第3章・奴隷

 翌日からは、義姉《あね》のタマラから島の慣習と作法とを習わなくてはならなかった。  気が強いばかりではなく、支配欲も相当なものだという事は、昨日《さくじつ》の一件でよく分った。対処は出来るだろうとジョスは思った。  朝餉は、スヴェルトの祝宴での食べっぷりから察して多めに麵麭《ぱん》を作り、食料庫にあった羊肉と根菜の羮《あつもの》を用意した。 「お前が作ったのか」  目を丸くしてスヴェルトは言った。昨日の分は館の者が用意してくれたが、今朝は誰もいなかった。その事にも気付いたようだった。 「はい。お口にあうとよろしいのですが」  厨房頭には苦労をかけたが、輿入れ直前にようやく、まあやっていけるだろうと言われるくらいにまでなった。 「兄上の料理人よりも、美味いな」  一口食べて、スヴェルトは言った。お世辞でも嬉しかった。 「夕餉は、ここで食うが、兄貴の誘いがあれば別だ。その時には、お前に使いが来るだろう」  だがな、とスヴェルトは顔をしかめた。「早く兄上の館から下女の一人でも貸して貰え。家事を自分でするつもりなのか。それは奴隷の仕事だろう。お前が嫁して来るのは分っていたのだから、そのくらいの準備はしてあるはずだ。本来ならば、先にここに置いてしかるべきだろうに」 「族長の館でも人手はいりましょう」奴隷を使う、という事に嫌悪を見せないようにしながらジョスは言った。「それに、家にいれるのでしたら、わたしは自分で選びたいと思いますが、それではいけませんか」  スヴェルトは顎髭を撫で、暫く考える風だった。 「選ぶと言ってもな、この時期には奴隷は手に入らんぞ。もう少し待てば、交易島から仕入れて来るだろうが」  人を物のように言う事に違和感を感じながらも、ジョスは、それはこの人の世界では仕方のない事なのだと思った。 「わたしの島では、族長一家以外の女は家事をいたしますし、例え、族長の娘であっても家を出れば普通の者と変わりはありません。別に家事を女主人がなすのは恥ではありませんし――しばらくは、このままでもわたしはかまいません」 「義姉上は、身分だ何だと煩いが、大丈夫なのか。それに、家事などをすると手が荒れるだろう」  自分の事を心配してくれる事を嬉しく思い、ジョスは微笑んだ。 「あなたに、昨日、お約束したではありませんか。二度と、あのようなことはいたしません」 「――なら、俺からは何もない。まあ、義姉上には気を付ける事だな。お前は、既に目を付けられているだろうからな。余り反抗せん方が、身の為だろう。俺には遠慮は無用だ。だが、これ程美味い食事が作れる嫁を貰ったというのは、ある意味、自慢だな」  明るい笑顔のスヴェルトは、やはり素敵だとジョスは思った。どれほど男前だろうと、この笑顔には敵わない。  だが。大変なのはそれからだった。  族長の館では、まず、服装を注意された。島の服装を改めるように言われた。 「全て、仕立て直させなさい。みっともないですよ」  みっともない。  その言葉にジョスは顔が赤くなるのを感じた。島では普通の格好だ。だが、奴隷を使うこの島の人にとり、労働に向いたこの服はそう見えるのだろうか。質から言えば、タマラの衣服よりもずっと、上等だ。羊毛の質が違うのは、布地を見れば明らかだった。スヴェルトも今朝、ジョスが持参した普段用の胴着を見て、これは戦闘訓練には着る事が出来ないと言った。上等すぎる、と。だが、島ではこれを着て皆は漁に出るのだと言ってようやく、納得してくれたのだった。裾を引きずるようなタマラの衣装は、まるで箒のようだと言い返したかった。  そこは、だが、我慢をしなくてはならない。 「それでは着る物に困りますので、お義姉さまから家政としきたりをご教授いただくあいだは、なるべく身軽でいたいと思いますので、ご容赦ください」  タマラは見下すような目で、ジョスを見た。 「あなたの恥はその夫の恥。ひいてはその兄たる族長の恥となることを、心に留めておくことね」  義姉は、母と同じく飾り帯に鍵束を下げていた。自分は、あの離れの鍵すらも受け取ってはいない。嫁としては受け入れられても、一家の女主人としては認めてもらっていないのだ。この女性の試練を無事に済ませたら、鍵を渡して貰えるのだろうかと思った。それに、鍵をタマラが持っていると言う事は、いつ何時《なんどき》、離れに入り込まれるか分った物ではない、という事だ。 「残念ですが、この冬にはずいぶんと損害が出たので、今のところ、あなたに貸すだけのだけの奴隷の余裕がありません。あなたが、ここで奴隷の使い方を覚えなさい。洗い物も全て、ここへお持ちなさい」  素直に従うしかないと分っていた。心の中では抵抗が強かったが、この義姉を怒らせたところで、得られる物は何もないだろう。むしろ、争いを避ける方が賢明だった。  離れに戻ると、自分でしようと思っていた洗い物を集めておいた籠を出た。  タマラはそれを見ると頷いて見せた。 「そこに置きなさい」  言われたままにすると、タマラは籠の中を検め始めた。 「何をなさるのです」  愕いてジョスは言った。 「洗うべき物がきちんと揃っているかと、みて差し上げているのでしょう」当然だと言いたげな返答が帰って来た。「毎日洗う必要のないものまで入っているわね。あなたの所に下女をやる余裕がないから、自分で持ってこられるようにしなくてはね」そして、敷布も広げた。「あら、何もなかったのなら、これもいらないわ」  顔に血が上った。