Part 10-2 Shadowing 尾行

Lower Manhattan, NYC 11:55 午前11:55 ニューヨーク市 ロウワー・マンハッタン  ヘレナ・フォーチュン二十二歳はNSA(:国家安全保障局)・NY支部の下っ端職員だった。  カンザスに住む両親は一人娘がバークレイ大学をなんとか卒業しただけでなく、国の大きな公務職に就けた事を誇りにしている。彼女自身チャンスがあればサブリングス捜査主任の様に登りつめたいと希望を懐いていた。  だがヘレナはそんな自分に才覚がありはしないと良く分かっていた。なんとか職に就いて七ヶ月堪えた。少なくともまだ解雇されていない。  何の取り柄もない自分だが──いや、一つだけ誰にも負けない自信があった。“私は世界で一番運のない女”なのだ。その事を子供時代から振り返っても、自信が持てた。どの学年になっても学友からは丁寧にファミリー・ネームに“ミス”と付けられ“不幸”(:Misfortune)と虐げられてきた。  そんな私が拳銃を持たされ、大都市に核爆弾を持ち込んだテロリストを捜している。  同じ班の先輩達は皆それぞれワールド・トレード・センターからフリント・ストリートを東へ向かい狼とコードネームで呼ばれているテロリストを“ペア”で捜しに行った。  だけど──どうして私だけ一人なのよ!  怒りと不安に苛《さいな》まれヘレナは雑踏の中を通行人に何度もぶつかりながらWTC外縁を歩いていた。“お前はすぐ迷子になるからついて来るな”と言い渡され、WTCの外回りを歩いてろ命じられ、そんな──と思いつつも先輩達を見送ってしまった私の不甲斐なさ。イジケそうになり一瞬足元を見つめた瞬間、彼女は強烈に右肩をぶつけられた。 「くそっ!」  そうこぼしたヘレナが勢いを持って振り向くと鼻の下から顎《あご》に掛けて白髪混じりの髭《ひげ》を生やした中年男も振り返っていた。きつい形相で睨《にら》みつけられヘレナは即座に謝った。 「すみません。私前を見てなかったから──」  謝っている途中で男は視線を反らし背を向け歩き去ろうとした。 「人が謝ってるのに聞きなさいよ!」  彼女は思わず声を荒げた。その途端に髭面《ひげづら》の男が振り返ってまた睨みつけられヘレナは地雷を踏んだと思った。 「ごめんなさい!」  そう言い勢いよく頭を下げた。だが地面を見つめながら彼女は瞳を大きく見開いて呟《つぶや》いた。 「なんで?──“狼”──なのよ!」  二度も見たから見間違っているわけがなかった。緊急ブリーフィングでスクリーンに映し出されていた顔そのものだった。途端に心臓がばくばくしだし、自分の吸い込む息の音しか聞こえなくなった。  彼女は頭をそっと上げると“ウルフ”は再び背を向け離れようとしていた。ヘレナは意識せずにその後を追い始めた。そうしてこの後何をしたらいいのか懸命に考え始めた。“ウルフ”は思ったよりも早足ですでに十ヤードほど離されていた。 「まかれちゃいけない。まかれちゃいけない。まかれちゃ──」  ヘレナは呟《つぶや》きながら黙々と容疑者を追っていた。その時彼女は主任に知らせなければとふと思いつきスーツの上から内ポケットに入れられた無線機の送信ボタンを押し込んだ。そうして襟《えり》に付けたマイクを顎《あご》に引き寄せ小声で報告を始めた。 「こちら六班のフォーチュン。たった今“ウルフ”とぶつかりました。追跡してます! 私一人しかいません! どうしたらいいですか? 御指示を! 場所は──」  上ずった声でそこまで言い彼女は言葉につまった。ヘレナ・フォーチュンは自分が歩いている通りの名を知らなかった。  イズゥ・アル・サロームは姪のミュウと別れるとメモリアル・パークの出口に立ち止まり通りの左右を見回した。  多くの人が様々な方へ歩く中、立ち止まって自分の方を見ている者がいないかと彼は用心深く観察した。顔をそらして無理な横目を使っている者もいない。それに歩道に接する道路には流れに逆らい停車したりゆっくりと走る車はいなかった。車が流れに乗っている限り、公園の出入口の前を通り過ぎるのは極めて短い時間だ。その様な短時間で車から見ても顔を確認するのが関の山だろう。  彼は腕時計を見た。昼になっていた。一時間ほど前に感じていた見つめられている様な感覚はなかった。イズゥは、公園に歩いて来た時の歩道を人の流れに逆らい歩き始めた。