第10章・破綻

 何もかもが現実味を失ってしまったかのようにジョスには感じられた。  自分の足が地面についていないようで、また、ずっと夢を見ているようだった。  どうすれば良いのか、何をすれば良いのかも分からなかった。  《《あの日》》から、あっと言う間に夏が来てしまった。夏の到来を祝う火祭りも、きちんと準備をして行ったはずなのに、何の記憶もなかった。ぼんやりと思い出す事すらも出来なかった。  毎日の仕事をこなすのに支障はなかったが、感情の全てが消えてしまったようだった。  何故、あの時だったのか。  幸せだった時間を、一瞬にして打ち砕かれた。  ジョスは皆に仕事の指示をしながらも、ふわふわとした実感のない世界にいた。  スヴェルトは――ただ、頭を抱えているだけだった。  自分が今まで信じて来たものは何だったのか。実体のないものを、ただ、そうであって欲しいという願いから盲信していたに過ぎないのか。  ――わたし、旦那さまのお子を身籠もったようです。  ハザルの言葉に、ジョスは凍り付いた。寸前までの、戯れに満ちた幸福な時間が音を立てて崩れた。  何もなかったのだ、というスヴェルトの言葉が覆った。  それでも、ジョスは女主人としてぐっと足を踏み締め、ハザルと対峙した。  ――それでは、身体をいとわなくてはなりませね。明日には療法師に診てもらいましょう。  その時、スヴェルトはハザルが何を言っているのか分からぬ風だった。ただ、ぼんやりとジョスとハザルを交互に見ていた。  ハザルが下がると、ようやく気付いたように慌てて立ち上がった。  だが、ジョスはスヴェルトの言葉も耳に入らなかった。ただ目を閉じて、倒れないようにするのが精一杯だった。  それが、今も続いているような気がした。何度も何度も、同じ場面が繰り返し眼前に甦った。その中から、ジョスは抜け出せないでいた。自分ではそれを、どうする事も出来なかった。  療法師の見立てでは、スヴェルトがハザルを連れ込んだ辺りの子だろうと思われた。  言い訳は聞きたくはなかった。  ジョスの態度から、スヴェルトもそれを察したのだろう、何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。そして、二人の間には深い溝が出来た。どこか互いによそよそしくなり、以前のような会話も減った。また、スヴェルトは家の中で居心地も良くないようだった。黙々と仕事をするジョスを扱いかねているような節もあった。  だが、それもジョスにはどうでも良い事に思われた。  裏切られた、という気持ちすら起こらなかった。  時には、知らず枕を涙で濡らす夜もあったが、そのような心さえも朝には消えてしまっていた。  ハザルの地位は側女でしかなかったが、スヴェルトが族長に話したのだろう、タマラからハザルへ懐妊の祝いの品が届いた。  ジョスは、自分が無用の存在であるように感じた。 <運命>は時に残酷だ、という事をジョスは改めて知った。このような状態でも、ジョスはスヴェルトの傍から離れる事は出来なかった。狂おしい思いを抱《いだ》きながらも、どうする事も出来なかった。  集会が始まれば――そう、族長集会が始まれば、何かが変わるかもしれない。全てを振り切って<運命>の罠に掛かった事を呪いながら島へ帰るのもその一つだ。だが、今はまだ、それも遠い出来事にしか思えなかった。  ミルドを始め、皆が心配している事は分かっていた。そうだからと言って、この状況をどうにか出来るものでもなかった。それに万が一、ハザルの子が流れてしまうような事にでもなれば、その責任は全てジョスが負わねばならないだろう。それ故に、どのような理不尽な要求であろうとも、皆はハザルの命を聞かざるを得ない。それで最も割を食ったのが世話係となったイズリグだったが、ジョスは何もしてやれなかった。また、この娘は良く耐えていた。ジョスはハザルの便宜を図る為に、努力をするだけだった。食堂での同席を求められても、今のジョスでは断れそうになかった。  スヴェルトの子だから。  最早、誰もジョスに子は期待してはいないだろう。一年間、子に恵まれなかったのだし、年齢の問題もある。  ただ、<海狼>との縁を繋ぐ為だけに自分はここに存在し続ける事になるのかもしれないと、ジョスは思った。その意味では、族長はジョスを手放したがらないだろう。  そして、誰からも顧みられる事もなく、ここでの生を終えるのかもしれない。     ※    ※    ※  スヴェルトは罠に掛かったような気分だった。  何故、あの女に子が出来たのか納得がいかなかった。  それでも、ジョスの前であのように告白されたのならば、認めぬ訳にはいかないだろう。自分以外の誰が、生娘であったというあの女の子の父親なのだろうか。否定しようのない現実が、そこにはあった。  何度、思い返しても心当たりはなかったが、ジョスの目の前であのように言われてしまえば、どうしようもなかった。  話をしたいと思ったが、ジョスの方がそれを拒否しているように思えた。また、寝床で何度もジョスに手を伸ばしかけたが、拒絶されるの怖さに触れる事が出来なかった。ひっそりと、夢の中であろう、泣いているジョスに気付いても目醒めさせるのが恐ろしくて、そっと髪を撫でる事しか出来なかった。  そして、ジョスが話したのだろうか、義姉から祝いの品があの女に届くにあたっては、最早、万策尽きたという思いしかなかった。  自分はジョスに見放されたのだ。  スヴェルトに対する言動に大きな違いはなかったが、笑わなくなったジョスに、その傷の深さを思い知らされた。かつての苦い思い出が甦った。  族長集会が始まれば、ジョスはどうするのだろうか。唯論、夫が側女を持ったからと言うのは離婚の理由にならない。だが、もし、ジョスが自分の傍を離れたいと思った時、自分はそれを留《とど》める手立ては持たぬと言う事は分かっていた。島へ帰し、もっと良い男と一緒になる方が、ジョスの幸せではないだろうかとも思った。本心は帰したくはなかった。兄もそうだろう。その理由は大きく異なっているとしてもだ。