堪忍袋の緒が切れた。 「余計なお世話です。毎日、寝装品を洗濯するのは、清潔を保ち、病に罹らぬようにするには必要だとわたしは教わりました」 「毎日、湯浴みをするのですから、その必要はないでしょう」 「お返しください」  ジョスは義姉から洗い物を引ったくった。そして、荒々しく籠に詰め直すと、それを手に立ち上がった。 「わたしが自分でいたします。お義姉さまの家使いの者の手を煩わせる必要は、ございませんわ」 「なんですって」  タマラも立ち上がった。だが、ジョスよりも背が低く、横幅はあったが迫力には欠けた。 「恥を知りなさい。わたしに逆らうなど。あなたは自分が何者だと思っているのですか。昨日といい…族長の娘だからと言って、人を馬鹿にするのもたいがいになさい」 「族長の娘だからこそ、自分のことは自分でできるようにと育てられました。洗濯だろうが掃除だろうが、家事一般は仕込まれました」  タマラの右手が持ち上がり、ひゅんと風を切る音がした。  ジョスは咄嗟に手でそれを受けた。  柳の枝だった。これを、鞭として使っているのだろう。ひりひりと掌が痛んだが、義姉からは目を離さなかった。 「力ずくでは、わたしは言いなりにはなりませんわ。納得のいく理由をお探しください」  やってしまった、と思いながらも、女戦士の頃と同じように背筋を伸ばしてジョスは族長の館を辞した。下女達が、呆気に取られたように自分を見ているのが分った。今まで、この女性に反抗する者を見た事がないのだろう。  離れに戻ると、大きな溜息を吐いた。だが、後悔するのは後でも良い。取り敢えずは仕事をしなくてはならない。  まずは、納屋から棒と縄を探してきて干し場を作った。それから庭の井戸端で洗濯をした。脂と灰汁は台所の物を使った。これで石鹸を作ろう。そのくらいは、大した事ではない。  ひと通りを干し終えると、ジョスは庭を見渡した。  それ程広くはない。  だが、使えるだろう。ローアンから貰った香草や薬草の種を撒くには充分だろう。  それには、農具と男手が必要だった。気乗りはしなかったが、スヴェルトの言ったように奴隷を使うしかないのだろう。戦士階級のスヴェルトは、決して農作業などしないであろうから。それに、自分達専用の湯殿も必要だろう。族長家の物を使わせて貰うのは、胸が悪かった。  折角の家畜小屋も無駄にはしたくなかった。羊の二、三頭しか入らないような小さな小屋だったが、雌山羊がいれば、様々な乳製品を作る事も出来る。  農民が一人。  家使いで、手助けをしてくれる者が一人。  それだけで、この離れでは充分だろうと思った。スヴェルトも納得するだろう。  人を買う、という事に、ジョスはどうしても納得がいかなかった。母が、この島から父に連れられて島を出た時には、龍涎香が一年分、支払われたと叔母の話にはあった。結局、奴隷であった母をこの島から連れ出すには、族長の父だとて、その値を支払わざるを得なかったのだ。自分も、家使いの者を欲しいと思えば、スヴェルトの言うように奴隷を使うしかない。  スヴェルトは、交易島で奴隷を買う、と言っていた。それまでは、この離れを自分の力で維持して行かなければならない。最早、どのように思われようと、義姉の命令を聞くつもりはなかった。  夕餉に帰って来たスヴェルトは土埃にまみれていた。 「だから、こんな上等な胴着は必要ないと言ったんだ」 「お気になさらないでください」残念そうな顔付きのスヴェルトに、ジョスは微笑んだ。「父や兄など、魚臭くして戻って来る事やずぶ濡れなど、しょっちゅうですから」  用意しておいたたっぷりの食事を全て平らげると、スヴェルトはジョスをちらりと見た。 「戦士の館で、飲んでくる」  それがスヴェルトの習慣なのだろうと、ジョスは特に何も言わずに送り出した。習慣ならば、仕方のない事だ。戦士の館という所がどのような場所であるのか、ジョスにはまだ良く分らなかったが、朝、出かけて行くのはそこだ。戦士の訓練場でもあるのだろう。長く独り身でいた人に、習慣を正させるのは容易ではないだろうし、この狭い食卓で一人で呑むのは味気ないだろうと思った。  片付けを済ませて翌日の麵麭の仕込みを終えた。それから乾いたスヴェルトの衣服を丁寧に検めた。島の物に較べて、やはり生地は粗かったが、破れやほつれのない事を確認すると、それで一日の仕事は終わりだった。  昼の内に壁には綴織を飾り、床にも敷き物を敷いた。だが、スヴェルトはその事には一言も触れなかった。戦士である男に、そこまで求めるのは無理かもしれないと思った。  タマラに反抗し、啖呵を切ってしまった事は、スヴェルトの耳にはまだ、伝わっていないようだった。だが、いつかは知れる。あんなに約束したのに、結局は迷惑を掛けてしまう。暫くの間だけでも大人しい従順な妻でいる事が出来なかった。性格というのは、どうしようもないのかもしれないが、嫂《あによめ》――しかも、族長の妻に逆らったとなると、スヴェルトは機嫌を損ねるだろう。イルガスが保証してくれたように、どのような身分の者であれ、女を殴る人ではない、というのが救いだった。でなければ、ジョスの方とて訓練の賜物で咄嗟に攻撃態勢を取らぬとも限らない。女戦士として、手許に武器のない時の攻撃方法もしっかり教わっていた。  ただ、時間だけが過ぎて行った。  遅い、とは思ったが、男の酒席は果てがない事も分っていた。父や兄などは深酒をする姿を見た事がなかったが、島の男達でも、祭りの時など一晩中、飲み明かす事もある。