そうして歩きながら、故郷を共に出た他の三人の男らの事を考えた。  決行の日は明日だ。イズゥは今日の内に三人を呼び寄せるつもりはなかった。彼はこの都市と共に火焔に呑み込まれる仲間を少しでも長く遠ざけたいと感じた。  だが参謀は今日の内に三人をこの大都市に呼びつけた。自分が捜査官らを撒けずに優柔不断な事を続けたばかりに、参謀は決行日時を早めるつもりになったのかも知れない。今夜なのかとイズゥが苛つきにも似た感情に揺さぶれたその瞬間流れの中を歩いて来た女と肩が激しくぶつかった。  彼は一旦通り過ぎ振り向いた。まだあどけなさを残した黒にも見える暗いスーツを着た若い女だった。  女は何か言いながら頭を下げたので彼は謝意があったと思い踵《きびす》を返し歩き始めた。その刹那女の荒げた声が耳に入りイズゥは歩みを止めてまた振り向いた。顔が合ったのは今しがたぶつかった女だった。  他に立ち止まる者もおらず自分に声を荒げたのはその女に間違いなかった。彼は急に腹立たしくなりその女を睨《にら》みつけた。そうすると直ぐに女が頭を下げたのでイズゥは女が自分に大きい声で謝ったのだと思い背を向け歩き始めた。  何を苛《いら》ついているのだと自分に問いながらイズゥはしばらく歩き続けると遠くに自分が出てきた地下鉄の出口が見えてきた。  イズゥは一瞬硬直し流れの波に立ち止まった。  彼はその出口傍らの車道に停まる黒いSUVを眼にして、それが意味する事を理解し睨《にら》みすえた。フロントガラスを除いて全て暗いフィルムが貼られたその大型乗用車傍の車道に三人の男女が立っていた。  三人共暗い色合いのスーツを着込み、顔にはサングラスを掛けて駅入口へ歩道を向かってくる人の流れを見つめている。イズゥは一目で三人が自分らを追いつめようとする捜査局の者達だと判断した。  ベッカー高原のキャンプで自分らを教育した同士からアメリカには連邦捜査局という州にまたがる捜査機関があると教わった。高度な警察機関でその追跡は巧妙で執拗《しつよう》だと聞いていた。一目で連中だと判断するには、軍人が一様に軍服を着るように同じ様な暗い色合いのスーツを着込み単独では行動しない点だった。  イズゥはふたたびゆっくりと歩み始めると向きを横の車道に変え歩いて来た後方へ振り向いた。車の流れをわずかに見つめると黄色いセダンが走って来た。  タクシーだ。  彼は意識し車道に出て目立つことを避けた。そうして片手を上げてセダンが向きを変え自分の方へ寄ってくると数歩進み出て車が止まりきる前に後ろのドア・ノブへ手を伸ばした。  タイアが止まった時には彼はドアを開け車の後席に飛び乗った。乗り込むとイズゥはドアを締め黒いSUVの者達が自分に気がついただろうかと思った。もしや気がつかれたとしても、街中を不規則に周回させれば追っ手の有無は確認できる。  追跡者があれば然るべき場所に誘い込み罠に掛け狩り殺すまでだとイズゥ・アル・サロームは走り出したタクシーの中で目を細めた。その時彼が振り向けば、リアウインドウ越しに先ほど肩をぶつけた女が同じ様にイエロー・キャブを拾い走り出したのを眼にしたはずだった。  そして他にも数台の車が後を走り出した事など知る由もなかった。彼はただひたすら自分の車を曲がらせる交差点が近づく事に気をとられていた。  マーサ・サブリングスはスピーカーから流れ出した報告に神経を尖らせた。 『──今“ウルフ”とぶつかりました。追跡してます! 私一人しかいません! どうしたらいいですか?御指示を! 場所は──』  場所はどこなのだと思いながらマーサは斜向かいに座るララが顔に片手を当てているのに気がついた。 「どうしたの、ララ?」  マーサに尋ねられ彼女は指の間からマーサの方へ視線を向け説明した。 「主任──まずいです。その──」 「何なの、ララ?」  マーサは焦《じ》れったく感じたが声は平静を保った。 「今、追尾してるのはヘレナです」  名を聞いた瞬間、マーサは報告者が誰なのかを思い出した。今年に配属されるなり半年で三度も始末書を書かせた新人なのだ。途端に彼女はマイクをつかむと送信スイッチを押し込んだ。 「指揮のサブリングスです。ヘレナ、場所は?」 『主任~、御免なさい。私、この通りがどこなのか分からないんです』 「ヘレナ、落ち着いて。“ウルフ”はまだ貴女の前にいるの?」 