だから、恐らく、兄はあの女の事を<海狼>からは隠すであろうとスヴェルトは踏んでいた。  だが、ジョスは。  ジョスが父親に訴え出れば、<海狼>は娘を島へ連れ戻すかもしれない。  自分は、ジョスのいない人生をどう送るのだろうか。  すっかりその存在に慣れ、スヴェルトをあらゆる面で満足させてくれる存在を失えば、どうすれば良いのだろうか。  自分はすっかり弱くなってしまったと、スヴェルトは思った。  生涯、独り身でいる事も吝《やぶさ》かではではなかった自分は、どこへ行ってしまったのだろうか。 「聞きましたぞ、団長」  ある夜、戦士の館で飲んでいるとヨルドが言った。「側女にした女が孕んだそうですね。取り敢えずは、目出度いのですかな」  スヴェルトは横目でヨルドを睨んだ。 「その話、どこで聞いた」  自分は何も話してはいない。ジョスも、兄への報告くらいな物だろう。 「――と言う訳でも、なさそうですな。もう皆、知っておりますよ。まあ、もうすぐ集会ですし、時期が悪いと言えば悪い」  普通はそう考えるものなのだろう。 「女房もその事で奥方様を気に掛けております。もう少しはそっとして差し上げるよう言いましたが、それで宜しいですかな」 「お前の細君ならば、《《あれ》》は何時でも歓迎するだろうよ。だが、今は叡慮して欲しいかもな」  ヨルドはスヴェルトの前の椅子に腰掛けた。機嫌の悪いスヴェルトを恐れないのは、この男くらいのものだった。 「集会が近付けば、また気も晴れる事でしょう。奥方様の父君がいらっしゃる訳ですし」ヨルドはしまった、という顔をした。「まあ、一大事である事には変わりはありませんな」 「家の事情よりも、若い奴らの訓練の方が先だ。集会で恥をかかされては困るからな」 「そこが頭の痛いところで」スヴェルトが話題を変えたがっている事をヨルドは直ぐに察したらしい。「何と言っても、七年に一度の事ですからな。完璧と言うには程遠い。それに、近頃の若い奴らと来た日には」 「ちび共は良い。あいつらは他でこき使うからな」 「分かりました。年少者の指導は後回しで構わないのですね」 「そう伝えておけ」  スヴェルトは杯を干した。どうしても酔えなかった。酔う為に飲む訳ではなかったが、少なくとも、良い気分にはなれるものだ。だが、最近はそれすらも遠くなってしまったようだった。 「お気持ちはお察しします。何しろ、相手は<海狼>殿ですからね」  唸る他なかった。結局はそこへと辿り着く。 「お前、楽しんではいないか」 「確かに他人事ではありますが、楽しむなどとんでもない」ヨルドは心外だという顔になった。「船団長は貴方を於いていない、と以前にも申し上げたはずですぞ。我々は貴方の味方です。それに唯論、奥方様の味方でもあります。ただ、分が悪すぎる。貴方の本意などお構いなしに、噂ばかりが広まっていとは思いませんか」 「どういう事だ」  スヴェルトは思わず身を乗り出した。 「前にも申し上げましたでしょう。噂に悪意を感じる、と。それと同じです。はっきりとした証拠はありません。しかし、出来過ぎている、とは思いませんか」 「俺には心当たりが多過ぎる」  棄てた女、女房を寝取った亭主、殴った奴、挙げればきりがないだろう。 「それを一つ一つ潰して行くのは、貴方御自身では無理でしょう。だが、我々にしたところで、入り込むには限界がありますしね」  スヴェルトは黙った。巻き込む気がないのは、以前と変わらない。これは個人的な事だ。 「女奴隷の子など流すのは簡単な事ですが、族長も御存知ならば、それも無理でしょう」 「子を流すのはジョスが許さん」  スヴェルトは顔をしかめた。 「奥方様はお優しいですから」  ヨルドは相好を崩して言った。そういう事ではない、と言いたい気持ちをスヴェルトは酒と共に飲み下した。 「奴隷を上手くお使いなさい。案外、奴らは情報通ですぞ」  思い出すのも嫌な《《あの時》》に居合わせたのは男二人だ。だが、何か気付いた事があれば、自分にではなくジョスに伝わっているはずだった。或いは、家使いのあの女奴隷に。それでも、やはりジョスに伝わっているだろう。  ジョスの奴隷の使い方を見ている限り、もう少し働かせても良いのではないかと思う程だった。無理はさせていないはずだ。夜半に家畜が騒げば起きるだろう。そこが、最初から感じている違和感だった。 「そうだな」  ヨルドは頷いた。 「奥方様の気晴らしになるのでしたら、何時でも家《うち》の奴を行かせますよ」 「お前の細君には暫く、頭が上がりそうにないな」  スヴェルトは言った。     ※    ※    ※  ジョスが常に上の空でいるのではないだろうかとスヴェルトが気付いたのは、ヨルドとの会話から暫く経ってからだった。  食器を下げる際の受け渡しに失敗しては皿を落とす。スヴェルトの帰って来た事にも気付かず、針を手にしたままぼんやりと座っていたりと、普段と全く様子が異なっていた。それをどうすれば良いのかスヴェルトには見当も付かなかった。  療法師に診せる事も考えた。だが、それはジョスが嫌がるだろうと思った。フレーダの訪問も気が紛れて良いのかもしれないが、今のジョスでは却って相手を戸惑わせてしまうかもしれない。奴隷に頼るのはこの際、仕方なかった。常にジョスに目を配っている女に、何かあれば直ぐに知らせるように念を押した。今のジョスは、それ程に危うく思えた。  ようやく長い冬が終わったと言うのに、家の中には寒々とした空気があった。  それは、ジョスが笑わなくなったからだとスヴェルトは思った。今まで、この家を支えてきたジョスの存在の大きさを、改めて知らされた気がした。そして、自分の中でのジョスの位置も。  身籠もった女奴隷は機嫌が悪いのか、しょっちゅう怒っているようだった。少女の奴隷が裏口から罵声と共に放り出されるのを目にした事もあった。その時はさすがにジョスが助けに行き、泣きじゃくる少女を抱き締めていた。  護り、与える者。  ジョスはそういう女だった。目に余る行動と騒々しさにスヴェルトが苦言を口にすると、ジョスは「身籠もった女性は気が立つことも多いものですわ」と言っただけだった。