女戦士も、またしかりだ。  スヴェルトはまだ、結婚したばかりだ。さぞかし、皆から冷やかされ、揶揄われている事だろう。多少、遅くとも仕方がないだろう。しかし、湯浴みの事を考えると、幾ら何でも、遅すぎた。族長家の湯殿を余り遅くに使わせて貰うのは、気が引けた。自分は厨房の隅ででも良い、だが、スヴェルトはそうは行くまい。  そのような事を考えている内に、ジョスはうとうとしてしまった。  その為、離れの扉が乱暴に開けられた時には、飛び上がらんばかりに愕いた。  何事かと戸口に向かうと。スヴェルトが二人の若い戦士に抱えられていた。 「申し訳御座いません、奥方様」一人が言った。「船団長、酔い潰れてしまいまして…」  義姉でも族長の使いでもなかった事に、ジョスは胸を撫で下ろした。 「ご苦労さまでした。旦那さまを、こちらに」  スヴェルトを抱えようとしたが、戦士に止められた。 「奥方様のお力では無理です。団長はこうなると、倍以上に重くなってしまいますから」  取り敢えず、スヴェルトを寝室に運び込んで貰った。戦士達は恐縮しながら戻って行ったが、ジョスの仕事はここからだった。  長靴と靴下を脱がせ、着替えさせなくてはならない。少なくとも、埃まみれで食事の脂や酒が染み込んだ胴着とその下は脱がせなくてはならなかった。だが、正体をなくした男が、これ程までに重いとは思わなかった。身体が大きいのはともかくとして、腕や脚までがずっしりとしていた。  ようやく肌着と袴《こ》だけにすると、汚れた衣服を洗い物用の籠に入れた。  大変な作業だったが、何とはなしに可笑しかった。  子供のような、何の憂いもない寝顔だった。  こちらの苦労は何も知らないで、明日の朝には今朝と同じようにまた、朝餉を平らげて出て行くのだろう。そして、かつてのジョスがそうであったように鍛錬をし、仲間達と語り、笑うのだろう。  どきどきしながら、ぐしゃぐしゃになってスヴェルトの顔にかかっていた濃い茶色の髪を掻き上げてみた。やはり素敵だ、と思った。髪と同じ茶色の目が閉じられているのが残念だった。  不思議な感じがした。  あれ程嫌だった結婚の相手が、この人だとは、未だに信じられなかった。  ジョスは、自分も着替えを済ませると灯りを消し、スヴェルトの横に身を滑り込ませた。  ごろりとスヴェルトが寝返りを打った。そして、うっすらと目を開けた。 「いい夢だな」はっきりしない声でスヴェルトは言った。寝惚けている。「隣に女がいる」  少し、むっとした。 「あなたの妻の、ジョスです」 「俺の妻、か」自嘲するような響きがあった。「それはいい。夢にしちゃあ、上出来だな。俺にこんな綺麗な女が嫁に来るとはな」  綺麗、と言われてどう反応すれば良いのか分らなかった。相手は完全に目醒めてはいないというのに。 「現実《ほんとう》のことです」 「なら、遠慮なく、頂くとしよう」  重ねられたスヴェルトの唇と息は蜜酒臭かったが、ジョスは気にならなかった――  日々は何事もなく過ぎて行った。  それなりに、互いの生活の流れも一定して来た。  義姉のタマラがスヴェルトに何かを言ったのかもしれなかったが、ジョスは何も知らされる事はなかった。平穏な日常だった。夕餉の後に戦士の館で酔って、または酔い潰れて帰って来るスヴェルトを待つのも、慣れた。動きの激しいスヴェルトの衣服を繕い、あるいは新たな刺繍を施すのもそれなりに楽しいものだった。まさか、自分がそのような事を楽しいと思うなど、想像もしなかった。やはり、相手はスヴェルトだからなのだろうか。  タマラからの干渉は、なかった。諦めたのか、それとも別の理由があるのかはジョスには分らなかったが、不気味な程にぴたりと全てが途絶えた。取り敢えず、自分のやり方で静かに暮らせるのならば、それに越した事はなかった。族長の館へも、あれ以来、足も踏み入れてはいない。  酔って遅く帰るスヴェルトは夜に湯を使う事がなく、朝早くに井戸の水で身体を洗うのが習慣のようだった。ジョスは妻とは言え、湯浴みの世話をする事はなかった。それ故に、族長家の湯殿を使う事はなかったが、さすがに冬はそういう訳にもいくまい。それまでには湯殿が欲しい所だった。  人々が、興味深げに自分の姿を見たり、あるいは薄笑いを浮かべるのにも、慣れた。また、洗濯などは最下位の奴隷女の仕事らしかったが、気にはならなかった。スヴェルトにも話したように、家使いの使用人がいるのは族長家に限られていた為、共同の洗濯場で女達が楽しげに仕事をしている印象しかジョスにはなかったからだ。  ここにいる奴隷達には生気が感じられなかった。だが、絶対に他人の奴隷使いに対して、意見をしてはいけないと、ローアンからもきつく言い聞かされて来た。どのように鞭打たれている姿を目にしても、五感を閉ざしてその場を立ち去るしかなかった。  不満があるとすれば、その点だった。  後は,強いて言うならば、最初に酔い潰れて帰った夜以来、スヴェルトがジョスに指一本、触れない事だった。あの時さえも、スヴェルトは事に及ぶ前に寝入ってしまった。新床での事を思い出すと恐ろしくはあったが、それでも、共寝を重ねる事によって情も生まれるものだと、聞いていた。  常に寄り添い合っていた両親の姿から、それが<運命>のあるべき姿なのだと思って育ったジョスは、やはり、外の世界は違うのだろうと思い知らされるのだった。会話は少なくとも、互いに巧くやって行けているとは、思う。