ごめんなさい

「この子は、その……。本来の名前があったんだ。ユイじゃなくて、もっと別の」  俯いたままテーブルの角を見つめて、吐き気を留めるように深く大きく呼吸をしているユイは、常になにかに脅えているような素振りを見せる。彼が彼女の名前を呼んだときですら、びくりと肩を震わせるのである。 「昔の名前は思い出せないらしい。でも今の名前はユイなんだ。呼ぶときもそれでいい」  そしてウィリアムは苦い顔をして、 「つまり……記憶がないんだ。あの地下室より以前の記憶が」 「どういうこと?」  アンネが尋ねる。 「確かにこの子から魔力は感じないわ。ウィルと全く同じよ。でもあなたが言いたいことはそんなことじゃない」 「…………」 「後天的だと言いたいのね? この子の魔法不能が」 「……そうだ」  ウィリアムの肯定に、マティアスは息を呑んだ。アンネは一瞬絶句して、声を絞り出すように発する。 「そんなのありえないわ」 「嘘じゃない」 「ありえないの。私がありえないと言うんだから、今のウィルの言葉は絶対に嘘であるはずなのよ」  アンネの言葉は徐々に刺々しい語勢を帯びていった。  彼女の変貌に異変を察知したマティアスは、アンネをなだめようとする素振りを見せたが、アンネはそれを首を振って一蹴した。  一方でウィリアムの側も怯む様子を見せない。 「俺だって、以前の記憶を失っていたじゃないか」 「以前だなんて言わないで。あなたのは生まれつきという扱いになるの。関係ないじゃない」 「じゃあ、なんだ。十になるまで、俺のあのときの記憶が一切なかったのはどういうことになるんだ」 「そういう契約だった。発達していない脳では大きな負荷に耐えられない」 「アンはどうだったんだ。脳が発達していないのは双子なら同じだろ」 「同じじゃないわ。私は魔法について全能なの。私たちが、あなたが顔も思い出すことができない母親の胎内に宿ったときから、すべての記憶を持っていたわ。記憶、脳の仕組みもすべて魔法で代用が効くのよ。でもそれは存在しない、存在する予定がない魔法技術なの」  ウィリアムは、とても悲しそうな顔をした。 「……またアンは隠し事をしてたんだな」 「あなたは隠し事をする側の辛さを知らない。私にとってこの世界はとても窮屈よ」 「俺が辛いのは、俺が嘘を言っていないと分かるだろうに、それでも……」  かすれた声を出したウィリアムは、それきり何も喋らなくなった。  黙っていたマティアスは、 「お前たちは……。おれが一番不安に思っているのは、お前たちに、そしてこの子に、よりよい展望が一切見えてこないことだ……。アンネは、それが見えているのか?」  アンネはマティアスの目を見てきっぱりと、 「この子は分からない。でも、私とウィルにはありません。私たちは未来永劫、先細っていくだけ」  と、言った。  その言葉に、ウィリアムが大きく目を見開き、膝の上の手がびくりと震えた。  それを見ていたのはユイだけだった。  アンとマティアスはそれが見えていなかった。

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