何故、奴隷であるにも関わらず自分よりも偉そうにする者を庇うのか、スヴェルトには理解出来なかった。  何とかジョスの気を紛らわせてやりたかった。あの明るく笑うジョスを取り戻したかった。このままでは駄目だ、とスヴェルトは思った。  奴隷女と共に、スヴェルトはジョスを族長集会の後に移り住む事になる家に連れて行った。少しでも慰めになればという思いからだった。集落の外れにあるその場所には、例の浜もあった。小型の漁船がおける浜だったが、スヴェルトには、そのような用途に使うつもりはなかった。二人にとってはある意味、神聖な場所だった。  船団長の家という事で、かなり大きな館だった。中ではちょっとした宴も開く事が出来る。家族用の棟には人数が増えた時の為に多めに部屋が取ってあり、居間まであった。家事室も当然ながら機織り用、裁縫用と分かれている。  だが、そのどれもジョスの気を引く事はなかった。畑や家畜の為の裏庭に出ると、広々としており、小屋も大きな物だった。山羊も羊も飼えそうだった。  そのような中でジョスが反応したのは、一本の木だった。最早、花の盛りは過ぎてはらはらと白い花弁が散っていた。  ゆっくりとジョスはその木に近付き、そっと幹に手を添えた。 「有りの実、ですのね」  ジョスが言った。スヴェルトには、その木の種類は分からなかった。確かに、菓実のなる木ではあった。 「絵で見たままですわ。本当に、真っ白な花。それに大きな木」 「この島では珍しくもないが」  困惑してスヴェルトは言った。 「わたしの島ではこんなに背の高い木は生えませんから」ジョスはスヴェルトの言葉に応えた。「わたしがこの島に来た時には、もう花は散っておりましたし」 「そうだったかな」  もう、ずっと昔のような気がした。 「まるで、雪のよう」  ジョスは木の幹から手を放すと、降りしきる花弁の下に立った。「本当に、雪のようだわ」  両手を伸ばし、ジョスは木を見上げた。その顔に、やがて、ゆっくりと笑みが浮かんだ。無垢な笑みだった。  ジョスがスヴェルトの手を取った。 「冬至のお祝いも火祭りも、踊ってはいただけませんでしたわね」  踊れなどしないのだ、とスヴェルトは思った。それを言い出す事が出来なかったので仲間と飲んでいたに過ぎない。  ジョスは微笑み、スヴェルトの両手を取ってゆっくりと回り始めた。女奴隷が心配げに見ていたが、ジョスは意に介さぬようだった。その内、スヴェルトも楽しくなって来た。そうだ、これがジョスだ。 「おいおい、目が回るぞ」  そう言ってスヴェルトはジョスを止め、抱き寄せた。  島へは帰せない。いや、帰しなどしない。それが、例え<海狼>に意に反する事でもあっても。  スヴェルトは覚悟を決めた。     ※    ※    ※  集会の準備は滞りなく進み、スヴェルトの船団の訓練も何とか満足の行く仕上がりとなった。スヴェルトの部下達が小型の船で族長船と随伴の積荷船を先導するのだが、それには正直、手こずった。浜での出迎えには族長の護衛団と船団の精鋭が正装して当たる。その後の荷下ろしや他島の戦士達の接待は他の戦士の仕事だ。歓迎の杯を交わす時の給仕をする年少者の方も何とかなりそうだった。普段の酒宴とは異なるが、基本は同じだ。こちらは正装をしない分だけましだと思われた。  スヴェルトの竜頭船を始め、迎え船の他は集会の間、冬と同じ陸の船小屋に仕舞われる。それでも、いざという時の為に何時でも海に出せるように手入れは済ませてあった。  ジョスは、微笑むようにはなっていた。まだ、あの明るい笑い声は聞けなかったが、スヴェルトは取り敢えず、それで良しとしていた。心配なのは食が細くなっている事であったが、こればかりは無理矢理に食べさせる訳にもいかない。  新しい正装の胴着を見せられた時、スヴェルトは愕いた。緋色。それに鶸色の縁取り文様。緋色の胴着は確かに、遠征の行き帰りには着た。その時に散々、皆に揶揄われた。それと同じ色とは。  それに加え、儀礼用の長剣に付ける飾り緒。それがジョスの髪で出来ている事にも愕いた。どこかを切ったのかと思わず確かめてみたくなった。だが、胴着と同じ緋色の糸を編み込んであり、綺麗だと思った。 「お守りの意味もこめて、島では髪で編むのですが」  スヴェルトの反応が気になるのか、ジョスは言った。それには頷いて見せた。 「この胴着、本当に俺に似合っているのか」  スヴェルトは改めて確かめてみたくなった。 「もちろんです。わたしはそう思って仕立てましたが、お気に召しませんか」 「揶揄う奴もいるからな」  スヴェルトは眉をひそめた。 「揶揄われるのは、似合っている証拠だとわたしは思います。あなたは、いつも地味な色合いの物しかお召しになりませんもの。見慣れないだけですわ」  そんなものなのだろうかとスヴェルトは思った。衣袴《いこ》については女の方が詳しい。また、ジョスの言葉は全て信じられる気がした。そして、正しいと。試しに着てみなくても自分の身体に合っている事は分かっていた。正装とは言え、窮屈な着心地ではない事も、今までのジョスの仕立てから察せられた。  集会の日が近付くと、族長船を待つ為に護衛団や船団の者達は毎日、それに備えねばならなかった。スヴェルトを始めとする正装しなければならない者は、一式を戦士の館に運び込んでいた。正直言って、待つのはスヴェルトにとっては苦痛以外の何物でもなかったが、仕方なかった。身なりを乱さぬように、訓練も端《はた》で見ながらしか指導出来なかったので、歯がゆかった。  大体、集会の五日くらい前から族長船はやって来る。ただ、今回は<海狼>が早めに到着する事も考えなくてはならなかった。何しろ、娘が嫁いで初めての集会なのだから。二人で過ごす時間を持とうと思えば、他の族長よりも早く着かねばならない。  そして、その予想は的中した。<海狼>の船は七日前に姿を見せたのだ。  初船に、集落は湧いた。浜には集落中の人々が集まり、忙しく立ち働いていたスヴェルトにはその中にジョスがいるのかは確認できなかった。だが、見習いをジョスの元へ送っていたので、直ぐに兄達に合流するだろうと思った。