが、強い意志があった。 「お止めなさい、ジョス」  その言葉に、スヴェルトはぎくりとした。振り向きたかったが、鋭い刃はそれを許してはくれなかった。 「ジョス」  先程よりも強い口調だった。「あなたが武器をおさめないなら、父上をお呼びしなくてはなりませんよ。お戻りなさい」  微かに、背後の人物が動いた。ようやく、スヴェルトはその気配を感じる事が出来た。そう、ジョスだ。ゆっくりと、刃が喉から離れた。ジョスの姿を確かめたかった。 「スヴェルトどの、なりません」  ジョスの母が言った。  やがて、静かに扉の閉まる音がした。スヴェルトは慌てて立ち上がった。 「失礼いたしました。今は、あの子もまだ、気が立っているのですわ」  ジョスの母は立ち上がり、スヴェルトに近付いた。 「それにしても、立派におなりになって」感心したように義母は言った。ジョスよりも背が低かった。「そうは言いましても、わたくしがあなたを最後にお見かけした時には、まだ五歳でいらっしゃいましたが」  細い手が伸ばされ、スヴェルトの頬に触れた。その仕種も表情も、ジョスを思わせた。 「そうね、お顔立ちはお祖父さまに似ていらっしゃるのかしら」  真実ではあったが、どう答えて良いのか分からなかった。イルガスの言葉に拠れば、この女性の一族皆殺しを命じたのは、祖父なのだ。  スヴェルトは、だが、ようやくの事で自分を取り戻し、跪いた。 「御母堂、某は――」 「お立ちになってくださいませ。よろしいのです」  ジョスは母親には全てを話したのだ、とスヴェルトは気付いた。胸を突かれる思いだった。 「しかし、某の為した事は…」  優しくジョスの母は微笑んだ。 「あなたが思い悩まれることなど、ないのですよ」  紫の魔女の目も気にならなかった。このように慈愛に満ちた顔をする女性に対しては何も恐れる事はないのだろうが、スヴェルトは却って戦《おのの》いた。ジョスを除けば、自分に優しく微笑みかける女性など初めてだった。 「ただ、ジョスはまだ、あなたにお目にかかれる状態ではないことは、さきほどのことでおわかりになったと思います。少し、あの子に時間をあげてください」  全てを知って猶、何故《なにゆえ》、自分に対してこうも穏やかに接する事が出来るのだろうか。  自分を貶め、大事な娘を傷付けた男を、何故に赦せるのだろうか。一族を滅ぼした者の血に繋がる者を、何故に赦す事が出来るのだろうか。  スヴェルトはただ、項垂れるしかなかった。  夕食の席に案内されたスヴェルトは、再び愕く事となった。大広間で、自分の船の者達も招待されての宴会となっていたからだ。しかも、誰もがスヴェルト達を歓迎してくれた。高座の下に族長一族の席が設けられており、そこにスヴェルトは座るよう促された。上座には<海狼>夫妻、左にはイルガス夫妻で、スヴェルトは客人と言う事もあってか、イルガスの正面に座る事となった。隣はフラドリスだった。  食卓に並ぶのは羊肉と鳥だった。この島では豚を食べた記憶がなかった。ジョスも豚肉を嫌い、最近では殆ど口にはしていなかった。  ジョスの年若い従弟妹達はスヴェルトに興味津々、と言った様子だった。イルガスの子供達は幼いので大人とは同席しないと聞いても、正直、ぴんとは来なかった。イルガスが父親になっているという事すら、信じられなかった。だが、その妻のウィーラを目にした時には、この一族の男は結局、綺麗で細身の大人しい女性を選ぶのだろうかと思った。  だが、エルドの妻は少し異なっていた。見事な赤毛には白いものが混じってはいても、美しい事に変わりはなかったが、過去に何があったのか、右眼には眼帯をしていた。意志の強そうな顔付きでもあった。 「私の妻のローアンだ。リィル殿と共に、この島に来た」エルドが紹介した。