『はい、十ヤード前を歩いてます』 「近くの交差点で通りの名前を確認しなかったの?」 『“ウルフ”から目をそらしたら逃げられそうで見てません』  マーサは一瞬目の前のニヤニヤと笑みを噛み殺しきれていない通信担当の男性部下の顔をみつめ手を伸ばしデジタル無線機の一斉送信のスイッチを自分で押し込んだ。 「六班マクブライト、あなた達どこでヘレナと別れたの?」 『主任、WTCからフルトン通りに入る交差点です』  即座に六班のリーダーが知らせてきた。マーサは顔をノートPCに向けると空いている左手でパッドを操作し映し出された地図をスクロールさせた。通りの名に聞き覚えがあった。確かWTCの東に接するT字路のはず。地図の中心にその通りが表示され、すかさず彼女は尋ねた。 「ヘレナ、左に高い建物がない?」 『主任、ありました。工事中の様な。あっ、“ウルフ”広い交差点を渡って行きます。私も渡ります』  工事中の高いビル──おそらく2ワールド・トレード・センター。WTC北東に位置するビルだわ。なら“ウルフ”が歩いているのは、教会通りを北へ! マーサはそう考えながら、PCの地図をわずかに下へスクロールさせ通りの左右を確認した。上から見えてきた“ウルフ”が渡ったという広い通りの先には──WTC駅!  “ウルフ”が降りたと思われる地下鉄駅。  まさか“ウルフ”はまた地下鉄で!?  マーサはとっさに向かいに座る無線担当の男に尋ねた。 「現在、サブウェイのWTC駅近辺にいる班は?」  無線担当の男性職員が問い合わせの送信を終ると三秒もせずに七班が返事を返してきた。そこでマーサは思いきった手段に出た。 「七班に、WTC駅入口を“あからさまに”監視させなさい。“ウルフ”の眼に止まっても構わない」  無線担当の男は一瞬理解しがたいといった顔をしたが、復唱する様にマイクへ話しだし七班全員に伝えた。  今、“ウルフ”が地下鉄に逃げ込んだら、たとえ少数の追跡者が食らいついて乗ったとしても、指揮車両と連絡が取れなくなる。“ウルフ”がどの駅で降車するか分からない以上、少数の追跡者が尾行を続けなくてはならない。  応援を向かわせる迄に再びまかれたら目の当てようもない、とマーサは考えた。それなら尾行者がいると知られ警戒されても、地下鉄以外の足で逃げる“ウルフ”を追尾し続ける事のほうがまだマシだわと判断した。  テロ実行主犯格の男。何としても追っ手を撒《ま》き、核爆弾に辿り着こうとするはず。それを逃さなければ最終的に核爆弾へたどり着ける。マーサは他に策の取りようがないとノートPCの地図を見つめ思った。  WTC地下鉄駅の昇降口の入口に近い場所に機動車両を停めて、駅入口に近付く歩行者へ満遍なく視線を向けていたNSA・NY支部のトム・ヘンリーは意識して五十ヤード先の交差点へ視線を向けた。  彼の視野に交差点傍の歩道へ寄るイエローキャブが入ったからだった。キャブが止まりきる前に歩道の人の流れの端にいた一人のコート姿の男が車に乗り込むのをトムは片眼で見ていた。  距離があったのでブリーフィングで見せられたイラク共和国親衛隊の大佐かどうか判断がつかなかった。だが彼は車に乗り込んだコート姿の男の鼻の下から顎《あご》周りに掛けて黒かったのを見逃さなかった。  NYで中東人を見掛けることは珍しい事ではなかった。実際、イエローキャブの運転手には中東から出稼ぎに来た男達が多い。そして彼らは信仰する宗派の教義を頑《かたく》なに守り鼻下から顎《あご》に掛けて髭《ひげ》を伸ばしている者が沢山いた。だがトムはキャブに乗り込んだ男がコートの襟《えり》を立てていたのを見逃さなかった。 「リーダー、これから横を通り過ぎるイエローキャブの後席」  そうトムは七班のリーダー、ミルズ・ケイジに声を掛けた。返事もせずに横の車道へ振り向いたミルズは速度を上げ始めたキャブを流し目で確認した。車が通り過ぎる前にミルズは襟《えり》のマイクへ口を近づけ報告しながら通り過ぎたキャブのナンバーを確認した。 「“ウルフ”を視認。イエローキャブ、NYY531。西の大通りに向かってます。車両追尾開始します」  ミルズは早口で指揮車両へ報告すると黒のサバーバンの傍にいた部下へ乗り込めと怒鳴った。その真横をもう一台のイエローキャブがスピードを上げながら通り過ぎた。ケイジが後席へ視線を合わせた瞬間、横顔がはっきり見え彼は驚きその女の名前を口走った。 