香港満天星 後編

〔6〕 「……チャンって、誰……」  テーブルに突っ伏しながら呻く俺に、エマが「なあに、萎れてんのお?」と俺の髪をかき混ぜるように撫でる。 「やめろってば……」  うざったくてその手を払うと、のんびりと休日を楽しんでいたアテナも、向かいの椅子に腰を下ろす。 「もしかして、またラウ兄さんのところで何かあったわけ?」  思わず低く唸るような声が漏れ、俺は地獄から這い出すように顔を上げる。そして、|冰室《カフェ》での出来事を話して聞かせる。  俺の話に耳を傾けていた二人が顔を見合わせ、アテナが驚いたように呟く。 「なんだか、次から次へとラウ兄さんの知らない面が明らかになっていくわね……」 「そうなんだよ、そりゃあ、九龍城砦に住んでいたし、秘密結社の人と顔見知りなのも分かるよ。それよりも、凄くラウ兄ちゃんが哀しそうで……」  あの後、茫然とする俺に気付いたラウ兄ちゃんは、哀しみを押し殺したように笑みを浮かべて「心配させて、ごめんね」と言ったのだ。  謝ることじゃないのに……そう返したくても、言葉にならなくて、マックスは気遣わしげにラウの背中をそっと撫でる。 「今日はもう、店じまいしたらどうかな?」  普段のラウ兄ちゃんだったら、きっとそんな事はしないはずだ。しかし、よっぽど堪えていたのだろう。彼は、こっくりと頷き、結局、|冰室《カフェ》はそのまま閉店となった。  二人、肩を並べて帰路につくマックスとラウ兄ちゃんを、俺は何とも言えない気持ちで見送った。 「ねえ、ダニー……今、チャンって言った?」 「うん? そうだけど……」  何やら考え込んでいたエマが、ハッとしたように頷く。 「チャン……! そうだ、あの時、ラウ兄さん、チャンって言ってた!」 「な、なにが!? どういうこと!?」  思わず勢いよく身体が前のめりになる。エマは得心が行ったように何度か頷いてみせた。 「ほら、あたし……昔から、洋服のデザインとかイラストを描くの好きだったじゃない?」  うんうん、と俺とアテナは同時に頷く。 「で、あれは多分、十二、三才頃だったかなあ。あたし、学校の絵のコンクールで賞をもらって、ラウ兄さんに褒められた事があるのね。エマは絵の才能があるね、チャンみたいだ、って」  衝撃を受ける俺に、エマは何度か頷いてみせる。 「で、あたしが『チャンって誰?』って聞いたの。そうしたら、ラウ兄さんも少しハッとしたようだった。きっと無意識に口をついてしまったのよ。それから、少し哀しそうに笑いながら『大切な人だよ』って言うの」  大切な人……! その言葉の衝撃に、思わず悶絶すると、アテナがうざったそうに俺を見る。 「落ち着いて、ダニー兄さん。で、エマ、そのチャンって人の情報は他に訊けたの?」 「勿論! あたしもチャン兄さんから大切な人、なんて言葉が出るなんて思わなくて、ついつい、どんな人なの? とか、どこに住んでるの? なんて勢い込んで尋ねちゃったのよ。そうしたら『とても強くて、絵が上手い人だったよ。そして、今は、空の上に住んでる』って言ったの」  俺とエマは虚を衝かれたように、アテナを見つめる。空の上……それって…… 「もう亡くなっている、ってことだよね……」  ぽつりとアテナが呟き、思わず俺は顔を両手で覆ってしまう。 「ラウ兄ちゃんが言うくらいの武闘派で、絵が上手いってことは絵描きってこと? なにその人……しかも、死んでしまったなんてさあ……」  それって、永遠にラウ兄ちゃんの心の中に棲み続けるって事じゃないか……そう呻くように言えば、二人も「そういう事だよねえ」と少し声を落とす。 「ねえ、やっぱりラウ兄さんの恋人だったのかな?」  エマがアテナに訊き、彼女が「うーん」と考えるように、顎に手をあてる。 