では、この女性も島の奴隷であったのだ。傷は、その時のものだろう。「療法師をしている」 「ジョスに薬の処方を教えられた――」 「わたしよ」ローアンの言葉は素っ気なかった。「役には立ったかしら」 「負傷した際に、助けられました。それに、ジョスも重宝しているようです」 「小屋に鼠を放り込んでいた子が、そういう風に言えるようになったとは、大きくもなったものだわね。まあ、ジョスもそうなのだけど」 「リィルお義姉さまとは大違いだわね。案外、そそっかしいところは似ているのだけれど」  エルガドルの妻が言った。嗜めるような顔をエルガドルは向けたが、気にも留めてはいないようだった。この女性は<海狼>と兄妹のように育った従妹だという話だった。本当に、エルガドルはジョスの叔父だなのだ。 「確かに」 <海狼>は苦笑いを浮かべ、奥方は少し赤くなって俯いた。ジョスが綺麗ならば、この人は可愛らしいのだとスヴェルトは思った。そこが、違う。 「ジョスお姉さまは、家事をなさっていらっしゃったのですか」  従妹の誰かが訊ねた。 「ええ」  スヴェルトは短く答えた。女達の間に小さな笑いが広がった。唯一人、奥方だけが戸惑ったような顔をしている。 「それで、如何です。大丈夫なのでしょうか」  マグダルが言った。 「まあ、その辺りは」 「大きな身体をしていらっしゃるのに、大人しい方ですのね」 「あなたたちが、うるさすぎるの」エルガドルの妻が言った。「困っていらっしゃるのよ、全くもう」 「外からのお客人は珍しいので、訊きたいことでいっぱいなのでしょうね」ウィーラが言った。「明日にはうちの子達どころか、集落中の子達がつきまといますわよ」  イルガスが天井を仰いで笑った。 「子供の相手をするスヴェルトが見られるのは、貴重だ」 「誰だって、親になればそのような時期はあるものですから」  奥方の言葉に、<海狼>は少し居心地が悪そうだった。そう、この族長にも、父親としての顔があるのだ。 「そうね」エルガドルの妻が笑った。「兄さまもエルガドルも、本当に子供の扱いが下手だったわ」  エルドも笑った。 「我々の父上にしてからが、子供扱いは下手でしたな」 「それならエルドは合格ね。一緒になってローアンのお説教をくらっていたのですもの」  その言葉に、皆は笑った。 「エルガドルは器用ではなかったが、可愛がっているのは傍《はた》で見ていても分かったな」<海狼>が杯を口に運んで言った。「まあ、子に愛情を示す事に掛けては、我々男はどう転んでも女には勝てない」  奥方は微笑んで<海狼>を見上げ、その腕に触れた。<海狼>も奥方に笑みを返した。 「素直になれないだけでしょう、兄さま」 「そうかもな」 <海狼>は苦笑した。  自分達の食事とは大違いだった。スヴェルトは、自分が場違いな所に紛れ込んでしまったかのような感覚に陥った。自分のいるべきは、ここではなく部下達と同じ下座だ。 「時に、スヴェルト殿」<海狼>の言葉に、スヴェルトは気持ちを切り替えた。この場に相応しい態度を心得なくてはならない。「貴殿は鯱漁がお好きだったように記憶しているが、鯨漁《いさなとり》は如何かな」  勇魚《いさな》。ジョスの言う鯨の事だ。 「二日後に、我々は漁に出るつもりだが、共にどうかな」 「しかし、我々は何の準備もありませんし」  ジョスの事も気になる。 「何、大丈夫です」マグダルが言った。「道具類はこちらでご用意致します。どうせジョス姉上は、暫く臍を曲げたままでしょうし」 「方々も暇でしょうしね」エルドも言った。「男を試せるなら、一も二もないでしょう」 「食糧なども御心配なく。こちらで手配させます」それ程遠くまで行くものなのかとスヴェルトは愕いた。