ただ、寂しい、と思う気持ちがあった。  そんな時だった。  迎え太鼓の響いた日、珍しくスヴェルトが使いを寄越した。  奴隷を交易島から「仕入れて来た」船が着いた、と言う報せだった。広場で皆に競り落とされる前に、離れの前の道を通るので、好きな者を選んで良い、というものだった。代金はスヴェルトが後で払うので、誰よりも先に売って貰えとの伝言だった。  暫くすると、その言葉の通りに、商人達に縄で繋がれた男女が引かれて来た。首には奴隷の印である鎖が巻かれている。  先頭の男に、ジョスは声を掛けた。 「その人達を見せてもらってもいいかしら」  男達は、縄で首と手首を縛られらた者達をジョスの前に並べた。誰もが表情なく、薄汚れていた。  その全てを救う事は出来なかったが、二人なら、何とかなると思った。  ひと渡り見て、ジョスは一人の男に目を向けた。無表情で、しかも、疲労の色が他の者達よりも濃いようだった。自分と同じくらいの年齢だろうか。大陸の者のようだった。 「あの黒髪の者を見せて」  商人は、その男の縄をぐいと引くと、ジョスの前に引き出した。 「手を見せて」  ジョスは男に言った。  無言で,男はジョスに手を差し出した。年齢の割には荒れて無骨な手をしていた。 「あなた、農夫だったの」  ジョスの言葉に、男は無言で頷いた。  船旅で随分と消耗しているようだった。タマラなら、いや、スヴェルトならば、選ぶ事はないかもしれないと思われた。 「一人は、この人にするわ」  ジョスの言葉に、商人は愕いたようだった。 「いや、奥方様、この者は…」 「船酔いが酷くて何も食べていないのでしょう」 「はあ、まあ」  渋々と商人は頷いた。船酔いは、慣れない者はそれこそ決して慣れる事がない。今は酷い姿でも、直ぐに回復するだろう。 「農夫が欲しいの。それに、手を見れば働き者だと分るわ」  それともう一人、女を探さなくてはならなかった。 「そこのあなた、こちらに」  ジョスが目を付けたのは、やはりみすぼらしい娘だった。年の頃はマグダルと同じくらいだろう。痩せてしまっている姿は、買い物にしては不自然だった。 「この娘はいけません」  顔色を変えて商人が言った。先程の男は、まだ、言葉を尽くせば売れるだろう。だが、この娘は―― 「この娘は、《《おまけ》》で付いて来た奴で、それにしても、酷いのを摑ませやがったもんです。余程、向こうでも厄介払いしたかったんでしょうな」  足元も定かではない様子のその娘に、ジョスの心は決まった。ローアンや母とても、このような目に合っていたのかもしれないと思うと、見過ごす訳にはいかなかった。 「でも、気立てはよさそうだわ。それほどの重労働をさせるわけではないし、体力さえ戻れば大丈夫そうだわ。病気でもなさそうだし」  難色を見せる男に、ジョスは更に言った。 「お代は好きなだけ旦那さまにふっかけてくれてかまわないわ。わたしが、欲しがったのだし」 「とんでもありません」男は蒼白になった。「こんな不良品を打ったとなれば、スヴェルト殿はお怒りになります。いえ、お代は結構です。差し上げますので、どうか、私《わたくし》共がお止めした事だけは,お伝え下さい」 「なら、そうさせていただくわ」  にっこりとジョスは笑った。さっと男の顔に朱が差した。  あら、とジョスは思った。母にそっくりの顔を武器にしろとは、この事だったのか、と心の中で納得した。  商人達は、「くわばら、くわばら」と言いながら、奴隷の縄を解いた。  直ぐ脇の木戸から、ジョスは二人を招じ入れた。 「ありがとう。また、何かあれば、お願いするわ」  戸を閉めると、ジョスは怯えた様子の二人に微笑みかけた。 「お腹がすいているでしょう。でも、食事の前に、身体を綺麗にしましょうか」  ジョスは厨房の洗い場の片隅に自分で工夫した、布張りの衝立で囲まれた湯浴みの為の一角に二人を連れて行った。 「まずは、あなたね」黒髪の男に言った。「着替えを持ってくるから、とりあえず、身体を洗っていて。水は、甕に入っているのを使って。石鹸も櫛もそこのを使ってかまわないし、洗い布もあるでしょう」  ジョスはそう言うと寝室へ行き、スヴェルトの、古いが清潔な衣類を一式と自分の普段着、拭き布を持ち出した。  戻ると、衝立に服と布を掛けた。 「旦那さまのお下がりだから、あなたには大きすぎるのだけど、我慢してちょうだい」  そう言うと、ジョスは鍋を火にかけた。夕べの残り物だったが、今晩に繰り回そうと思っていた分だった。  ぼんやりと立っているだけの娘を、簡易椅子に座らせた。 「いい、よく聞いて。ここでは、誰もあなたたちを殴ったり鞭を使ったりはしないわ。しようとしても、わたしが許しません。だから、安心してもいいのよ。食事も、元気になったら、好きなだけ食べてもかまわないの」  そして、身体を洗っている男に声をかけた。 「あなた、名前は」 「…ドルスです」 「ドルス、あなたには畑仕事をお願いするわ。薬草と香草の種があるのだけれど、任せてもいいかしら」 「――でも、薬草の作り方は知りません」 「わたしが教えるわ。もともと、わたしが育てるつもりだったのだから」  衝立の陰から、ドルスが姿を現した。当然ながら、スヴェルトの服は大きすぎた。いや、大抵の者にはそうなのだが、服の中で身体が泳ぐ様と、歩くにも難儀な様子に、ジョスは思わず笑ってしまった。 「やっぱり、大きすぎたわね。後で仕立て直すから。それでしばらくは我慢していて」  ジョスは今度は娘を衝立の方に呼んだ。 