血の一滴も流してほしくない

 バーバにはある種の予感があった。  なにやらきな臭く、嫌な未来が見えるのだ。それも、そう遠くない未来に。  そう感じたのは、先日、小旅行から帰ってきたウィリアムを見てからだった気もするし、それよりも前に、風の噂で彼が何者かを収賄したという話を耳にしたときだった気もする。  いずれにせよ、バーバはウィリアムのことが初めて会ったときから気に食わなかったのである。  なぜならバーバは、魔法を行使することも、魔力を生成することもできないという、人間として重大な欠陥を持っている彼を見下していたからである。そして彼は、それを意に介したこともないような振る舞いを見せるウィリアムに、ある種の不満を抱いていた。  なぜそうまで明るく振る舞えるのか? 彼は、もっと消極的で依存的で、社会に献身的で無欲に生きるべき人間なのではないか、と。  ウィリアムは活発で利発的な少年であった。周囲の人間と違い、金髪で、魔法が使えなくとも、たとえそのせいで学校に通うことができず、少年兵としてフォーレルシュタットの自警団の下っ端として働くことになったとしても、そこで頭角を現し、魔物と戦える実力を手に入れている。  彼を忌み嫌う人間はあまりにも多い。だが、その事実を知っていながら、彼は普段、努めて明るく振る舞った。誠実に、そして勤勉に物事に取り組んでいたし、度々口にする皮肉めいた冗句は技巧が凝らしてあり、友人や大人を破顔させた。彼を気に入る大人がいたのも事実だ。ウィリアムが学生時代に師事していた、当時教鞭を振るっていたマティアスなどはその典型だ。  バーバには理解ができなかった。彼のような人間が他にいないから分かりようがないのだが、忌み子が産婆の手により間引かれるように、ウィリアムという人間は本来、疎んじられ見下され、下を向いて目立たぬようにして、幸せな人生など送りようがないと人々に認知される存在なのではないだろうか、と思っていた。  バーバがウィリアムと接するのは仕事の間だけだった。特殊な魔物の討伐を任とする危険な業務に左遷されたのは、自分と同様に権力を持つ人間からの怒りを買ったからか。なんにせよ、いつかどこかで魔物に殺されるだろう、と考えていた。  さて、彼とウィリアムが業務を同じくしてどれだけ経っただろうか。ウィリアムは小生意気にも、小旅行のための休暇を願い出た。そのことに関して嫌味を言うと、にやっと笑って皮肉を返してきた。バーバが知っているウィリアムの姿はこれが最後だった。  そして昨日、久々というほどでもない期間を空けて再会したウィリアムは、すっかり別人に変貌していたのである。 「死ねやっ!」  バーバが吼え、剣をふるった。  ウィリアムが持つ火の魔法の加護を受けた剣が、レイスが纏う霧を吹き飛ばす。そして、露出した水の魔法結晶を、バーバが曲剣で叩き割る、というのが二人の戦略であった。  本来、水属性を持つ魔物には地属性が有効である。しかし、水路を凍らせるほどの冷気を身に宿しているとあっては、刃が急所に届かないどころか、魔力に物をいわせた猛烈な反撃を喰らうことが予想できた。そのため、まずは弱点を露出させるための攻撃が必要だったのである。  現れたレイスは四体。バーバは三体目を仕留めようとしているところだった。  四体目の霧を飛ばすために、右手で持っている剣を振りかぶったウィリアムを、バーバはちらりと見た。 「…………!」  すると、相対しているレイスは大きく口を開け、身を震わせていた。口の先にはウィリアムの右手がある。 「避けろ!」  叫びながら、バーバはレイスの中枢結晶を叩き割る。  叫んだときには遅かった。レイスのすぼまった口から噴き出した液体は、ウィリアムの右手と剣の柄にくっつき、そのまま冷えて固体となり、振り下ろそうとしているそのままの状態で固定された。  両手を大きく広げたレイスは、両の手をざわざわと動かす。氷でできた鋭利な爪が指の数だけ伸び始め、得物を殺める凶器となるのを待っていた。  この間、わずか四秒にも満たない。  離れているバーバは凍っている地面に足を取られた。このとき彼は、自分が慌てたという事実に後に気がつき、愕然とした。 「…………」  ウィリアムの決断は素早かった。  左手をレイスの胸元に突っ込み、魔法結晶を掴み取ったのである。  彼はレイスの実体が見えていない。空中で留まっている氷、右手を固めている冷たいなにか、今まさに自分を仕留めようとしている鋭利な氷の爪、そして、レイスの中枢となる水の魔法結晶が宙に浮かんでいるのが見えている。  バーバが直接中枢を叩くのにネックとなるのが魔力を纏った霧、つまりレイスの実体そのものであるが、ウィリアムにはそれが見えていない。これまでの三体に対しては、かさぶたのように本体に張り付いているのであろう氷の破片、レイスが攻撃するために伸ばした爪や、レイスが動く度に形を変える地面の氷、そして中枢の魔法結晶から位置を算段して立ち回っていた。踏み込む際には、先日読み込んだ本に描かれていたレイスの絵を頭に思い浮かべ、その似姿に斬りかかっていたのである。  遂にその事実を見破った最後のレイスは、非常に小さい動作でもって、彼に動きを悟らせることなく攻撃を封じた。今まさに斬りかからんとしていたウィリアムは、すでに靴を凍り付かせられ、進退の余地もなかった。  自由だった左手で、腰や胸元、腿などに隠し持っているナイフに手を伸ばすこともできたが、それを悟られれば動きを封じられて終わりだろう。ウィリアムはそう判断を下し、目の前に見えている結晶を掴んだ。  グローブ越しにも強烈な冷気が肌を焼き、引っ込めようとした腕の関節が軋み、猛烈な痛みに顔をしかめた。それでも無理やり腕を引き抜くと、止めようとした氷の爪が阻み、ウィリアムの身体のあちこちを切り裂いた。しかし、勢いづいた球体の動きは止まることなく、結晶はバーバの目の前に転がった。  維持できなくなった氷の身体が最後にウィリアムを道連れにしようと殺気を纏ったのと、もう一度霧の身体を形成しようとしている結晶をバーバが叩き割ったのは同時だった。  源を失った冷気はすぐに熱気にあてられてゆき、氷は水に戻っていく。  それでも、ウィリアムの固まった右手はまだ冷たいままだったし、鮮血が滲んでいる左腕は冷気の余波で霜が見えている。口からは白い息が吐き出されていた。 「おい……」  バーバが声をかけると、ウィリアムは首を横に振った。 「……まだ行ける」 「なんだと?」 「目標が近い。レイスが倒された今しかリッチを仕留められる機会はない」 「なにを言ってる?」 「退けば、その間に魔力を蓄えて、レイスに無差別攻撃させるかもしれない。今しかない」 「手負いで行くってことは、覚悟してんのか?」 「最初からしてる。あんたはしてないのか」 「……黙れ。なら、とっとと死ね。行くぞ」  話しながら、バーバは地の魔法で止血を試みていた。深い傷の上に当て布を厚めにして、上から清潔な土を精製し、患部を覆うようにして硬く貼り合わせた。  ウィリアムは左腕の脇の下から麻紐を通し結んで、口で引っ張ってきつく締め上げた。  額に脂汗を滲ませるほど力を強めていたが、血が止まる様子はない。  そのまま、ウィリアムは先頭だって歩き始めた。  バーバは呆れ顔で首を横に振ったが、すぐに彼に追いつくために足を動かした。

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