「ヘレナ!」  ヘレナのイエローキャブが捜査車両から三十ヤード走りきる前に彼らの車はタイアから白煙を上げ走り始めた。 “ウルフ”はここにきて急に大胆に逃げに走りだした。七班のミルズ・ケイジから連絡を受けマーサは全班に車輌追跡へシフトさせる為の指示を出した。  キャブのナンバーを繰り返し伝える無線担当の職員の声に耳を傾けながら“ウルフ”が我々の尾行に気がつきやり難《がた》くなるとマーサが考えているときベリーズが主任に提案した。 「主任、ヘレナを下げましょう。あいつ、その──“天然”ですから、いたずらに“ウルフ”を刺激してしまいます」  マーサは副主任にさえ“天然”と言われるヘレナ・フォーチュンを一瞬不敏に感じた。 「いえ、彼女の好きにやらせましょう。“ウルフ”が正真の軍人ならヘレナ一人に我々全員を推し量るでしょう。車輌という逃げ隠れし難い手段を選んだ事を後悔させてやる」  マーサが笑みを浮かべノートPCの画面を見ながら話す部下をその様に敵に当てる理由を聞いてベリーズは驚いた。副主任は見つめるマーサ・サブリングスという女一人がまったく予想し難い存在なのだと初めて理解した。その刹那、主任が再びマイクをつかみ次々に新しい指示を出し始めた。 「全班、“ウルフ”の現在位置を逐次指示します。一、二班、“ウルフ”に先行しハドソン河沿いのウエスト通りを走行。キャブ迄一定の距離を保ちなさい。三、四班、ハドソン通りを“ウルフ”に対し並走。キャブはウエスト、ハドソンのどちらかの通りを北上──」  ララはどうしてテロリストが北へ車を走らせると判断出来るのだと思いマーサに尋ねた。 「主任、なぜ“ウルフ”が北へと?」  マーサは彼女に顔を向けると微笑んだ。 「誰かにWTCで逢ったなら、彼が、意識するしないに関わらずにそこを遠ざかるでしょ。ララ、貴女、我々の追ってる男が“どうしたいか”と成り代わる様に考えてごらんなさい」  マーサの説明にララが納得している前で主任は五班から十二班八台にキャブを交互に追い抜き同じ車が数分以上後方に付かない様に指示を出し自分ら指揮車輌もウエスト通りに向かう様に運転する職員に命じた。 「さあ“ウルフ”──独楽鼠《こまねずみ》の様に足掻きなさいな」  そうマーサが呟《つぶや》いたのを耳にしてベリーズとララは眼を丸くして顔を見合わせた。二人とも彼女がこれを楽しんでいるに違いないと確信した。その時いきなりマーサの上着の内胸ポケットからメロディが流れだし、二人の視線が彼女に集まった。ノートPCを見つめていたマーサは急いでスマートフォンを取り出すと耳に当てた。 「はい、マーサです」  相手が何か言った直後彼女の眼が泳いだ。 「えっ!? クレンシー、あなたD.C.じゃないの?」  まるで携帯越しに相手が見えるとでも言うようにマーサは横目でスマートフォンの方を見つめた。 「今? イズゥ・アル・サロームを追ってる最中です。ロウアー・マンハッタンに展開。指揮車輌はハドソン河沿いのウエスト通りに向かってます」  マーサはその後、短い返事を返し携帯を切るとポケットに戻した。 「主任、長官代理がどうかされたんですか?」  ララが主任に尋ねた。 「彼、NYに来てるわ。空軍の戦闘機でJFK(:ケネディ国際空港)まで来たらしいの」  明るく説明するマーサのその返事にララとベリーズは驚いた。 「クレンシー長官代理、現場で指揮を執られるおつもりでしょうか?」  今度はベリーズが主任に尋ねた。 「たぶん、そのつもりだと──」  マーサはそれがどれほど心強いか知れないと思った。私を“今”に引き上げてくれた人が来る! だがそれまで食らいついた“ウルフ”を決して顎《あご》から放さない事が肝要だとマ彼女は思い噛み殺すのは私と合わせた奥歯に力を込めた。  再びノートPCに視線を落とし液晶画面に映った地図を見ていると最初に“ウルフ”のキャブを追尾し始めた七班のリーダーが急を報せる報告を入れてきた。 「“ウルフ”ウエスト通りからいきなり右折、チャンバース通りへ」  マーサ・サブリングスは直ぐに画面に映る地図をスクロールさせ次にテロリストが曲がる交差点を予測したが、自分らに数グループの伏兵が忍び寄る事など窺《うかが》い知るよしがなかった。

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