「ドルスは、そこに座っていて」  そう言うと、ジョスは娘の衣服を脱がせた。「大丈夫よ、まずは身体を拭きましょう」  娘は可哀想なくらいに痩せていた。島では同じような年頃の娘達は明るく笑い、いつも楽しげだったというのに。発育不良とローアン叔母から揶揄われるかつての母も、このような感じだったのだろうかと思うと、ジョスの胸は痛んだ。 「あなたの名は」  娘は首を振った。 「名前で呼ばれたことはありません」  それも、ここでの母と同じだ。尤も、母の場合は本当の名を憶えていただけ、ましなのだろう。 「なら、わたしが付けるから、気に入ったなら、それを使えばいいわ」  ジョスは暫く考えた。「ミルド、でもいいかしら。わたしが随分と世話をかけた女性の名前だけど」  こくりと娘は頷いた。どのような名でも、この娘にとっては同じなのだろう。  なるべく優しく、ジョスは娘――ミルドの身体を拭いた。髪も、綺麗にした。何色なのか定かではなかったその色は、砂色をしていた。 「何も、怖がらなくてもいいのよ、この家では。さきほども言ったように、わたしは、あなたたちに鞭を使ったりしないし、食事も充分にとって大丈夫よ」 「本当ですか」  初めて、ミルドが興味を示した。 「ええ、本当に」 「でも、夢だわ」  小さな声だった。 「夢ではないわ。必ず、自由になれるから、それまで待つのよ」  ミルドはじっと、髪と同じ色の目でジョスを見た。 「どうして、それが本当だと言えるのです。夢ではないと言えるのです。わたしは、生まれた時から奴隷ですのに」  見かけよりもこの娘はしっかりしているし、頭も悪くないと、ジョスは思った。 「わたしが族長の娘だからよ。他の島の、ですけどね。二言はないわ」 わたしの言葉を信じるかしら、とジョスはドルスに問いかけた。 「信じます」  自由になれる、という言葉に希望を見出したのか、ドルスは勢い込んで言った。 「わたしも、信じます」  ミルドはジョスの両手を取って、その甲に唇付けた。「奥さま、精一杯、お仕えいたします」 「元気になってからね」  ミルドの髪を梳きながら、ジョスは微笑んだ。  女性としては背の高いジョスの服をミルドが着ると、丈が長く、痩せた娘にはぶかぶかだった。だが、しっかりと栄養を摂れるようになれば、丈は詰めなくてはならないが、ぴったりになるだろう。それまでは、結び紐で調節の出来る島の物は、便利と言えば便利な服だった。  着替えさせ終わると、ジョスは二人を食堂の席に着かせた。  二人にどのくらいまともに食べていないのかと訊ねると、ドルスは交易島からの航海中は全く何も口には出来ておらず、ミルドはやはり、長い間、まともに食事を摂らせて貰っていなかった。  奴隷船から人々を解放した後にまず為すべき事、として、長期間、まともに食事をいていない者には気を付けなくてはならないという話を、ジョスは父から聞いていた。  そういった者は、大抵、身体の中が弱っているので、欲しがるままに食べさせるたりすると、力のなくなった内臓の負担になった挙げ句に、死に至るのだと。  だから、どのように残酷に見えても、最初は軽く、消化の良い肉や野菜を煮詰めた上澄みから始めなくてはならない。味の濃い物も厳禁だった。  厨房の鍋をかき混ぜると、唯でさえじっくりと火の通っていた羊肉と野菜は、ほろほろと崩れてゆく。火から下ろして冷ましたものを、二人に出した。  ドルスはほぼ、一気に飲み干してしまった。 「お腹が空になったら言ってちょうだい。濃くするわ」  ドルスは食べさせても大丈夫そうだった。ミルドはゆっくりと、一口ひとくちを味わうように飲んでいた。 「食べながらでいいわ、聞いて」ジョスは二人に言った。「ここの旦那さまは、族長の弟で船団長のスヴェルト」  ドルスはあんぐりと口を開け、ミルドは匙を動かす手を止めた。そして、震え始めた。 「巨熊《きょゆう》のスヴェルト」  ドルスは絞り出すような声で言った。 「どう呼ばれているかは知らないけれど、大丈夫、主人《あるじ》としては悪くない人だと思うわ。朝に出て行ったら、夕刻までお帰りにならないのが普通だから、恐れる必要はないわ。それに、あなたたちを実際に使うのはわたしだから、口出しも手出しもさせないわ」  二人の身体から力が抜けるのが分った。 「わたしは妻のジョスよ」 「ジョス奥さま」ミルドが小さな声で言った。「お父上の族長は、どなたなのか、お訊きしてもよろしいでしょうか」 「<海狼>ベルクリフよ」  スヴェルトの名を聞いた時よりも、恐怖は大きいようで、二人とも蒼白になった。 「父は刃向かう者には容赦をしない人だけど、恐ろしい人ではないわ」普段の姿を知っているだけに、二人が共に恐れられているというのは、不思議な気がした。「わたしのことも、恐ろしいかしら」 「とんでもありません」すかさずミルドが言った。「こんなに優しくしていただいたのは、初めてです」 「俺――私も、連れて来られてから初めてです」 「なら、安心してくれるわね。でも、まずはしばらく養生しなくては。すぐに働く必要はないわ。そういう《《ふり》》を、旦那さまの前でしているだけでかまわないから」  ただ――ジョスは言った。 「ただ、ドルスは家畜小屋と納屋との続きの部屋を使ってもらわなくてはならないのだけど」 「今迄いた所でも、家畜小屋で寝起きしていましたから、そのくらいは平気です」 「納屋も家畜小屋も、まだ空なのだけど、家畜についても相談に乗ってちょうだい」 「はい、喜んで」  ドルスの顔には生気が戻って来ていた。