サヨナラもなか

 傘を持ってきていなかった。 「鉛色」と言うんだろうか。ここのところずっとそんな空模様で、それが当たり前になっていた。だから朝から曇っていても気にならなかったし、天気予報なんてものは、見る習慣がない。そういうわけで、傘のことは完全に意識の外にあったんだ。  学校からの帰り道、モノトーンだった周囲がさらに陰ったのを不思議に思って見上げると、鉛色だったはずの空はどんどんどんどん分厚い雨雲に侵食されていた。ヤバい、と思った時には遅かった。ぽつ、ぽつ、ぽつ、と大粒のしずくが落ちてきて、そのリズムが一気に上がり、あっという間にザーザーぶりになった。顔が雨に濡れてうるさい。エナメル製のショルダーバッグを頭上に掲げて、オレは走った。でも、走ると結局は雨が斜めに打ち付けてきて、顔はびしょびしょになってしまった。  マンションに駆け込む。立ち止まって深く息をつくと、今まで土砂降りの雨のせいで気に留まらなかったいろんな感覚が戻ってきた。制服がいつもの倍くらい重く、ワイシャツやズボンが肌に貼りついて気持ち悪い。朝、ちゃんとセットしたはずの髪は、ぺしゃんこにつぶれて額や頬にくっついている。ああ、最悪だ。頭でそう言葉にすると、濡れそぼった体を引きずるようにして階段を上った。  自宅のドアを開けると、部屋は昼とは思えないくらい真っ暗だった。雨で、且つ人の気配がない、というだけで、自分の家は他人のもののように冷たくなる。それは当たり前のことかもしれないけれど、オレにはちょっとショックだった。  明かりをつけて、風呂場の脱衣所に行き、バスタオルで頭をわしわしと拭く。濡れた制服をハンガーにかけ、ワイシャツにパンツ一枚という姿で着替えはどこかと探し回る。しかも、パンツは母さんの謎の趣味によって買われてきてしまったナンセンスアニメのキャラクターがプリントされたブリーフパンツだ。うん、最悪に間抜けな格好だ。とにかく、そうしながらぐるぐるぐるぐる考えていた。制服は明日までに乾くのだろうか? 靴は? つーか、部屋着ってどこにあんだよ? 外出用の服は自分で管理していたけれど、家で着るようなどうでもいい服は、いつも母さんがどこからか出してきたものを着ていた。きっと、今母さんがいれば、ああだこうだと言いながら全部何とかしてくれただろう。  母さんは死んだ。  先週のことだ。いつもとおんなじ時間帯に、いつもとおんなじ風に買い物に出かけたらしい母さんは、行きつけのスーパーの前で、停車していたトラックの陰から飛び出して来たバイクにはねられたのだという。家を出て一時間後には、病院からの死亡告知の電話を留守番していた妹が取った。仲間とつるんで遊びに行っていたオレは、その日遅くに家に帰るまで、何も知らなかった。父さんと妹は、何とかオレに連絡を付けようとしていたらしいのだけど、みんなで楽しくやっている時に家族からの連絡なんて、気にしないんだ、オレは。  あんまり突然だったから、葬儀場の手配も、遺影の作成も、親せきや友人への連絡も、なかなか進まなかった。一週間でやっと通夜から葬式まで終わり、落ち着いてきたところだ。でも、学校へ行けばみんなはれ物に触るようにオレに接してきたし、父さんはいまだにあいさつ回りをしているし、妹は二歳になったばかりの弟の世話に手を焼いて「少しは手伝え」と文句ばかり言ってくるし、ついでに天気は悪いし――。あの日を境に始まったいろんなことが、ずるずるずるずる続いていた。  着替えを探しながら頭の中で鬱々と考えを巡らしていると、ふとあることに気がついた。腹が減っている。とんでもなく情けない格好だけど、どうせ見ている奴はいないんだ。オレは急きょ探し物を部屋着から食べ物に切り替えた。  冷蔵庫、わけの分からない様々な戸棚、さらにわけの分からない台所下の物入れ――。探しても探しても見つからない。オレはこの家に十六年も住んでいるのに、何がどこにあるか全然知らない。それで何の不便もなかったのは、やっぱり母さんが家のことを全部やってくれていたからなんだ。自分の当たり前を母さんが作ってくれていたのだと今さらながらに思い知って、なんだか腹が立ってきてしまった。