向伸一郎

 記憶がないと言う、この少女──真中凛《まなかりん》を、男子高校生はいささか疑っていた。何を疑っているのか。それは、 (こいつ、本当は、ただ家出してきただけなんじゃないのか?)  という疑いである。記憶がないというのは嘘である、男子高校生はそう疑っていた。  男子高校生の疑念など露知らず、凛は再び新しいポテチの袋を開けて、むしゃむしゃと頬張り始めた。頬っぺたが落ちそうなくらい、凛の顔はトロンと蕩けてしまっている。推定15才の成長期の少女にとって、食べることは何事にも変えられない幸せなのだ。 「美味しいなあー、ポテチ美味しいなあー。毎日ポテチでいいよー、私もうポテチの国の王女様になってもいいよー」  むしゃむしゃ……むしゃむしゃ。凛の食べっぷりに、唖然とする男子高校生。 (……まあいい、色々質問してみよう。たぶんボロが出て、正直に話すだろう)  というわけで、しばしの間、男子高校生は凛に質問を浴びせることにした。 「お前、いつから記憶がないんだ?」 「……んー、今日のお昼頃から」 「気づいたらどこにいた?」 「土管の中」 (スーパーマリオかな……土管から、ドカンと出てきたのか。というか、嘘ならもっと上手くつけよな) 「仕方ないよ、本当なんだから」 「……まあいい。それから、今までどうしてたんだ?」 「雨降ってたから、土管の中でジーっとしてた。それで、雨やんだから、お腹空いたから、夜になって商店街を歩き始めた」 「それで、今に至ると」 「その通りです、兄者《あにじゃ》」  兄者ってなんだ、と思っている男子高校生。凛はすっかり、この男子高校生に気を許していた。食べ物を奢ってくれるのだから、いい人に違いないという思い込みから。  凛が将来、食べ物に釣られて、変な人についていかないか非常に心配だ。 「俺は兄者じゃないよ、向《むかい》だ。向伸一郎《むかいしんいちろう》。お前は? まだ名前訊いてなかったよな」 「私の名前は、真中凛。何故か名前だけは覚えてるの。向《むかい》の兄者《あにじゃ》、ちょっとだけ私のこと助けてくれないかな?」 「兄者は余計だよ、向でいい。まあいい。凛、お前を助けるってどういうことだよ。もうさっき助けただろ、これ以上はない」 『これ以上はない』、という向の言葉を聞いて、凛はプクーッと膨れっ面を作った。 (何よ、せっかく優しい男子だと思ってあげたのに。意外と冷たいのね。てか私、今晩このままじゃ野宿だし。なんか、また雨降りそうだし。嫌じゃー! ずぶ濡れにはなりたくないんじゃー!) (よし、こうなったら……。テレビで見たアレで、この兄者を落としてみせよう!)  そして凛、ペタリとその場に座り込んでしまった。そして、上着のピンクジャージを脱ぎ脱ぎ。……て、またか凛。馬鹿なのか、お前は馬鹿なんじゃないのか。  Tシャツの首元をズラして、鎖骨をチラリ。というか、気になるのだが、凛にとって誘惑とは鎖骨を見せることらしい。何のテレビ番組を見たんだ、マニアックすぎる。 「兄者ぁー……私ねー、このままじゃ野宿なの。雨冷たいし、風邪引いたら大変だし。兄者のお家に泊まらせてくれない、かな?」  全く色気のない、色仕かけ。推定15才ならもっとできるはずなのに。色気の才覚は皆無の凛。本当に残念な少女だ。 (……て、兄者さあ) 「何帰ろうとしてるんだ、兄者! 私がこんなに頑張ってるのに! 見ろよ! せめて見ようとしろよー、寂しいだろー」  凛に背を向けて、自宅へと帰ろうとしていた兄者──もとい向伸一郎。しかし凛のギャーギャー喚く声で、ため息をつきながら振り返った。向が振り向いたことで、凛の表情がパァーッと明るくなる。 (……面倒くさいな。助けなきゃよかった)  後悔しても、もう遅い。乗りかかった船だ、そう腹をくくった向。ズボンのポケットに手を入れながら、凛の元へと戻っていく。  パタパタ! パタパタ!  また凛に犬の尻尾のようなものが生え、パタパタと嬉しさを表現している。そして向は、それを見て、またひとつため息をつく。 「……一晩だけな」  目を輝かせ、顔中を明るくして、凛は全身で向の言葉を喜んだ。これで野宿回避です。お風呂にも入れるでしょう。 「兄者ぁー! やっぱり優しいじゃん!」  向に抱きつこうと、ルパンジャンプよろしく、飛びかかる凛。しかし向は身を返してヒラリとそれを回避した。ビターン。コンクリートの舗道に引っついた。 「……ちょっと、ショックなんですけど」 「凛、もうそういうのやめろ。本当にいつか危ない目にあうぞ。それにな──」  首を傾げて、不思議そうに向を見る凛。 「それに?」 「俺、ガキには興味ないから」  ガーーーーン!!! (ガキって何! 兄者、チョー失礼なんですけど! 私、結構胸も大きくなってきたし、もう十分大人の女なんですけど。鎖骨か? また鎖骨見せて悩殺してやろうか?)  凛がそんなことを考えていると、鼻の頭に冷たいものがポツリと落ちてきた。ポツリ、ポツリ。それは次第に大きく、連続的になり、あっという間に散弾銃のようになった。 「あーあ、もういい。凛、家まで走るぞ」 「ちょっと兄者、傘は?」 「持ってないよ」 「ちゃんと準備しなきゃー。女の子と夜のデートだってのに。ひとしくん人形没収」 「……お前、何歳だよ」  ひとしくん人形を没収されたが、凛が濡れないように、羽織っていたシャツを頭に被せてやる向。そして、ご機嫌な凛。 「走れ、凛」  真中凛。  向伸一郎。  小さな世界で、二人はついに出会った。  動き出す、ひとつの大きな運命が──。

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