希望が、見えたのだろう。  来年の族長集会に父や兄が来た時には、この二人を託そうと思った。あの島へ行けば、厳しい暮らしは別にしても、自由を手にする事が出来る。 「ミルドは、しばらくは何もしないで休まなくてはならないわ。しっかりと 動けるようになってから、手伝ってほしいの」 「でも、それでは…」  ミルドは躊躇いがちに言った。 「無理をして倒れてしまったら、元も子もないわ。あなたは今までひどい扱いを受けてきたのでしょう。しばらく休みを取って、それから働き始めた方が良いわ。今日、わたしがあなたたちを家に入れたことは、旦那さまにはお帰りになるまでに伝わるかもしれないけれど、気にしなくていいのよ。ああなたが大丈夫になるまでの言い訳くらいは、任せておいて」  にっこりとジョスは笑い、二人は呆気に取られたような顔になった。  スヴェルトの帰る頃までに、ジョスはスヴェルトの古着を急いで直した。そういう事が出来るようになったのも、叔母達に仕込まれたお陰だった。  温かな食事と薬湯とで二人は大分、血色が良くなり、ドルスは明日からでも軽い仕事ならば出来そうだった。そして、夕食の準備をする頃にドルスを納屋の棟に連れて行った。二人が寝るのがやっとの空間だったが、運び込んだ清潔な寝具にドルスの喜びようは大きかった。  ミルドは厨房の奥の部屋だったが、こちらも清潔な寝具に愕きを隠せないようだった。 「旦那さまはお声が大きい事もあるけど、心配しないで、ゆっくりと休んでちょうだい。ご機嫌が悪いわけではないのよ」  それでも、虐待されてきたであろうミルドには戦士の大声はきついだろうとは思った。解放されて北の涯の島に着た者達が、長く苦しめられるものの一つでもあったからだ。機嫌、不機嫌は関係なかった。自分が奴隷にされた時の状況や、家畜並みの扱いを受けた事による心の傷なのだとローアンは言った。  スヴェルトの為の食事作りは楽しかった。  魚はあまり好まなかったので、肉ばかりになるのが正直言ってジョスには辛かったが、どのような物であっても、あっと言う間に平らげてしまう健啖ぶりは、見ていて気持ちのよいものだった。  全ての準備が調った所で、まるでそれを知っていたかのようにスヴェルトが帰宅した。  靴や服の汚れを落とす事なく食卓に着く姿にも、慣れた。父や兄は、なるべく外の汚れを屋内に持ち込まない。だが、それは較べても詮ない事だった。  スヴェルトはどっかりと椅子に座ると、ジョスは食事を出した。 「何だ、今日、奴隷を買ったのではなかったのか」  不審げにスヴェルトは言った。 「はい、でも、旦那さまがあなただと知って、恐ろしくてご前《ぜん》には出られないらしいのですわ」 「恐ろしい、だと」  むっとしたようにスヴェルトは言った。 「あなたは<巨熊のスヴェルト>と呼ばれていらっしゃるのですってね。あまりに恐ろしいので、若い娘は厨房から出られないのですわ」 「そう呼ぶ者もいるな」今度は、満更でもないように顎髭に手をやってスヴェルトは言った。「だが、ここで使う以上は、給仕は仕事の内だろうが」 「粗相をして、あなたのお怒りに触れるのが恐ろしいのですわ、きっと。でも、あなたがそのような心の狭いお方ではないと分れば、給仕もできましょう。ですから、しばらくはお許しになってください」 「俺の留守の間の家事と、厨房の方は出来るのだな」 「後片付けは」 「食事の支度は、させんのか。それも仕事だろう」  ジョスは杯に蜜酒を満たして、自分も向かいの席に着いた。 「わたしの楽しみを奪っておしまいになるのですか」 「料理が、か」スヴェルトは眉をしかめて杯を手にした。「良くは知らんが、女主人は献立の指示をするだけだろう」 「わたしの料理がお口に合わないのであれば、そういたします」  がばと、スヴェルトは身を乗り出した。 「口に合わんなど、とんでもない事だ。俺はお前の料理は最高だと思っている。だが、教えればそのような手間を掛けずとも良いのではないか」 「あなたに喜んでいただきたいからこそ、自分で作りたいのです。そのくらいは、お許しいただけますか」  しおらしくジョスは言った。 「毎日、あの香草の麵麭を焼けるか。いや、乾酪入りのと交互で」  勢い込んで言うスヴェルトに、ジョスは微笑んだ。その二つはスヴェルトのお気に入りの朝餉用の麵麭だ。迷迭草《まんねんろう》入りや茴香《ういきょう》入り、肉桂と蜂蜜入りなど、何種類も作ってきた。この島では香草や香辛料を薬として以外はあまり用いないらしく、その全てをスヴェルトは珍しがり、気に入ってくれた。多めに作っておくと、夕餉までの足しにと、持って出る程だった。 「お気に召したのでしたら」 その言葉を聞くと、椅子の背に凭れ掛かり、スヴェルトはもったいぶったように言った。 「それなら、許そう。但し、料理だけだ。後片付けや前処理はさせるんだ」 「承知しました」  ジョスがそう答えると、もうその話題には興味を失ったのか、スヴェルトは杯をあおった。 「それで、もう一人買ったのか」 「はい、薬草を育てたいと思いましたので」 「薬草なら、女に摘みに行かせれば良い。療法師の所にも薬草はあるぞ」  不思議そうにスヴェルトは言った。 「療法師の叔母が持たせてくれた種がありますから、せっかくなので、育ててみようと思いまして。