「もしかするとそうなのかも……でもさあ、ラウ兄さんって、本来は異性愛者なんじゃないかな。なんていうか、男の人が好きで男娼をやっていた感じじゃないのよね……」  アテナが言葉を選ぶように言い、エマも同感とばかりに何度も頷く。 「そうなのよ! あたしも前からそれは思っていたのよ! でもさ、そんなラウ兄さんが大切な人っていうくらいだから……」 「……性別を超えた愛ってことかあ……」  なんだか切なくなってきてしまい、再びテーブルに突っ伏す。 「ちょっとお、なんで落ち込んでいるのよ!」 「エマの言う通りよ。そんなにじめじめしてたらねえ、カビが生えるわよ!」  そう双子が俺の両腕をそれぞれ掴んで、椅子から立たせる。 「はい! ほら支度して!」 「……支度……?」  ぼんやりと二人を見れば、そういえば、やけにお洒落をしている。 「どこに行くの?」  エマがニヤリとしてみせ、俺の頬をつつく。 「休日の夜よ? 夜遊びしないでどうすんの?」 「そうそう、|尖沙咀《チムサーチョイ》の夜は長いわよ!」 「ダニー兄さん、顔はいいんだからさ、もっとファッションに気を遣った方がいいよ? あたしがコーディネートしてあげる!」 「じゃあ、デパートで兄さんの服、見繕わない?」 「いいね! あたしのおすすめの店があるんだ!」  妙にきらきらと瞳を輝かせながら話を進める二人に引っ張られて、俺は夜の街へと繰り出す事となった。  すっかり盛り上がっているエマとアテナに連れられて、ネオンが煌びやかに輝く|尖沙咀《チムサーチョイ》の大通りを歩く。  彼女達の言う通り、落ち込んでばかりもしょうがないか……そう自分を納得させるように溜息をつきつつ、人で溢れた路地に視線を走らせる。  その時、見覚えのある人物が目に入り、俺は「あっ!」と思わず立ち止まる。 「ダニー兄さん?」  俺の様子に気付いて、二人がこちらを振り向く。俺は、半ば反射的に彼の元へと走っていた。 「ダニー兄さん!? どこ行くの!」 「ちょっと先に行ってて!」  二人が何かを言うが、それを無視して人混みを掻き分けつつ走る。何とか彼の前に周りこみ、俺は、無表情のホンを見つめる。 「あの、ホンさん……! ラウ兄ちゃんの事で、お話を訊きたいんですが……!」  ホンさんの両脇にいた手下らしき男が、突如現れた俺に警戒して踏み出す。それをホンさんが制した。 「……お前は、ラウが住み込みで働いていた、|茶餐廳《チャーチャンテン》(大衆食堂)の長男だったな」  衝動に任せて話しかけてしまったが、マズかったかも……俺は少し後悔しながら、深く頷いた。 〔7〕  ホンさんに連れられてきたのは、|尖沙咀《チムサーチョイ》のナイトクラブなどが集まるエリアのバーだった。  座っただけでとんでもない料金を取られそうな、ラグジュアリーな雰囲気を漂わせる店内に、俺は落ち着きなく店内を見回す。  慣れた様子で革張りの高級ソファーに腰を下ろしたホンが煙草を唇に挟みながら、ひょいと眉を上げる。 「そう緊張するな。ここは|応竜《インロン》の息の掛かったバーだ。なにを話しても外には漏れない。酒は何が良い?」 「あ、いや……水で結構です」  慌てて言う俺に、ホンさんの無表情の顔に僅かながらも笑みらしきものが浮かぶ。 「若者が遠慮するな。金は取らないから安心しろ」 「あ、じゃあ……|檸檬可樂《レモンコーラ》をください」  ホンさんがボーイに「|檸檬可樂《レモンコーラ》と俺のボトルを」と告げ、ゆったりと紫煙を吐き出しながら足を組んだ。  すぐさまボーイがやってきて、洗練された仕草で氷とスライスした檸檬が数枚入ったグラスに|可樂《コーラ》を注ぎ、同じく繊細なウィスキーグラスに、ホンさんのキープしているらしい高級ウィスキーを注いでいく。 「乾杯でもするか?」  