何に対して腹を立てているのか、オレ自身よく分からなかったけど。  ないと分かっていても、同じところを何回も見てしまう。そうやって何巡目かに食器の並んだ棚をごそごそ漁っていると、隅の方に明らかに食器とは違う感触を見つけた。つるりとしたビニールに包まれたやわらかいもの。大きさは、ちょうど手のひらに収まるくらい。やった、と思ってつかみ取ると、そこにはもなかがあった。  サクッとした触感の薄くて軽い皮の中に、甘みの強い餡をつめた和菓子。オレは昔からこれが嫌いだった。噛んだ時、歯の裏側に周りの皮がくっつくし、ぎっしり詰まった餡はやわらかいけれど妙にしっかりした歯触りで気持ち悪いし、何より口の中いっぱいに広がる甘ったるい味に耐えられない。  でも母さんは好きだった。小学生の頃、たまに夜遅くに目が覚めると、まだリビングに明かりがついていることがよくあった。そっと様子をうかがいに行くと、たいてい母さんが熱い煎茶をお供にもなかを食べていて、こそこそ隠れてずるいと思った。オレが出て行ってそう言うと、母さんはもなかの端っこを手で割って分けてくれたんだけど、文句をつけつつ、もなかなんて嫌いなオレは、どうしてあんなことを言ってしまったんだろうと、いつも後悔していた。それでも、しんと静まった夜にお菓子を食べられる特別感が嬉しかったりもした。  思い出すとなんだかおかしくなって、笑いがこみ上げてしまった。もしかしたら母さんは、オレが中学や高校に上がってからも、こっそりともなかを食べていたのかもしれない。  食べてみよう。  母さんがやっていたように煎茶を入れようかとも思ったけれど、着替えも見つけられないオレに急須や茶葉のありかが分かるわけもない。仕方なく、もなかだけ持ってリビングのいすに座る。  もなかに前歯を立てた瞬間、もう歯の裏側には皮がへばりついた感触があった。ああ、やっぱり。そう思いつつ、噛み切る。中の餡は記憶通りにずっしりと密度が高くきめ細かい舌触りで、味がぎゅっと濃縮された感じ。 「甘い」  気づいたら言っていた。すると、その言葉がすっと脳に溶けてきて、意識にのぼってくる。うん、甘い。 「まずい」  また、声にしてみる。やっぱり頭はその言葉をひろって、はっきりと自覚する。まずい。好きじゃない。  だけど不思議と手も口も止まらなかった。オレはもなかを食べ続けた。甘い、まずい、甘い、まずい……。そのうち、口の中は飽和状態って言えるくらい甘さが溶けて広がって――というか飽和を通り越して甘さは体の中の中まで浸み入ってきて、ずっとしまい込んでいた心のひどくやわらかいところを刺激した。目の奥がつんと熱くなる。 「まずい」  また口にする。溜まった涙が縁からこぼれた。一度こぼれると、もう止まらなかった。涙はとめどなく目から溢れて頬を伝っていく。別に悲しいわけでも、嬉しいわけでもなくて、そういうんじゃ全然なくて、ただもなかが甘くて、甘すぎて、気持ちが変になってしまったんだ。ワイシャツに、ナンセンスアニメ柄のブリーフパンツ姿でもなか食って、まずいまずいと言いながら泣いて泣いて泣いて――。うん、もはやオレがナンセンスアニメだ。そう思っておかしくなって吹き出して、その拍子に顔を上げると、窓の外では雲間から陽が差していた。

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この作品の評価

3pt

滑稽なのに悲しい。本当に。 人がひとりいなくなる、という状況を表現するのに「滑稽さ」(家の中がうまく回らないことに対するちょっとした苛立ちを含んだその滑稽さ)が滲んでくると、その空洞の「虚しさ」がより哀愁を怯えて響くように思います。 最中の感想、まったく同じことを思っていたので、仲間を発見した気分です。 そして、最中を食べ切った主人公に対しては、「大丈夫だよ」と、声をかけてあげたい気持ちになりました。

2019.12.09 11:26

皐月原 圭

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