だが、フラドリスは当たり前のように続けた。「まあ、三、四日もすれば、姉上の機嫌も変わっておりましょう」 「一番銛には止め《《やす》》の権利もありますし、当然、最も良い部位と心臓が付きます」マグダルが言った。ジョスの言っていた心臓だ。「しかし、父上がいらっしゃる以上は、そう易々と一番銛は取れないでしょうがね」  スヴェルトは<海狼>を見た。この年齢で、未だに一番銛を渡さぬと言うのか。族長故に譲られての事ではないのか。 「父上を甘く見てはいけない」イルガスが悪戯っぽく笑った。「本気で掛かられるからな。全ての一番銛は母上に捧げられるのだから、当然だろう」  改めて、スヴェルトはジョスの両親を見た。この二人を義理の両親と思う事が、スヴェルトにはどうしても出来なかった。飽くまでも、ジョスの父と母だった。  この部族は余りにも自分達と違いすぎる。家族として遇して貰えているのは分かる。だが、奥方にとっては自分は血讐の相手でもあるのだ。エルドの妻にしたところで、恨みはあるだろう。それなのに、何故、二人とも微笑んでいられるのか。 「それでは、皆も喜びましょうから、お供させて戴きます」  それからも他愛のない会話が続いた。静かに酒を呑む事には慣れなかったが、この島の蜜酒には様々な香草が入っており、それは、ジョスの醸す物を思い出させた。  やがて、食事が終わると女達は席を立った。  男だけになると、さすがに砕けた空気が流れた。 「ゆっくりと構えられる事だ」<海狼>は言った。「《《あれ》》にも時間は必要だからな」 「はあ」  スヴェルトは小さく言った。 「良くもまあ、一年も義兄上が耐えられたと思いますがね。最初は姉上が追い出されたのかと思いましたよ」 「マグダル、お前はまだまだ子供だな」エルドが苦笑いをした。「<運命>は、それを知る者にのみ、最大の試練をも与えるものだ」  全く同感、とばかりにエルガドルとイルガスが頷いた。 「最大の試練とは、鍋釜が飛んで来る事ではないでしょう」  マグダルの言葉に、エルドは椅子の背に凭れ掛かった。 「それも含めて、かな。なあ、エルガドル、イルガス。誰しもが兄上のような<運命>とは限らんからな」  イルガスの妻は大人しそうに見えたが、そうではないのだろうかとスヴェルトは首を捻った。 「ああ、スヴェルトには分からんかな」  イルガスは苦笑した。「ジョスは、《《あの時》》から、お前を<運命>と見定めていたのだからな」  あの時、というのは、さすがにスヴェルトにも分かった。だが、<運命>については理解の埒外だった。 「外の人間には理解し難い物ですよ」エルガドルは言った。「スヴェルト殿に説明するのは難しいですな。女性は、このような事には勘が働くが、我々男は、どうも鈍いようですから」 「確かに」エルドは笑った。「<運命>か否かを一目で見抜いたのは、兄上くらいなものでしょう。後は亡くなった父上か」  エルドの言葉に<海狼>は軽く咳払いをした。母親の違うイルガスを気遣ったのだろうか。 「しかし、感謝しておりますよ、私は」イルガスは杯を満たさせて言った。「母上は、本当に素晴らしい御方だ。あの方が母上になって下さったのは、僥倖と言うしかありません」  北海には、後妻が先妻の子で族長の跡取りを亡き者にしようとした話も伝わっている。自分の子を族長にする為に。そして、それは強力な後ろ盾を持たぬ限り、今も変わらぬだろう。どれ程、イルガスが幸運だったのか分かるというものだ。 「さて、スヴェルト殿もお疲れでしょうし、ここいらでお開きにしましょうか」エルドが言った。「鯨漁の打ち合わせは明日にしましょう」  全員が立ち上がった。  それに気付いてヨルドがスヴェルトを見たが、そのまま宴にいれば良いと頷いた。