そうグラスのステムを持ったホンが唇の端を上げ、狼狽する俺に「冗談だ」とウィスキーの香りを楽しむ。  俺は動揺を悟られないようにストローで|可樂《コーラ》を吸い上げる。本来なら、この一杯でいくら取られるんだろう……? 「ここは、ラウが勤めるはずだったバーだ」 「……えっ?」  目を瞬かせる俺に、ホンさんが少し遠い目をしたが、すぐにゆるりと首を横に振った。 「それで? ラウの事について聞きたいそうだな」  そう彼が気を取り直したように、こちらを真っ直ぐ見つめ、俺はその鋭さのある目に少し緊張しながら頷く。 「あの……ラウ兄ちゃんと知り合いだったという、チャンさんという名前の画家をご存知ですか?」 「……画家?」  ホンさんが僅かに眉間に皺を寄せ、俺は真面目に頷き付け加える。 「なんでも武術にもたけた画家さんだとか……」  ホンさんが何とも言えない面持ちになり、俺は小首を傾げる。 「俺が知っているチャンという人は、俺の上司にあたる人だった。頭が切れ、下の者にも色々と気にかけてくれる人だったよ」  俺はとんでもない勘違いをしている事に気付き、頬が熱くなるのを感じる。 「……多分、その人の事だと思います。ラウ兄ちゃんからは、詳しく聞いていなかったから……勘違いしていたみたいです」  恥ずかしさを誤魔化すように檸檬のきいた|可樂《コーラ》を啜る。炭酸が咽喉を強く刺激し、小さく咳払いする。 「チャンさんの何を知りたいんだ?」  そうホンさんがじっと隙のない瞳を向け、俺はどきりとしながら少し俯く。 「彼は……ラウ兄ちゃんの恋人だったんですか……?」 「それを知ってどうする」  俺はハッと彼を見つめる。ホンさんは細く煙草のけむりを吐きながら、ソファーの背もたれに体重を掛ける。 「それに、どうしてラウ本人に訊かないんだ? お前たちは家族も同然なんだろう?」  なんだか、顔に冷たい水でも掛けられたような気分だった。 「そう、ですよね……」  俺は少し吹っ切れた気分で呟く。そうだよ、俺とラウ兄ちゃんは家族じゃないか……なのに、どうしてこんな風に、こそこそと嗅ぎまわるような事をしているんだろう……!  俺は自分の行動に今さらながら恥ずかしくなってしまい、自分の膝を見つめる。 「俺が言えるのは、もしチャンさんが生きていたら、二人は今も一緒にいたと思うし、何より彼の事だから、組織のトップ……|龍頭《ドラゴンヘッド》も夢じゃなかったはずだ。そして、俺はその背中をひたすら追いかけていただろう」  そう呟くホンさんの顔は、哀愁に満ちており、チャンという人がどれだけ凄い男だったのかが分かった気がした。 「……きっと凄く、格好良かったんでしょうね」  思わず呟くと、ホンさんは「ああ。|13K《サップサンケイ》……いや、|三合会《トライアド》(黒社会組織)の者が束で掛かっても敵わないくらいな」と、唇の端を僅かに上げた。 「……それに」  ふと、ホンさんが思い出したように俺を見やる。 「チャンさんと小さい頃に一度、会っているはずだぞ」 「……えっ!?」  目を瞠る俺に、ホンさんは「よく思い出してみろ」と芳醇なウィスキーを楽しむようにグラスを傾けた。 〔8〕  翌朝。  俺は学校に行く前に、ラウ兄ちゃんの住む|唐楼《トンラウ》(低層アパート)を訪ねていた。下町特有の建物はいつもどこか懐かしさを感じさせる。  部屋のチャイムを鳴らすと、すぐさまドアが開き、マックスが姿を見せる。 「……ラウ!?」  その勢いに、ぎょっと思わず後退りすると、マックスもハッとしたように目を瞬かせる。 「ダニー、すまないね、驚かせてしまって」 「ううん、平気だよ。ラウ兄ちゃんは居ないの?」  マックスはその整った面を曇らせて「中で話そう」と俺を部屋に促す。  |唐楼《トンラウ》特有の広々とした部屋のリビングで、俺達は向かい合う。 「実は、ラウとちょっとした言い合いになってしまってね……それで、彼は部屋を飛び出してしまって……」  そうマックスが淹れたての珈琲が注がれたマグカップを俺の前に置く。ふと、テーブルに置かれていた箱状のものに気付いて、息を呑んだ。 「これ……って、|骨灰盒《グゥフイホー》だよね?」  それは漆黒の陶磁器で出来た|骨灰盒《グゥフイホー》(骨壺)だった。表面には美しい花の細工が施され、それが高級なものであるのが分かった。 「もしかして、中に入っているのは、チャンさんの骨……?」  マックスは哀しそうな瞳で頷いた。どうして、チャンさんの骨がラウ兄ちゃんの元に……? 「ラウは、ずっとチャンの骨を手元に置いていたんだ」  息を呑む俺に、マックスはどこか遠い目で|骨灰盒《グゥフイホー》を見つめる。 「香港は土地事情から、お墓を手に入れるのは難しいらしいね」  確かにマックスの言う通りで、香港は墓不足が問題となっていて、その価格も当然、かなり高いのだ。なので、経済的な理由などで|骨灰盒《グゥフイホー》を手元に置く人も珍しい事じゃない。  だけど……きっと、ラウ兄ちゃんは…… 「きっと、ラウは今でもチャンの影を追っているのだと思う……」  俺は彼の言葉に小さく頷いた。 「……ラウは、まだあの事件に囚われているんだ……」  そうマックスがやるせなさそうに囁き、俺は「事件?」と彼に問う。マックスは、気まずそうに目を伏せたが、弱く笑みを浮かべた。 「ラウ兄ちゃん、どこに行ったんだろう? 迎えにいかないと……」 「……それなら、心当たりがある。行き違いにならないよう、俺はここにいるから、迎えに行ってあげてくれないか?」  違法建築ビル群がひしめいていた九龍城砦は、取り壊されたのちに広々とした公園となっていた。混沌としたスラム街の面影は、すでにそこにはない。  緑が溢れる広々とした公園を巡り、庭園の隅に置かれた石造りのベンチに目当ての人を見つける。  ぼんやりと腰を下ろすその姿は、まるで迷子のように頼りなくて、胸が締め付けられるような気分で彼の前に立つ。 「ラウ兄ちゃん……」  ラウ兄ちゃんが、はっとしたように顔を上げ、俺は小さく微笑む。 「隣、座ってもいい?」 「もちろんだよ」  ラウ兄ちゃんが淡く微笑み、彼の隣に腰を下ろす。緑が覆い茂げる樹々の間から、朝日がこぼれ落ちる。 「……まるで、夢のようだよ」  そうラウ兄ちゃんがぽつりと囁き、俺は彼を見やる。 「自分があの巨大なスラム街に暮らしていたなんて……こうして、何もなくなってしまった此処に居ると、不思議でしょうがない」 「……ラウ兄ちゃん……」  物憂げな彼の様子に、自分でも情けない顔をしているのが分かった。 「もしかして、マックスから聞いて、ここに?」  うん、と俺は頷いて自分の手許に視線を落とす。 「詳しくは訊いてない。だけど、チャンさんの|骨灰盒《グゥフイホー》も見たよ」  ラウ兄ちゃんは「そうか……」と吐息交じりに呟いた。 「チャンの|骨灰盒《グゥフイホー》を納める墓が見つかってね……ホンはその事を知らせに来てくれたんだ。|13K《サップサンケイ》の合同の墓はあるのだけど、そこに納めるのは嫌だったんだ。その事をホンも理解してくれて、ずっと……彼の遺骨は手元に置いていたんだ」  ふと、ラウ兄ちゃんは、小さく笑ってみせる。 「ホンもしかすると、とっくに墓の手配はしてくれていて、タイミングを計っていたのかもしれないな……」 「ラウ兄ちゃんは、チャンさんの骨を手元に置いておきたいの?」  ラウ兄ちゃんは自嘲的に唇の端を上げ、木漏れ日の降り注ぐ樹を見上げる。 「俺は、未だにチャンという存在に囚われているんだと思う。