最早、スヴェルトは義姉を信用する事は出来なかった。このような日に、ジョスが姿を見せなければ、<海狼>はどう思うだろうか。皆はどう思うだろうか。そう考えると、自ら知らせを送った方が良かった。  浜で族長一家の直ぐ前には護衛団が列になって並び、続いてスヴェルト達船団の者だ。船団長は族長に次ぐ地位だが、護衛団の後になる。 <海狼>の族長船は他の部族とは異なり、竜頭ではなく狼だった。この船は唯一人、<海狼>の為だけの船なのだ。また、形も北海の他の軍船よりも細長く感じられた。  船が浜に揚げられると、最初に<海狼>が下船した。イルガスと年少者二人がそれに続く。恐らく、ジョスの弟達なのだろう。 「<海狼>ベルクリフ殿に敬礼っ」  スヴェルトがそう号令をかけると、皆が一斉に長剣を抜いて顔の前に掲げた。  緊張した。  六十近い老人などと思ったが、とんでもなかった。その姿は威厳に満ち、歩みは優雅だった。それに較べれば、兄のダヴァルなど足下にも及ばぬであろう。七年前と何も変わってはいないように思われた。 「そう畏《かしこ》まらずとも良かろう、スヴェルト殿」 <海狼>はスヴェルトの前で足を止めて言った。青い眼は心の底まで見透かされるようだった。 「我々は義理とは言え親子の関係なのだからな」と、若者二人を見やった。「ジョスの弟のフラドリスとマグダルだ、宜しく頼む」  二人の青年は年長者に対する拝礼をした。 「はっ」  やはり緊張を解けないスヴェルトに、イルガスが笑いをこらえているのが分かった。そして<海狼>の一行が通り過ぎると長剣を鞘に収めたが、正面のヨルドがにっと笑うのが見えた。スヴェルトはそれに対して思い切り睨み付ける事で応えた。 <海狼>は兄と挨拶を交わし、話していた。その内容は聞えなかったが、ジョスの事ではないだろうかと思った。その姿を探したくとも、儀礼上それは出来ない。少なくとも、兄達と共にいない事は確かなようだった。  ようやく護衛団と共に<海狼>一行は族長の館に向かった。それを見届けて、スヴェルトは船団の者に荷降ろしを手伝うよう命じた。積荷船も陸揚げされており、既にあのエルガドルは下船して族長船から運び出した荷の指示をしていた。老いたりと言えど、この男も威厳を失ってはいない。  正装していない戦士達が積荷船の乗組員を手伝い始めるとスヴェルトは浜に集まった人々に目をやり、そこに正装に身を包んだジョスの姿を見付けた。花嫁衣装とは違った物ではあったが、やはり、あの島の正装のジョスは一際、綺麗だと思った。  スヴェルトはジョスに歩み寄った。本来ならば、族長一家と共に迎えても良かったのだ。だが、一刻も早く家族と会わせてやりたいという気持ちと、なるべく再会を引き延ばしたいという相反《あいはん》する感情がスヴェルトの中にはあった。 「皆、元気そうで安心しました」  ジョスは言った。 「兄貴達といれば良かったものを」 「いいえ、族長からの使いが来なかった以上は、それはなりませんわ」やはり、とスヴェルトは思った。さて、義姉は<海狼>にどう言った物か。「わたしはこれから父に会いに行きますわ。あなたもご一緒なさってください」  スヴェルトは考えた。あの遠い島から来たのだから、娘と二人きりで会いたいのではないだろうか。家族水入らずの方が良くはないだろうか。  その事を伝えると、ジョスは微笑んだ。 「今はあなたもその一員ですのよ。弟達も、あなたに会いたがっていると思いますし」  色々と面倒な今の状況を知られるのは恐ろしかった。自分の娘が蔑《ないがし》ろにされていると知れば、<海狼>は父親の権限でジョスを離縁させる事も出来る。そうなれば、如何に詫びようとも許しては貰えまい。 「父達の長櫃が裏口から運び込まれますわ。それについて行きましょう」  ジョスはスヴェルトの腕に自分の腕を絡ませて来た。「もう、お役目は終わったのでしょう」 「ああ」  躊躇いながらも、スヴェルトはジョスに引かれるままに裏口へ向かった。  長櫃を運ぶ指示をしていたエルガドルがジョスに気付いて声を掛けた。 「ジョス、元気そうで」 「エルガドル叔父さまも。皆、お元気ですの」 「ああ、ソエルとローアンが心配していたぞ」とスヴェルトを見やった。「婿殿を大事にしているかな」 「その事はおっしゃらないで」  周りで作業をしていた乗組員達が忍び笑いを漏らした。ジョスはスヴェルトの腕を引いた。 「お父さまたちにお会いできるでしょうか」 「大丈夫、きっとお待ちだ」  スヴェルトはジョスに引っ張られるようにして客人の棟の裏口から入った。一瞬、エルガドルと目が合ったが、何に対してなのか、そこには同情するような光があった。  最初の到着であったので、<海狼>の部屋は裏口に一番近い部屋だった。 「お父さま、よろしいでしょうか」  扉の前でジョスは言った。 「ジョスか、入りなさい」  深い<海狼>の声がした。  ジョスが扉を開けると、長櫃は既に運び込まれていた。正面の部屋にも幾つか運ばれようとしていたので、そこが兄弟の部屋なのだろう。 「ああ、スヴェルト殿も一緒か、ならば」  と、<海狼>は廊下にいる配下の者を呼び止め、頷いてみせた。直ぐに、兄弟が姿を見せた。先程はじっくりと見る事は出来なかったが、二人の弟はいずれも<海狼>にもジョスにも似ていた。 「スヴェルト殿がいらした」  何時でも<海狼>の言葉は簡潔だった。  七年振りのイルガスはさすがに一家の長となり、以前にも増して落ち着きを身に付けていた。 「スヴェルト、元気そうで何よりだ。船団長に就任したそうだな」  イルガスは<海狼>と同じような髭をたくわえ、明るく言った。 「お前、老けたのではないか」 「お互様だ」  二人は笑い、互いの背を叩き合った。 「弟のフラドリスとマグダルだ」  イルガスが二人を改めて紹介した。 「初めまして、義兄《あに》上」  落ち着いた所はイルガスの若い頃にそっくりだった。また、最もジョスに似ている。 「初めまして、義兄上、マグダルと申します」この青年の明るい笑顔はジョスを思わせた。「めかし込んでいて遅れられたのでしょう。