歓迎の宴では飲んだくれて明日の朝、ここで目醒める事になっても、それは恥ではない。 「では、私はスヴェルトを部屋まで送ろう」  イルガスが言った。 「家族の棟でなくて申し訳ないな」 「とんでもない」スヴェルトは慌てて言った。「俺にその資格はないだろう」 「ジョスの夫なら、一族だからな。まさか、お前を本当に義弟《おとうと》と呼ぶ日が来るとは思わなかったが、<運命>なら、仕方ない」  スヴェルトと並んで歩きながらイルガスは言った。 「俺には、それが何を意味するのか、さっぱり分らん」  イルガスは部屋の扉を開けてスヴェルトを招じ入れた。 「無理に理解する必要などない。ある時に、突然、理解出来たりするものだ」 「ジョスには会えるのだろうか」 「あれの気持ち次第だろうな。父上も母上も、決して強制はなさらない。したところで、どうにかなるものでもないだろう、夫婦の事は」  それを言われるのは辛かった。 「お前も、そうなのか」  イルガスが少し考えていた。 「そうだな、ウィーラはあれで子供の頃から羊飼いをしていたし、父親は族長船の乗組員だしな。見かけとは違って頑固で独立心が強い。北海の女としては合格だろうが」  明るく笑うイルガスに、自分達が本当に夫婦であったのかさえもスヴェルトには分からなくなっていた。自分達の生活は、その真似事に過ぎなかったのではないかという気持ちが徐々に大きくなって来ていた。 「今夜は、何も考えずに休む事だ。殆ど、寝てはいないのだろう」  イルガスの目は誤魔化せない。 「一つ、教えてくれ」スヴェルトは言った。「何故《なぜ》、皆は俺を一族としてもてなしてくれたのだ。如何に慣習とは言え、お前の母君にとっては、俺は血讐の相手でもあるのだぞ」  例え血讐の相手であっても、客人として訪《おとな》った者を受け入れ、宿を提供することは法でも定められている。ただ、滞在が終わり、屋根の下から出た途端に復讐する権利も保証されているのだが。  苦笑いをして、イルガスはスヴェルトの肩に手を置いた。 「そのような事、母上は望まれない。故に、誰もそれを望まない。ここではそういう事だ。むしろ、血讐など《《おくび》》にも出そうものなら、どれ程哀しまれるか。お前とジョスとが<運命>であったのも、神々の采配だ」 「だが、俺は結果的にジョスを怒らせた。哀しませた」 「それとこれとは別だ。それは、二人の問題だからな」  イルガスは笑った。「しかし、ここまで直ぐに追って来たというだけで、女性達の中でお前の株は上がったな、それは保証する」  翌朝の食事には<海狼>夫妻と未婚の弟二人のみの席だった。やはり、ジョスの姿はなかった。  朝から鯨漁の為の準備を部下達に命じると、皆の顔が輝いた。ヨルドも楽しげだった。他の海域で猟をする事などないのだから、当然と言えば当然だろう。  道具等の事はヨルドに任せ、スヴェルトは<海狼>達と手順を相談した。 「スヴェルト殿達は鯨猟には慣れてはおられない」<海狼>は言った。「かなり危険なので、我々の後衛を頼みたい。唯論、銛打ちも願いたいが、無理は禁物だ」  たかが鯨、とスヴェルトは思った。群れでも襲うつもりなのだろうか、予想以上の船を出す事に愕いた。  そういった間にも、<海狼>の許には様々な相談事や報告が寄せられていた。何処の羊がどうしたの、誰それの子が産まれたの等、正直言って、スヴェルトにはそのような事まで族長に報告する義務はないだろうと思えた。だが、同時に、兄よりも民草に近い場所にいるように感じた。そのような島で育ったのならば、ジョスが海鳥のように自由な事も頷けた。  忙しくしていてさえスヴェルトの心は晴れず、ジョスから離れる事はなかった。むしろ、会えぬ事への苛立ちが募った。