そうホンに……いや、マックスにも言われてしまったよ」  俺はまだ、身近な誰かの死というものを経験したことは無かった。それに、大切な人と死に別れると言う経験も幸運なことにまだ、ない。  だが、それはいつか必ず訪れる事であり、死は誰にも平等にやってくる。  だが、大切な人を失い、その人の存在を感じていたいという気持ちは想像できる。 「チャンの死は、本当に唐突で残酷なものだったんだ……」  そうラウ兄ちゃんが俯きながら、囁く。その端正な横顔は、まるで神に懺悔するように、苦し気で辛そうだった。 「チャンが撃たれた時、俺は彼の隣にいたんだ。あんなに近くにいたのに、どうしてもっと早く危険を察知できなかったのだろう……? いや、それよりもっと早い段階で、彼女がチャンを狙っていたと気付けなかったのだろうか? そんな風に思えてならないよ……チャンだけでなく、俺も一緒にあの時に撃たれていれば……」 「ラウ兄ちゃん!」  俺は思わず大きな声を出してしまった。ハッとしたようにラウ兄ちゃんがこちらを向き、俺は堪らなくなって、彼の身体を抱き寄せた。 「やめてくれよ! そんな風に言わないでよ! 俺、ラウ兄ちゃんに出会えて、本当に良かったと思ってるんだから……! 俺、ラウ兄ちゃんには、もっと幸せになって欲しい。死んだチャンさんの事を忘れろなんて言わないよ。だけど、だけどさあ……このまま、ラウ兄ちゃんは、死者の影を追いかけ続けるの? そんなの俺、哀しいよ……! それに、チャンさんが亡くなったのは、ラウ兄ちゃんのせいじゃない……もし、チャンさんと話すことが出来たら、きっと彼だって同じことを言うはずだよ! 残されたものは、生きなきゃいけなんだ……!」  なんだかラウ兄ちゃんが消えてしまいそうな気がして、俺は背中に回した腕に力を込める。とりとめもなく、必死に言う俺の背中をラウ兄ちゃんが宥めるようにそっと撫でる。 「……あんなに小さかったダニーも、いつの間にか立派な大人になっていたんだなあ……」  俺は、涙の滲んでしまった目を瞬かせながら、ぐすんと鼻を啜る。 「そうだよ、俺だってもうガキじゃない。だから、ちょっとは俺の事も頼ってよね……」 「……生きなくてはならない、か……」  ラウ兄ちゃんが囁き、彼にしがみつくようにすると、ラウ兄ちゃんは「苦しい……」と小さく呻く。はっとなって身体を離せば、薄く涙を滲ませたラウ兄ちゃんが、小さくふき出す。 「泣かないで、ダニー」 「泣いてないよ!」  俺はぐいっと手の甲で目元を拭って、むきになる。ラウ兄ちゃんは、優しく微笑みながら俺の頭を撫でた。 「そろそろ、帰ろうか」  そうラウ兄ちゃんが立ち上がる。その穏やかな顔は、どこか憑き物が落ちたような感じがした。  ラウ兄ちゃんの部屋に戻ると、そこに人の気配がない事に気付く。 「マックス?」  二人でマックスの姿を探すが、どこにも彼は居なかった。 「買い物にでも出掛けたのかな?」  そうラウ兄ちゃんに言えば、彼はゆっくりと首を横に振った。こちらに一枚の紙を差し出す。 そこには『ラウへ すまない。至急、香港を離れなくてはならなくなった。きみとの友情が今後とも続くことを信じているよ。また、きみの|鴛鴦奶茶《えんおうだいちゃ》を飲める日を楽しみにしている』と綴られていた。 「……そんな……せめて挨拶くらい出来たら良かったのに……」  ラウ兄ちゃんは、少し寂しそうに微笑み「また、いつか会えるさ」と丁寧にメモを折りたたんだ。 〔9〕  閉店直後の|冰室《カフェ》・|香港満天星《ホンコンドウダン》を訪ねると、カウンターで片づけをしていたラウ兄ちゃんが、ぎょっとしたように俺を見る。 「……ダニー! それ、もしかして……!」 「まあ、予想はしてたけどね……」  俺は苦く笑いながらカウンター席に腰を下ろし、唇の端の痣にそっと触れる。 