で、姉上の化けの皮は何枚剥がれましたか」 「マグダル」 <海狼>とジョスが静かに言った。  マグダルは肩を竦めた。  その様子に、スヴェルトは笑いを漏らした。やはり、ジョスと<海狼>は親子だ。そして、この青年はジョスの弟だ。 「まあ、こんな弟だが宜しく頼む。ここにいる間、少しでも鍛えてやってくれ」  イルガスが笑いながら言った。フラドリスは大人しく胸に手を当てて頭を下げたが、子供扱いされた事にマグダルは不満な様子であった。まだ薄い髭ではそれでも仕方がない。 「二人に島から持って来た物がある」 <海狼>はそう言い、長櫃の一つを差した。「後で届けさせるが、少し見ると良い」  ジョスは床に跪くと長櫃の蓋を開け、中の反物を手にした。 「お母さまからだわ」  そして、ぐいとスヴェルトの胴着の裾を引いた。そのような仕種は初めてだったので、スヴェルトは少し愕いた。兄弟はにやにやと笑いながら二人を見ていた。ジョスは余程、嬉しいのだろうと思った。 「やはり、素晴らしいわ」  スヴェルトはジョスの広げた夕日のような色の反物を見たが、何とはなしに焦点の定まらぬ不思議な感覚に襲われた。 「微妙に色の違う糸で文様が織られているのがわかりますか。これは、あなたの紋章です」  よくよく目を凝らすと、スヴェルトの紋章が浮かび上がって見えた。微妙な染色は元より、このような物が作れるとは、ジョスの母親は本当に魔女なのではないかと思われる程に、その反物は精緻に織られていた。 「あれは天性の織り手だからな」<海狼>は言った。「スヴェルト殿の正装に使うと良いだろう」 「これは、しかし、ジョスの方が似合うのではないでしょうか」  またもや鮮やかな色に怖気付いてスヴェルトは言った。この父娘《おやこ》の感覚は分からない。 「わたしの目に、この色は合わないわ」  ジョスは布から目を離さずに言った。 「母の反物で作られた衣服を身に着ける機会など、他の部族ではまずないのだからな。ここはお前が折れるのが上策だと思うな」イルガスもジョスの側《がわ》に付き、スヴェルトは裏切られたような気分になった。「それに、案外と似合うのではないか。その緋色も中々、良いぞ」 「確かに、上達はされましたね」  揶揄うようなマグダルの言葉にも、ジョスは反応しなかった。母親の反物に手を滑らせ、心を遠くに馳せているようにスヴェルトには思えた。  族長集会は恙なく始まった。スヴェルトの仕事は入り船の歓迎と、戦士の館に運び込まれた初日に披露される各部族長からダヴァルへの贈り物の管理に気を遣うくらいなものだった。これからが、実際には本番のようなものだ。  様々な物事に紛れて、スヴェルトはジョスが<海狼>や兄弟達と過ごす事が出来たのかは確認する事が出来なかった。夜もジョスには先に休むよう言い付けており、朝はそれ程話をする時間もなかった為だ。だが、集会が始まってしまうと、それでもまだ忙しくはない方だったと思った。  正式に満月の日に集会が始まる迄は族長の館では宴が開かれているとは言え、スヴェルトのような島の戦士は参加しない。また、族長船の者達も自分達の船で夕食を済ませる。それが、集会が始まるや各部族入り乱れての大酒宴となるので、スヴェルトやヨルドは諍いなどに注意を払わねばならない。酔っ払いの喧嘩ほど、性質《たち》の悪い物はないからだ。如何に和平の紐を長剣に掛けていてそれを切らぬ限りは抜けぬようになっているとは言え、ここで流血沙汰など起こされては、船団を仕切る者としては生涯の汚点になりかねない。  族長達が集会で様々な議題を協議している間、スヴェルトは族長船の者達が退屈しないように様々な競技を行った。スヴェルト自身は集会に顔を出さねばならない事もあったが、その時にはヨルドが引き受けてくれた。剣術や弓術、格闘もあった。唯論、楽しみとしての遊戯盤も欠かせない。  イルガスとも手合わせをしたが、互いの手の内を子供の頃から知っていたし、最早、真剣勝負と言うよりは互いの腕が鈍ってはいないかを確認するようなものだった。  この三兄弟は<海狼>と同じように左に長剣を右に小太刀を佩き、両手に得物を持って戦うのだった。初めて北海の部族に加わったこの島の族長が<楯なし>と呼ばれていた事をスヴェルトは思い出した。同じ戦い方が族長家には伝わっているのだ。フラドリスの剣捌きは、まるで舞っているかのように美しかった。マグダルは、これが島外の戦士との初めての手合わせになるので 緊張していたが、それでも、同じ年頃の者達に較べると巧みであった。余程、<海狼>やイルガスの仕込みが良いのだろうと思われた。  宴会でも、スヴェルトはこの兄弟と過ごした。賑やかな中でも、この兄弟は酌婦に余計なちょっかいをかける事もなく、飲み食いもスヴェルトからすると物足りない程に大人しかった。 「しかし、まあ、どの競技でも、お前の部族は結構やるものだな」  スヴェルトはイルガスに感心して言った。突出した戦士は何処の部族にでもいる。だが、粒が揃っているのは、やはり、ジョスの島の者達だった。今でも自ら遠征を率いる<海狼>の族長船の乗組員だからと言えばそれまでなのだろうが、それでも、スヴェルトからすると羨ましい程であった。 「弓などは、子供の頃から女の子でも使うからな」  イルガスは笑った。七年振りの再会に、スヴェルトが蜜酒を途切れなく注ぐものだからか、珍しく酔い気味のようだった。「素早い《《あじさし》》が射れてこそ、だからな」 「では、ジョスも弓を使えるのか」  スヴェルトは愕いた。この島ではそのような女はいない。 「ジョスの腕は、良い。嫁入り道具に弓を入れようとして、慌てて母に止められていたからな。いや、もしかしたら、父から贈られた小太刀の他にも何か持ち込んでいるのかもしれんな」  スヴェルトの知らぬジョスの姿が、そこにはあった。 「お前、ジョスに惚れたろう」  皆が何故、そこに話を持って行くのかスヴェルトにはやはり理解出来なかった。 「お前の妹は、確かに良い妻だ。綺麗だし、頭も良い。申し分ない女だな」 「はっきりと認めろ。戦士に色恋は必要ない、などとは言わせんぞ」  イルガスは笑い、スヴェルトは困った。  