香草の種もありますから、必要な時に野に摘みに行くよりはいいですわ」 「では、許さない訳にはいかんな」  蜜酒で濡れた口ひげを袖で拭いながらスヴェルトは言った。「で、そいつは使えそうなのか」 「わたしと同じ年頃ですし、元は農夫だったそうで、働き者の手をしておりました。頃合いを見て、山羊や鶏も入れたいと思うのですが」 「それは好きにすると良い」  さて、では食事にしょう。そう言って、スヴェルトは奴隷の事は忘れたように鶏の迷迭草《まんねんろう》焼きにかぶりついた。     ※    ※    ※  翌朝、スヴェルトが井戸端で作田の酒を抜く為に頭から水をかぶっていると、男が納屋の棟から出て来た。  起き抜けでまだよくは回らぬ頭で、男のいる理由を探した。 「おい、お前」  スヴェルトは男に声を掛けた。  若者は、びくりとしたように一歩、退いた。何とも覇気のない奴だと思った。 「お前が新しい奴隷か」 「はい」男は頷いた。「昨日、奥様に家に入れて頂きました」 「近くに来い」  恐る恐る、といった様子で男はスヴェルトの側に来た。  ジョスと同じような年頃の、黒髪の男だった。背も北海の者にしては低く、大陸の者と思われた。どこかの部族が農村を襲った際に連れ帰った者なのだろうか。戦士らしさは毛ほどもなかった。 「俺が、ここの主人のスヴェルトだ」 「はい、旦那様」  その声は震えていた。 「俺の女房は、気立てが良すぎる程に良い。だからといって、甘えるな。しっかり仕えろ」 「心します」  鷹揚にスヴェルトは頷いた。主人《あるじ》として心の広い所を見せるのも必要だというのは、実はイルガスの弁だった。スヴェルトは、この兄妹にはどうも勝てる気がしなかった。それは、あの一族自体が、他の部族とは違いすぎているからかもしれない。 「スヴェルトさま、そろそろ朝餉を召し上がらなくては、遅れますわよ」  裏口からジョスが半身を見せて言った。そして、男に気付いたように付け加えた。 「ドルス、厨房に回って食事をすませて」  ドルス、と言うのか。  改めてスヴェルトは男を見た。黒髪に榛《はしばみ》色の目をしている。どちらかと言えば、男前の部類に入るだろう。農夫だったと言うだけあって、体つき しっかりしている。  気に食わない。  それが、スヴェルトの印象だった。 自分よりも若い男前を、いかに奴隷とは言え、遠征の間にこの家に置いておくのは気に入らなかった。噂の種になるのは必定だろう。実際、夫の遠征中に奴隷を間男にしていた女の話には事欠かない。大抵は男を殺して終わりだ。離婚に発展する事は、まずない。それは、男の方も遠征中に好き放題やらかしたという、妻に対する負い目があるからでもある。ジョスを信じない訳ではなかったが、同じような年頃の男女だ。自分よりも似合いだろう。噂の種になるのは我慢ならなかった。  急いで身体と髪を洗うと、新しい肌着を着た。ジョスの嫁入りの贈り物の一つだ。水に濡れても汗まみれになっても、全く不快にはならない不思議な羊毛だった。これを着てしまうと、もう、この島で織られた物は何一つ、身に着けたくなくなる。しっかりと織られた胴着ですら軽いのだから、謎だった。  ジョスの嫁入り道具の中には羊毛も入っていた。一度、ジョスの長着の裾に付いていたそれを拾った事があったが、まるで蒲公英の綿毛か蒲の穂のように軽く繊細だった。  何でも出来る、自分には過ぎた嫁だ。  スヴェルトは思った。  勿体なさ過ぎる。あの島にも良い男はいただろうに、あの年齢まで嫁にやらずに手許に置くとは、余程可愛い一人娘だったのだろうか。それを、よりによって、自分などにくれるとは、<海狼>の考えが読めなかった。  巨熊スヴェルト。  そう呼ばれる程に、暴れまくった。北海一の乱暴者、大酒飲みとも言われている。  何事にも冷静で知的なイルガスが、自分との付き合いを止めぬのが不思議だった。気が合う、と向こうは言う。語り合えば、楽しい相手であるのも確かだった。だが、家族思いのあの男が、腹違いとは言え、自分にあのような妹を嫁にやる事に関して、反対しなかったのだろうか。恐らく、この世で最も良くスヴェルトを知っているのはイルガスであろうに。部下達が自慢げに語る、自分達の船団長の武勇譚も耳にしているはずだ。どこかに落とし胤がいてもおかしくはない事くらい、知らぬ訳でもあるまいに。  それに――とスヴェルトは思った。  ジョスが肌身離さずにいる鯱の牙。それにスヴェルトが気付いたのは、つい最近の事だった。  誰からの贈り物なのかは分らない。だが、生命懸けで仕留めた獲物の牙を贈る、というのは、余程の関係でなくてはならない。生涯で初めての一番銛の男にだけ持つ事を許され、一生の護符となる物だからだ。父親である<海狼>から、島外へ嫁く娘への贈り物なのだろうか。だが、既婚者ならば留守の間の護符として奥方に贈る物だ。では、奥方からか。それは、幾ら何でも有り得ないだろう。  実は、言い交わした男から贈られた物なのかもしれない。  そう思うと、どきりとした。  その男とは死に別れたのだろうか。  だから、あの年齢まで一人で、島の外の、その男とは正反対の自分のような男に嫁いで来たのかもしれない。  大抵は、歯には記念の印が刻まれているものだ。個人の記録として。だが、それを確かめる気にはどうしてもなれなかった。戦場《いくさば》でなら、どのような相手にでも立ち向かう事は出来た。それなのに、ジョスが眠っている間にこっそりと見ればよいものを、その勇気がなかった。  