「キットってば……あれだけ言っておいたのに……」  ラウ兄ちゃんの言葉に驚いて彼を見れば、彼は苦く笑いながら相槌を打つ。 「キットは、昔から、ダニーを大学に入れたいと言っていたからね。だが、それはキットの希望であって、ダニーがもし他の道に進みたいと思ったら、それを認めてあげてほしい、とね。今回、ダニーが相談してくれたから、少し話しておいたんだ」 「父さんも母さんも、俺の為を思って、ずっと必死に学費の為に働いてくれて、そこは感謝しているんだ。下の双子も自分たちの仕事が忙しいはずなのに、俺が勉強に集中できるように、って色々とサポートしてくれるし……」 「皆、それだけダニーを愛しているのさ」  そうラウ兄ちゃんが「|凍檸檬茶《トンレンチャ》は口に沁みるだろうから、今日はこっちね」と、|鴛鴦奶茶《えんおうだいちゃ》の注がれたグラスを置く。  いつもと変わらず美味しい|鴛鴦奶茶《えんおうだいちゃ》を飲みつつ、俺は頷く。 「でも……俺、どうしても挑戦してみたいんだ」 「この本も気になっていたみたいだし、そうじゃないかな? とは思っていたんだ」  そうラウ兄ちゃんがカウンターテーブルに置かれた、マックスの贈り物である菓子のレシピ集の表紙を撫でる。  ずっと、ラウ兄ちゃんに相談したかった事。それは、大学を辞めて洋菓子の職人になりたいという事だった。 「香港に流通しているケーキってさ、あまり美味しくないだろ? だからこそ、ラウ兄ちゃんが作ってくれたトライフルや、そのレシピ本にあるような、味も良く、美しいものを作ってみたいんだ……」 「流石、キットの息子だ。何かを作るのが好きなんだよね」  そうラウ兄ちゃんが微笑み、俺は頭を掻く。実は、母さんと双子にも同じような事を言われたのだ。 「それで、キットは、最終的に何て言ってたの?」 「それが……」  大学を辞めたいと打ち明けた瞬間に、父さんの拳が飛んできて、床にひっくり返る。母さんが「殴る事はないでしょ!」なんて眦を吊り上げて俺を庇い、まさにこれは修羅場だと覚悟していると、部屋の隅で静かに本を読んでいた弟のタロンが口を開いたのだ。 「だったら、僕が大学に行く」  ぽかんとする俺達にタロンは「僕、宇宙の研究をしたいの」と、読んでいた英語の専門書の表紙をこちらに向けた。 「タロンは、昔から秀才だったもんね」 「うん。あいつは俺より数倍頭が良いし、きっと奨学金も受けられると思う。結局、タロンの一言で、父さんも仕方なく納得して『勝手にしろ』って」 「じゃあ、フランスの専門学校に行くんだね?」 「うん。でも費用をまず稼がなくっちゃ。そこは自分の力で何とかしたいから」 「偉いな、ダニーは」  そうラウ兄ちゃんが、そっと俺の頭に手を乗せる。その感触に、俺はハッと彼を見つめた。 「……思い出した……!」  不思議そうに小首を傾げるラウ兄ちゃんに身を乗り出した時、ドアが開く気配がする。  見れば、そこにはホンさんがいた。彼は少し大きな手提げ紙袋を持っている。  ラウ兄ちゃんが、ホンさんを窓際のテーブル席に促し、彼らは向かい合うように腰を下ろした。ラウ兄ちゃんが、白い布で包んだものをテーブルに置き、そっと結びを解いていく。  それは漆黒の|骨灰盒《グゥフイホー》で、ホンさんがそっとその蓋に手を置く。二人にしか分からないチャンさんの思い出や、気持ちが流れているのが分かった。  ラウ兄ちゃんが丁寧に白い布に包み、ホンさんへ|骨灰盒《グゥフイホー》を差し出す。すると、ホンさんが持ってきた手提げ紙袋を置いた。  中を覗き込んだラウ兄ちゃんが、嬉しそうに相好を崩し、ホンさんが相変わらず無表情に小さく頷いた。  |骨灰盒《グゥフイホー》を持ったホンさんが席を立ち、俺もカウンターの椅子から腰を上げる。