そこへ、他部族の諸将への挨拶回りをエルガドルにさせられていたフラドリスとマグダルがやって来た。マグダルは兄に何か文句を言っていた。 「義兄上、もし、明日、時間がおありでしたら、薬草の丘を教えて頂けると有り難いのですが」  マグダルがスヴェルトに言った。 「それでしたら、私も」  大人しくしていたフラドリスが言った。薬草の丘は集落を一望出来る、ジョスが遠征の際に見送ってくれた場所だ。だが、そこは禁足地であり、部族の者しか知らぬ呼び名のはずだった。ジョスから聞いたのだろうかと、スヴェルトは不思議に思った。しかし、今ではあの場所が禁足地である事をジョスは知っている。何の用があって立ち入る事も出来ない場所へ行こうというのか、理解しかねた。 「ほら、二人とも、まだ半分しか回ってはいませんぞ」  エルガドルがやって来て言った。どうやら、目を盗んで抜け出して来たようだった。 「この調子だと潰されます、叔父上」  マグダルが泣き言を言った。 「潰れるのも自分の限界を知る良い経験」  そう言って、エルガドルは二人を連れて行った。スヴェルトとイルガスは笑った。明日の朝は二人とも頭痛と吐き気で大変な事だろう。 「それにしても、二人とも何故、あのような場所に行きたがるのだ」  ひとしきり笑うと、スヴェルトはイルガスに疑問をぶつけた。 「ああ、母の――」  イルガスは、はっとしたように言葉を切った。それまでの笑いも酔いも消し飛んでしまったような顔になった。つい滑ってしまった口を後悔しているようだった。 「母君が、どうされた」  スヴェルトの言葉にもイルガスは答えなかった。ただ、目を逸らすばかりだった。 「どういう事だ」 「いや、今のは違う」 「違う、とは何だ」スヴェルトは詰め寄った。ジョスに関わる事ならば知っておかねばなるまい。「正直に、言え。俺とお前の間柄だろうが」  イルガスは頭を抱えていた。だが、やがてこれまで見た事もない程に厳しい顔でスヴェルトを見た。 「ジョスにお前が知っている事を知られるな。それを誓えるならば、教えよう」 「――誓おう」  誓いは重い。それだけの何が、ジョスにあるのだろうかと不思議に思った。  イルガスは頷いた。ここでは剣に掛けて誓う事は出来なかったが、その重みをスヴェルトが理解している事くらいは、この男は知っているはずだ。 「この島で、父は母を見染めた。その出会いの場が、マグダルの言った薬草の丘だ」 「そのような話は聞いた事がない」スヴェルトは眉を寄せた。何かの勘違いではなかろうか。子供の頃だとて、そのような事があれば記憶にあるだろう。「俺の父は姉を<海狼>殿にと思っていたが、叶わなかった。だが、<海狼>殿はお気に召した織り女《め》を連れて帰還されたと聞く。それが、せいぜい俺の知る二部族間の繋がりだ」 「絶対に、忘れるな」イルガスは低いが強い声で言った。「母は父の正妻であり、唯一人の女性だ。それに、ジョスと弟達の産みの母というだけではなく、私にとっても義理とはいうもの唯一人の母だ」  何度も念を押す言い方に、スヴェルトは更に違和感をつのらせた。 「二十八年前のこの島での集会の際に、父が連れ帰ったその織り女が、ジョス達の母親だ」     ※    ※    ※  初船が着いてから集会が終わるまで、スヴェルトは夜遅くまで帰れないので先に休むようにとジョスに言っていた。スヴェルトのいない一人きりの夕餉は、遠征時と同じく味気ないものだった。ようやく集会が始まったばかりだというのに、後十日もあると、ジョスは溜息を吐いた。宴会の賑わいは家の中にいてさえも大きく聞えていた。今、族長の館とその前庭では、男達が饗宴を繰り広げている事だろう。そこで行われている事に関しては、考えたくはなかった。食事を終えても、いつものように手仕事をする気にはなれなかった。  数日前に父と差し向かいでここで会った事が、どうしても思い出された。  家庭内の不協和音に父は直ぐに気付いたようだったが、何も口にしなかった。ジョスが、島を出る前夜のように父の膝に頭を凭せ掛けても、唯、黙って髪を撫でてくれるだけだった。それだけでも、充分に父からの深い愛情を感じる事が出来た。  だが、スヴェルトに関してはジョスはやはり、自信が持てなかった。  大事にされる事と愛される事は別だった。愛情はなくとも、大切に扱われる事はある。スヴェルトが自分を大切にしてくれているのは分かっていた。それだけでは、しかし、足りなかった。  島を出て初めて、自分がどれ程深い愛情の中にいたのかを思い知らされた。両親や兄弟と言った身内からのみならず、島の人々の愛情によって自分は育まれて来たのだと、遅すぎるきらいはあったが、あの出立の見送りで身を以て知った。  この島へ来た当初、頼れるのはスヴェルト唯一人だった。  今は、ミルドもフレーダもいる。だが、頼る事には慣れていないジョスは相談の仕方すら分からなかった。父母に甘えるようにスヴェルトに甘えてみる事も出来なかった。  さぞかし可愛げのない女だとスヴェルトには思われているだろう。そう思うと、ジョスの心は沈んだ。  先に休む気にもなれず、ジョスは一人、遊戯盤の駒を動かした。二人で盤を挟む日は永遠に来ないのかもしれない。  夜半に戻ったスヴェルトは、まだ起きていたジョスを見て愕いたようだった。だが、無言でジョスに頷いた。未だ果てぬ宴席の賑わいを考えると、思った程には酔っていないようだったが、近くに寄ると強い蜜酒の匂いがした。  ジョスは食堂の鯨油蝋燭を持つとスヴェルトの先に立ち、寝室へと向かった。  スヴェルトは静かに寝室の扉を閉めると、いつになく深い溜息を吐いた。何処か様子がおかしいとは思ったが、それを訊ねる事は出来なかった。 「お疲れでしょう」  それだけを言った。 「まだ初日だからな、それ程の事もないだろう。段取りが決まる迄は厄介だったが」  静かにスヴェルトは言った。ジョスの顔を見ようともしない。 「明日もお早いのですから、お湯をお使いになって、ゆっくりとお休みなさいませ」  ジョスにはそう言うしかなかった。