いや、それどころか、ジョスに触れる勇気すら持てなかった。  ジョスにとっては、悪夢でしかなかったであろう夜を繰り返したくはなかった。自分が抑えきれないような時には、馴染みの女の所へ行く。その方が楽だった。ジョスはその女の存在を知らないし、その方が幸せだろうと思った。  娘とスヴェルトとの婚姻で、<海狼>が得るものは何かあっただろうか。  むしろ、<海狼>が持参財として持たせた物を見る限りでは、あちらの方が絶対的に損をしているとしか思えない。いかに女の方からの申し込みとはいえ、スヴェルトには理解出来なかった。  龍涎香が一年分、と目録にはあったが、どう見ても兄の要求した目方は多すぎた。あの馬鹿正直な兄にそのような知恵があるとは思えないので、恐らく義姉の考えだろう。布地にしたところで、思った以上に上等だったし、武器の類いも大陸渡りの鋼で出来ていた。どう見ても、おかしい。それ程に、大切な息子だったのか。 <海狼>の考えは分らない。  イルガスの考えも、分らない。  ならば、女であるジョスの考えなど、想像の埒外だ。  スヴェルトは、まだ濡れている髪を手櫛で後ろに撫でつけた。  それでも、巧くやっていけているではないか。  ジョスが何を考え、どう思っているかは分らない。だが、いつも軽やかに笑い、不満はなさそうだ。自分がどれ程ジョスに触れたくとも、今の平穏を捨てる程ではない。この生活と、あの笑顔を保てるのならば。     ※    ※    ※  スヴェルトが出て行くと、ジョスはひと通りの家事を済ませ、ミルドに果物の蜂蜜煮を持って行った。今日、一日はそれで様子を見るつもりだった。ミルドは、空腹と満腹との違いすらも分らないようだったので、危険なのは危険だった。だが、奴隷を診る療法師はいないだろうから、ジョスがかつて教わったようにするしかなかった。  その次は、ドルスと畑の相談をしなくてはならなかった。  種の量を見せ、日向を好む種類と日陰を好む種類とを教えた。  庭を見渡してドルスは場所を決めた。だが、土地としては余りよくはないので、薬草や香草はともかく、野菜の栽培には向かないと言った。 「家畜を入れたいと仰言っていましたが、それでしたら、鶏がいいでしょう。雄一羽に雌二羽がいれば、交代で産みますので、毎日卵が採れます。あの小屋でしたら、雌をもう二羽入れても充分な場所があります。それに、鶏糞はよい肥料になりますから、野菜も作れるようになるでしょう」ドルスは言った。「後は乳酪や乾酪を作るのでしたら、雌山羊が一頭ですか。山羊は畑を荒らしかねないので、杭に括り付けておかないと、柵では簡単に飛び越えてしまいます」 「犬は必要かしら」 「それは何とも、申し上げられませんが、奥様の実家ではどのようになさっておられましたか」 「牧羊犬は自由に出入りしていたわ。何しろ、小さな島だったから、ここのように大きな犬はいなかったの。あんなに大きいのは初めてで、愕いているくらいよ」 「御領主は狩りに使っておられました」ドルスは言った。「時には、人を追う事もありましたが。牧羊犬だけとは、平和なのですね」  苦笑いとも取れる顔付きだった。 「平和かもしれないけれど、冬は厳しいし、穀物も余り穫れないわ。父達が交易島で仕入れたり、積荷船を襲ったりして手に入れた小麦は、貴重だったわ」  ドルスは暫く沈黙した。 「小麦は御領主へ半分、納めていましたが、他の穀物と混ぜれば一年はもちました」 「わたしたちは黒麦と燕麦がほとんどだったわ。それを恥じる気持ちもないけれど、この島へ来て、なんて恵まれているのだろう、と思ったわ。同じ北海なのに、こんなに小麦を使ってもいいなんて、思いもしなかったわ。それに、毎日でも肉が手に入るし、生命懸けで狩りをしなくてもいいし。わたしの島では、家畜は部族の共有財産だったわ。ただ、海の幸には恵まれていたのだけれど」 「共有だったのですか」ドルスは愕いたように言った。「土地は御領主から借りていましたが、家畜は個人の財産でした。まあ、税はかかりましたが」  その言葉に、ジョスは寂しく笑った。冬の前に、越冬できなさそうな弱い羊を潰して塩漬けや干し肉にする作業や、鯨や鯱を追う父達の姿を思い出していた。羊の血の最期の一滴まで無駄にしないように、血の腸詰めまで作ったものだ。 「あの日まで、幸せだなんて思いもしなかったんですが、本当は、幸せだったのでしょうね」  ドルスは遠い目をして言った。 「故郷に、帰りたいの」  その問いに、暫くドルスは考えていたが、やがて頭《かぶり》を振った。 「もう、故郷はなくなりました。私に帰る所はないんです。皆、ばらばらに売られましたし」  ジョスにはかける言葉もなかった。  母と同じく、ドルスも全てを失った者なのだった。

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この作品の評価

4pt

10章まで読みました。 とうとう行動に移したヒロイン。 不器用な二人がどうなるか、ますます楽しみです。

2019.09.24 22:28

taeko246

0

非常な細やかな描写、感情の揺らぎ。 あまり知らなかったヴァイキングの世界が目に映るようです。 ヒロインのこれからの活躍に期待です(^^)

2019.08.29 13:42

taeko246

0

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