彼がこちらに顔を向け、俺は小さく頭を下げる。ホンさんも小さく頷き、ラウ兄ちゃんと二、三、言葉を交わすと、店を出て行った。  ラウ兄ちゃん、大丈夫だろうか……少し心配する俺に、彼はカウンターに戻ってきて、にこりとしてみせる。 「素敵な開店祝いを頂いたよ」  紙袋から取り出されたのは、淡いピンクの小さな、釣り鐘のような花をつけた鉢植えだった。 「綺麗だ……|香港満天星《ホンコンドウダン》だね」  ラウ兄ちゃんが、目を細めて、ピンクシャンデリアとも言われる、愛らしいピンクの花弁を指先でなぞる。  |冰室《カフェ》の名前にもつけられた、この|香港満天星《ホンコンドウダン》の花言葉は『先導』だと言う。  ラウ兄ちゃんがどんな願いを込めてこの花を店名にしたのか、分かった気がした。 〔10〕  数日後。  休日で混み合うランチの時間帯を何とかこなし、俺とラウ兄ちゃんはようやく一息つくことができた。 「結局、今日も手伝ってもらってしまった。悪かったね」 「ううん、遠慮しないでよ。接客は好きだし、色々と勉強になるよ」  今日は、ラウ兄ちゃんに呼ばれてきたのだが、店が忙しいだろうと早めに訪ねていたのだ。  ラウ兄ちゃんは、ドアに掛かっているプレートを『CLOSED』にして、こちらに戻って来る。 「今日は閉店?」 「うん。たまにはね」  そうラウ兄ちゃんが|凍檸檬茶《トンレンチャ》を淹れてくれて、ふとカウンターに置いてあった荷物に目をやる。 「そういえば……これ、なんだろう?」 「なんだろうね?」  それは忙しくしている時間に届いた小包だった。忙殺されて、すっかり忘れていた。  ラウ兄ちゃんが包みを開け「あっ」と小さく声を上げる。身を乗り出せば、繊細な模様の箱の中には、美しい焼き菓子が詰まっていた。しかも深紅の薔薇と一枚のカードまで添えられている……! 「なぜ、薔薇……! というか、これってまさか……!」 「造花みたいだけど、綺麗だね」  ラウ兄ちゃんがカードを開き、すぐに柔らかく微笑む。 「なに? なんて書いてあったの?」  思わず勢い込んで訊くと、ラウ兄ちゃんはこちらにカードを差し出す。そこには丁寧な文字で「親愛なるラウへ 仲直りの品として、フランス老舗店の菓子を贈るよ。ダニーと一緒に楽しんで。 きみの友人・マックスより」とあった。  俺は思わず身悶えながら「キザ! あいつ、やっぱりキザだ!」と叫ぶ。  ラウ兄ちゃんは、にこにことしながら「紅茶でも淹れようか」と準備をはじめる。 「きっと、マックスもダニーが海外のお菓子に興味を示していたから、贈ってくれたんだよ」  そう温かな紅茶をカップに注ぎながら言う。そういえば、マックスは何となく俺が大学生活に迷いを感じていることなどを察していたようだが……  穏やかだが、妙にこちらの胸の中を見透かすような青い瞳を思い出し、鼻を鳴らす。 「偶然じゃない?」 「どうかな?」  そうラウ兄ちゃんが微笑み、焼き菓子を乗せた皿をテーブルに置く。 「香港ではあまり見ないものばかりだ。ダニーの勉強にもなるんじゃない? あ、これ、レシピ本にも載っていたね」  そうラウ兄ちゃんが隣に腰を下ろし、ナッツとドライフルーツの乗った焼き菓子を摘まむ。俺はレシピ本で見覚えのある、マカロンという菓子を口に運んだ。 「……美味い」  感動して呟くと、ラウ兄ちゃんが嬉しそうに笑みを浮かべ、ふと何かを思い出したようにこちらに顔を向ける。 「そういえば、前に来た時に、何かを思い出した、って言ってなかった?」  俺はティーカップを傾けながら「……ああ、うん」と曖昧に頷く。これって、ラウ兄ちゃんに話してもいいのだろうか……? そう逡巡したが、ラウ兄ちゃんに目顔で促されて、思わず頬を掻く。 