二人の間の、ハザルの存在は余りにも大きかった。     ※    ※    ※  寝支度をするジョスの後ろ姿を見ながら、スヴェルトはイルガスの話を思い返していた。  追求するべきではなかったのかもしれない。  スヴェルトが知ったのは、ジョスの母親と自分の部族との関係だった。  元は沿岸の領主の娘であったものが、自分の祖父の命でその部族が滅ぼされ、魔女の目を持つが故に織り女にされた事。  ジョスはかつて、自分の母が海を渡ってやって来たのだと言わなかっただろうか。それは、この島の事だったのだ。そして、今やこの島の伝説となった織り女が、母親だったのだ。  スヴェルトは遠征時の自分の気に入っていた城砦の跡を思い出し、どきりとした。あの場所が、ジョスの母の故郷なのかも知れない。叔父はあの場所の来歴を語った事はなかった。何かを知っていたにせよ、それをスヴェルトには話さなかった。  ジョスも<海狼>も、そのような事は全く態度には見せなかった。イルガスも弟達もそうだ。  ジョスは、どのような思いを抱《いだ》いて自分に嫁いで来たのだろうか。  好意を持ってくれている、と思ったのは、自惚《うぬぼ》れに過ぎなかったのか。  考えれば考える程、混乱した。  一つ、分かっているのだとすれば、ジョスが奴隷達に対して同情的である理由だった。そこにかつての自分の母親の姿を見ていたのだろうか。  では、あの嫌な噂は。真偽は。  ジョスを疑いたくない気持ちに変わりはなかった。自分は心を決めたのではなかったのか。だが――  無事に集会は十日間を終える事が出来た。  スヴェルトは諍いもなく穏やかに、何とか日々が過ぎて行った事に安堵した。前回の集会では船団の上位にいたものの、様々な心配はしなくとも良い気楽なものだった。いざ、船団長として集会を迎えてみると、もう二度とは御免だという気持ちしか起こらなかった。かつて叔父が、全ての船を見送った後は酒を呑むのさえ億劫そうにしていたのも頷けた。それ程に、気を遣う事も多かった。収穫は、ジョスの弟達を知る事が出来たという事に尽きるだろう。それも、苦い思いと共にではあったが。  族長の出立に際して、スヴェルトは再び正装をせねばならなかった。その緋色を揶揄う者はいなかった。遠征の際には自分に馴染まぬ居心地の悪い色だと思っていたのだが、今ではしっくりと来るようだった。ジョスの慧眼には敵わぬと思った。  そのジョスが。  結局、全ての思いがジョスへと帰って行き、スヴェルトの混乱は収まらなかった。  北海の部族には血の復讐があった。身内を殺された者は、殺人者かその身内を殺す事が許される。被害者の身内が女のみの場合には、その夫に復讐の権利がある。いや、法により保証されている権利、というよりは血讐は義務のようなものだった。昔の話だからと済むような事ではない。大陸の者とは言え族長の妻の部族皆殺しは、相当な代償を支払わねばならない程の重罪に値するだろう。如何に権利を放棄したとしても、心情的にそのような者達と姻戚関係を結ぶのは難しかろう。  しかも、奴隷身分に落とされたのならば、その子も同身分である。例え解放されたとしても、族長の正妻になどなれない。  スヴェルトの常識ではついては行けなかった。  族長達が島を離れるのは、潮の関係もあって一斉にだった。  ここでも、<海狼>の船が最後に出立する事になったが、結局は他の島の積荷船が出発に手間取った事もあって潮時を逃した。それに関しては全く、<海狼>は頓着していないようだった。潮には関係なく出られると平然と答えた。  浜に普段着のジョスを見付け、スヴェルトは慌てて人垣の奥に連れて行った。いかに娘とは言え、正装で送った方が良かろう。その方が、近くで送る事が出来るのには間違いがない。次に会えるのは七年後なのだから。  乗り気ではない様子のジョスを、スヴェルトは家まで引っ張って行った。ジョスはされるがままだった。ジョスは父親には何も語らなかったのだろう。それは有り難い事ではあったが、それならば余計にけじめを付けねばならなかった。ジョスは、この島に残る事を選んだのだから。  家の中は静まり返っていた。普段なら、ジョスを真っ先に迎えるあの女奴隷の姿もなかった。 「おい、着替え手伝って貰わなくても良かったのか」  念の為、スヴェルトは着替えて戻ったジョスに訊ねた。 「一人で大丈夫ですわ」 「いつもの女奴隷は、どうした」 「解放して、父に託しました」  スヴェルトは一瞬、意味が分からなかった。だが、理解すると、徐々に苛立ちが湧いてきた。 「家長の俺の許しも得ずにか」 「父の許しを得ました」  ジョスの言葉は、飽くまでも静かだった。 「そう言う問題ではない。お前の夫は俺で、この家の家長も、そうだ。お前のやった事は、妻としては越権行為だ」  ジョスに怯んだ様子はなかった。淡々としていた。 「あなたはお忙しい身でしたし、家人については、わたしが任されていたと存じますが」 「家人ではない、奴隷だ」  思わず、声を荒げた。「何人、解放したんだ」 「ミルドとドルス、ショーズとマルナですわ。イズリグはハザルの世話をせねばなりませんし。ソールトにはまだ、憶えてもらうことがたくさんありますから」 「四人もか」  スヴェルトは呆れた。それでは、新しい館に移った所で、維持していけるとは思えない。 「お前は何を考えているのだ。引っ越せば、全てをお前が引き受けるとでも言うのか。それを俺が許すとでも」 「あなたがお許しになられようとなられなくても、わたしは大丈夫です」 「何を以て、大丈夫だと言えるのだ。お前は子が欲しくはないのか」 「誰が望むのでしょうか」  目を伏せて小さな声でジョスは言った。  身籠もった奴隷女の陰で、ジョスはどのような思いをして来たのだろう。義姉が完全にジョスを無視している事は、<海狼>の船が来た時に明らかだった。「支度に時間が掛かっている」などという言い訳で、誤魔化そうとはしていたが、呼ぶ気がなかったのは明白だ。  スヴェルトの心に一瞬、突き刺さる物があった。だが、勝手をした事は許せなかった。 「ここはお前の島ではない。