唯論、ジョスに対してではない、打つ手を持たぬ自らにだ。  ジョスが望まぬ限りは会えない、とイルガスは言った。スヴェルトの部族ではそこまで女の意志を尊重する事はない。だが、待つしかなかった。これが、自分の島であっても、スヴェルトは他の男のように扉を蹴破って逃げた妻の姿を探し回ったりは出来なかっただろう。そのような事をした所で、ジョスの心は変わらないのは分かっていた。  ふと空いた時間に、スヴェルトが思ったのは、奥方に会って全てを告白し、ジョスに会う許しを請う事だった。そして、取りなして貰いたかった。機織り部屋にいるだろうとあたりを付けて、スヴェルトは昨日《さくじつ》にイルガスに案内された部屋に向かった。  だが、扉の前で身動きが出来なくなった。  中から、泣き声が聞えていた。それは、紛れもないジョスの声だった。如何に似ていようとも、聞き間違うはずがなかった。それ程、微かな泣き声を聞いてきたのだ。  ジョスが泣いている。母親の許で。  恐らくは、自分の今まで受けた仕打ちを話したのだろう。  スヴェルトはいたたまれなくなった。  やはり、真実を話さねばならないと思ったスヴェルトが選んだのは<海狼>だった。  不審がりながらも二人きりでの話を承諾した<海狼>は、スヴェルトを書物だらけの部屋に案内した。それ程の書物を目にするのは、スヴェルトは初めてだった。写本師の許にならあるのかもしれなかったが、興味がなかった。 <海狼>はスヴェルトに安楽椅子に座するよう促し、自らも腰を下ろした。 「それで、話と言うのは何かな」  <海狼>は苦手だった。それでも、スヴェルトはジョスとの婚礼からの事を包み隠さずに話した。妻の父に対して話すのは恥ではあったが、そこから話さねば理解はして貰えまい。誤魔化す事も出来ない。そのような事をしても<海狼>は直ぐに見抜いてしまうであろうし、信用を失ってジョスを取り戻す事が叶わぬような気がした。 「――真実、身に覚えはない、という事か」  長いスヴェルトの話を聞き終えると<海狼>は言った。 「<海狼>殿も、男ですから御理解戴けると存知ますが」  思い切って言ったスヴェルトの言葉に、<海狼>は顎髭を撫でて苦笑した。 「それはそうだ。私は正体がなくなるまで飲んだ事はないがな。だが、何かあれば分かるだろう」 <海狼>はゆったりと安楽椅子に凭れた。 「――それで、私に何を望むのかな」 「ジョスと会う事です」  スヴェルトは言った。 「会うのは構わない。それは、自由だ。その為に娘に話もしよう。だが、スヴェルト殿、貴公は会ってどうするつもりかな。自分の誇りを、名を穢されたから会いたいのか」  暫し、スヴェルトは沈黙した。 「そこの所をはっきりとさせぬ事には、私はジョスに何を言うつもりもない」  スヴェルトは唇を噛んだ。  船上でも考えた。  夕べも考えた。  ずっと、その事について考えて来た。  この感情を表すのは、結局は一つしかなかった。 「それは――」  スヴェルトの喉は乾いていた。 <海狼>は微笑んだ。

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この作品の評価

4pt

10章まで読みました。 とうとう行動に移したヒロイン。 不器用な二人がどうなるか、ますます楽しみです。

2019.09.24 22:28

taeko246

0

非常な細やかな描写、感情の揺らぎ。 あまり知らなかったヴァイキングの世界が目に映るようです。 ヒロインのこれからの活躍に期待です(^^)

2019.08.29 13:42

taeko246

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