「えっと……俺、小さい頃に一度だけ、チャンさんに会っているんだ……」  目を瞠るラウ兄ちゃんに、俺は続ける。 「あれは、ラウ兄ちゃんが店で働き始めるちょっと前だったと思う……午後の開店準備をしている父さんをチャンさん訪ねてきてね。父さん、凄く嬉しそうだったよ。久しぶりの再会だったみたいでさ。二人がなにを話していたかは忘れちゃったけど……でも、チャンさんが店を出るときに、隅っこのテーブルの下で遊んでいた俺に気付いたんだ」  確か、ダニーだったな? そうチャンさんが、目を合わせるように屈み、俺は頷く。  整ってはいるが、どことなく隙がない少し鋭さのある瞳が印象的だった。だが、ふと俺を見つめるその顔が少し和らいだのだ。 「やっぱり雰囲気が変わったよ、チャン」  そう父さんが嬉しそうに笑い、彼も淡く微笑みながら「かもな」と、そっと俺の頭を撫でたのだ。 「……父さんが『今度は、その意中の人と一緒に食いに来いよ』って言ったら頷いていた」  俺は窺がうようにラウ兄ちゃんを見やる。彼が色々と思い出して哀しみはしないかと思ったが、彼は何とも嬉しそうに微笑んだ。 「チャンのお陰で、俺は皆に出会えたんだよ」  首を傾げる俺に、ラウ兄ちゃんはポケットから何かを取り出して、こちらに差し出す。  見ればそれは小切手で、そこに綴られた数字にぎょっとなる。 「なにこれ……?」 「バイト代。少しは学費の足しになればいいけど」  俺は慌てて首を横に振る。 「そ、そんな……これ、バイト代なんて額じゃないよ! 受け取れない……!」 「ずっとキット達にはお世話になっていたし、いつかは恩返しをしたいと思っていたんだ。家族だと思うなら、受け取って」  そうラウ兄ちゃんが小切手を置き、狼狽する俺に、少し悪戯っぽく微笑む。 「じゃあ、もう一仕事、頼もうかな?」 「どんな?」  ラウ兄ちゃんは、一瞬、壁に貼られた九龍城砦の写真に目をやり、こちらに顔を戻す。 「俺の昔話を訊いて。九龍城砦に居た頃の話だよ」  驚きながらも頷くと、ラウ兄ちゃんは「少し長くなると思うから覚悟して」と片目を瞑ってみせる。  それから、記憶を手繰り寄せるように彼は話し始めた。 「あれは、1980年の話だ。あの頃、俺は九龍城砦の|光明街《クゥオン・ミン通り》というところで――……」  穏やかに紡がれる彼の九龍城砦の話に、俺はどんどん引き込まれていった。 〔了〕

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その後のラウ君のストーリーということで、楽しみにしておりました。 ダニー君の目を通して大人になったラウ君が描かれていて、大きな傷を抱えながらも新たな人生を歩んでいる姿に安堵いたしました。 ダニー君、ラウ兄ちゃんのことが大好きなんだね~。ラウ兄ちゃんのことで一喜一憂するのが可愛いです。 そして前編のラストでチャン兄さんの名前が出てきてドキッとしましたが、後編の骨壷のくだりで「ああ……チャン兄さん、本当にいなくなってしまったんだな…」と現実を突きつけられた思いでウルっときてしまった。 そしてホンに骨壷を手渡すシーンで涙腺崩壊! 手放したくない気持ちも痛いほど解るし、でもラウ君には幸せになってほしい。心からそう願わずにはいられません。 回想シーンでチャン兄さんにまた会えたのも嬉しかったです。 本編でラウ君の髪をくしゃっとする兄さんに萌えてましたが、子供と接してるチャン兄さんにも萌える~!笑 いや~、ステキなラウ君の再生物語、堪能いたしました。ありがとうございました。

2019.08.27 11:13

NORA

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