家長の俺の許可なくして、お前が勝手に判断する事は許さん。それが出来るのは、俺がお前に委ねた時と遠征の時くらいなものだ。その事をしっかりと刻み込んでおけ」  今迄にない強い言い方になってしまった。それでも、スヴェルトは自分を止める事が出来なかった。何もかもが、頭の中で混乱していた。 「島の問題ではありません」  ジョスは顔を上げ、きっぱりと言った。「いかに家長とは言え、あなた方男性は、家政には興味をお持ちではありませんでしょう。それならば、同じ事ではありませんか」 「同じではない」  スヴェルトは反論した。「家政は女の仕事だ。それは認めよう。だが、お前の心配は誰がする。他の奴隷がしてくれるとでも言うのか」  あの女奴隷の事はスヴェルトも認めていた。だから、少しは安心も出来た。だが、今、この家に残されたのは農夫と、身に覚えのない子を孕んだ女奴隷とその世話係のみ。あの女奴隷の気性では、世話の女はジョス手伝う事もままならぬであろう。 「子供までも何故、手放した。お前は、仕込むなら子供の内の方が良いとは言わなかったか」 「詭弁ですわ」 「きべん…」  スヴェルトは言葉の意味が取れなかった。 「あの子達を引き取る、単なる言い訳です」  言い訳。  スヴェルトはむっとした。だが、何とか自分を抑えた。これからジョスの父親の船を送らねばならないのだ。それに、一言、謝罪の言葉があれば、それで許せるであろう。 「お前は、奴隷に同情的過ぎる」  声を抑えてスヴェルトは言った。「いつも、そうだ。まともな奴隷を使う気はあるのか」 「奴隷とおっしゃいますが、同じ人間です」  ジョスはスヴェルトの目を真っ直ぐに見て言った。 「同じ人間、だと。馬鹿を言うな、奴らは家畜だ」  もう、感情に抑えが効かなくなって来ていた。 「お前がそんな風に言うのは、あの噂が本当だからか」 「あの噂」  不審げにジョスの眉が寄せられた。「何の噂を、あなたはご存じですの。この集落にはあらゆる噂に満ちておりますわ」  それは真実だった。だが、スヴェルトは自分の部族が侮辱されたような気がした。 「俺の遠征中、お前はあの男奴隷と良い仲だったそうじゃないか」 「女主人と使用人、という立場で言えば、上手く行っていました。でも、あなたがおっしゃりたいのは、そのことではありませんでしょう。はっきりと、おっしゃってください」  その冷静な物言いに、スヴェルトはかっとなった。 「お前達が、男と女の仲だった、という事だ」 「わたしをお疑いになりますの」  ジョスの顔にさっと朱が差した。 「では、どうだと言うのだ。釈明が出来るのか。潔白を証明出来るのか。その男を逃がしたのではないのか」 「あなたは…あなたは、わたしを疑っていらっしゃるのですね」  ジョスの手が、鯱の牙を握り締めた。それが更に、スヴェルトの理性を失わせた。 「お前は――自分の母親が奴隷であったから、情が移ったのではないのか」  口にしてから、スヴェルトは誓いを破った事に気付いた。一気に怒りが収まり、血の気が引くのが分かった。墓場まで持って行くと誓った言葉なのに。だが、一度、出てしまった言葉は取り戻す事は出来ない。  ジョスの顔が茫然となった。  全ての感情が空白で、スヴェルトの言葉を理解しかねているようだった。  だが、やがて、その目からはらはらと涙がこぼれ落ちた。 「あなたは、母を侮辱なさいますのね」 「いや、そのようなつもりでは――」  つい、勢いで出た言葉だった。だが、そのような事はジョスにとっては関係のない事は、スヴェルトにも分かっていた。  ゆっくりとジョスの右手が上がり、鋭くスヴェルトの頬を打った。  いきなりの事に今度はスヴェルトが茫然となった。  ジョスは婚姻の証である腕輪を外し、スヴェルトに投げつけた。次には指輪が、飾り留めが飛んで来た。  最後には、あの鯱の牙が投げつけられた。 「あなたなんて、大っ嫌い」  そう叫ぶや、ジョスは身を翻した。扉が乱暴に開く音がした。  眼前に散らばる品を無意識の内に拾い集めると、スヴェルトはそれを剣帯に付けた革の小物入れに突っ込み、ジョスを追い掛けた。  空気が重かった。水中にいるような感じがした。ジョスの姿は、どんどんと遠ざかって行く。  今、摑まえなければ、二度とは摑まえる事が出来ないような気がした。  浜では、待ちくたびれたのか、<海狼>の族長船が今しも渡し板を外そうとしているところだった。積荷船は既に海に出ている。 「イルガスお兄さま、受け止めてっ」  奴隷の支える渡し板の上を、ジョスは軽々と駆け上がり、そして、跳んだ。  スヴェルトの目には、それはまるで鳥が飛び立つように見えた。咄嗟に抱き留めたイルガスが勢い余って後ろに倒れるのが見えた。  舷側に、ジョスの二人の弟が張り付いてスヴェルトに目をやった。  間に合わなかった。船は海に滑り出していた。そうなっては、もう、スヴェルトには手出しは出来ない。一度浜を出た船を戻す事ほど、不吉な事はないのだ。 「何をぼけっとしているんです」ヨルドの声にスヴェルトは我に返った。「追い掛けましょう。奥方様を取り戻したいのでしたら、今でないと拗《こじ》れるだけですぞ。貴方の竜頭船を直ぐに用意させます。乗れる者だけででも、行きましょう」  スヴェルトは顔を上げた。ジョスを諦めるなど、有り得なかった。 「よし、最低人数で構わない」スヴェルトは言った。「連れ戻しに行く」

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この作品の評価

4pt

10章まで読みました。 とうとう行動に移したヒロイン。 不器用な二人がどうなるか、ますます楽しみです。

2019.09.24 22:28

taeko246

0

非常な細やかな描写、感情の揺らぎ。 あまり知らなかったヴァイキングの世界が目に映るようです。 ヒロインのこれからの活躍に期待です(^^)

2019.08.29 13:42

taeko246

0

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