第一話 秋萩(3)

 風をとるためにと、開けていた障子窓の隙間から、秋の夜特有の、湿った寂しい風が入り込み、室内の灯りを揺らした。才四郎は、その見えない風につと視線を漂わせ……いい辛そうに口を開いた。 「実は寝れていない。こうやってお前を寝かしつけて、お前の隣で座ったまま数刻仮眠をとって。そして衝立の向こうで横になり、体を休めている」 「なぜ」  思わず責めるような口調になり、私は首を振り、目を伏せた。師匠様の寺を出てから優に一月は経っている。彼は長い間、身体をゆっくりと休めることができていない。なぜ……なぜ私はすぐ隣にいながらそれに気づけなかったのだろう。今の発言はむしろ自分に向けてのものだ。才四郎が私をまっすぐ見下ろした。美しい黒色の瞳が少し翳る。  「俺は……おまえがまた突然ふと、眠っている間にいなくなったらと思うと。恐くて寝れんのだ」  私が口を開くのを制するように、いい年して恥ずかしいから言いたくなかったんだが、と前置きして、彼は続ける。 「前にも話したが……夕顔のあの一件の後。俺は一人、部屋で自分を責め続けた。一睡も出来ぬ程でな……。それを見かねたひなが、お前が寺を抜け出したあの夜に限って、俺の怪我の薬に眠り薬を混ぜたんだ。今さらこんな話をしても、言い訳にしかならんが。俺はあの夜、厠に行く途中にお前のうなされる声が耳に入ってな。それで障子の外から声をかけたんだ」  あの夜……師匠様の寺をこっそり抜け出す前日の夜のことだ。縫い物をしていた私は、気づかぬ間に眠ってしまい、才四郎が捕らえられる怖い夢を見て、飛び起きたのだった。その時彼本人が、部屋の外から声をかけてくれた……。 「お前の様子がおかしいことに気付いた。もしや朝方ここを出るつもりかと、すぐに思い当たった。なんとしても阻止せねばならぬ。しかし俺はあの時お前に……憎まれていたからな。話し合いは無理だと思った……。こっそり部屋の外で待ち構えて、出てきた所を力付くで止めようと思ったんだ」  私は瞬きをした。まさかあのような短い会話で……気付いていたのですね、と独り言のように呟く私に、彼が当たり前だと言わんばかりに声をあげた。 「数ヵ月、毎日隣に居たんだぞ。お前の考えてることなど、お見通しだ」  そうであった。彼はあのときも、そして今この時も、誰よりも私を深く理解してくれている。けれど私はあのとき、彼の頬を打ってしまったが、憎むなど……出来なかったのだけれど……。 「しかし、脇腹の傷の状態がよくなくてな。部屋に帰って薬を飲んで来ようと一度戻ったんだ。薬を口にして……そのまま……眠ってしまった。俺は苦いものは一気に飲む癖があるだろ。それをひなに見透かされていた。痛み止に強烈な眠り薬を仕込まれた。結果俺はお前を、知らぬ間に失いそうになった……」  そう言うと彼は私から視線を反らした。 「あの時の恐怖がいまだに忘れられん。またなんの理由か、夜深く寝てしまって、小春がいなくなったら……」  私は知らぬ間に、胡座をかいている彼の膝の上に乗せていた手を強く握りしめ、頭を深く下げて声を上げていた。 「才四郎、申し訳ありません! 私の行動のせいで、あなたの心を深く傷つけてしまいました」 「違う。お前のせいではない。師匠の言う通り無能な俺が悪いのだ」  私の頭を優しく撫でながら、彼がどこか悲しそうな声でそう言った。彼は確かに優しい。私も彼の優しさがなければ今の今まで命を永らえることなど出来なかった。しかしその優しさは忍としては、不必要なものであるのだろう。逆に彼を窮地に追いやる要因になりかねない。 「……私はもう何処へも行きません。私はあなたの傍でしか生きられないのですから、愛しいあなたの傍でしか」  私は彼を見上げてそう言った。彼が目を細めて優しく微笑み頷き返してくれる。 「それは分かってる。しかし……何か別の要因……知らぬ間に同業者が忍び込むとか……そういうことも考えられる」  またゆらりと吹き込む風で、部屋の明かりが揺らいだ。橙色の光が彼の顔にくっきりと影を作り出した。ああ。私は自分のことばかりで、彼のことをもっと気遣いよく見るべきであった。こうしてみると、才四郎の顔色は、だいぶ悪い。私といるときは、無理して元気に振舞っていたのだろう。私は膝で立ち、思わず彼の頬に手を当てた。彼が少し辛そうに、そしてそのような表情を見せたことを悔いるように、困惑した表情で私を見下ろした。 「才四郎。私は……あの夕顔様とのことがあったあの夜。あなたの頬を打ってしまいました。確かにあの時はとても悲しくて、辛くて、怒ってしまって……。でも部屋に帰って一人になって、湧いてくるのは、感謝の念と、あれは何かの間違いであったのではないか、という疑念ばかりでした。あなたを憎めなかったのです。きっとあのとき既に私は、貴方が大切で、大切で。深く愛していたのでしょう。だから着物を置いていったのです。憎んでいたらそんなことなど出来ないはずです」  そういうと、才四郎は小さく頷いた。そして私が頬に当てている手に自らの手を重ねる。目を閉じてそっと私の掌に頬を寄せた。 「あの日から、ほんとんど寝れていないのですか」  私はもう一度彼に尋ねた。彼が目を開けて小さく頷く。 「いや、寺では、ひなに眠り薬を漏られて寝ることがあったのだが。寺を出てからは……な……」 「私が傍にいれば寝れるのですか」  先ほど、私の側で座ったまま仮眠をとると聞いたのを思い出して、再度尋ねる。 「小春の姿が視界に入っているか。もしくは小春の呼吸が聞こえれば寝れる」  彼の言葉に私は頷いた。そうであるなら。私は彼から離れると、自分の布団に戻った。そして右半分ほど空間を開けて詰めて彼を見上げた。 「なんだ?」  訝しそうに彼が私を見下ろす。  「何度もいうが、成人していない娘には手は出さんぞ」  実を言うと……。懸念事項と言えばこれもそうなのだが、私は彼とまだ男女の仲になっていない。父母、兄、梅が存命であったとするなら、婚姻前に男性と関係を持ったことが知れたら、それが例え数ヶ月後、夫となる男性であったとしても恐らく昏倒するほど驚き、ひどく叱られる筈だ。しかし今となっては私には両親も兄も、彼女もいない。それに叔父上もあの手紙の調子では、特にそうなったとしても、どうこう言うことはないだろう。むしろ、けしかけている感さえある。  ひな様が寺を出る前に言っていた。「男女間の営みには、長年の経験から女性に美容の効果をもたらすと思っています!」 彼女はそう豪語した。で、あるからして、「数ヶ月後、夫になるのだから、もうあまり気にせず一緒に寝てしまった方が、これからの季節も暖かいし、良いはずです、おすすめです」と。もしかしたら彼女は彼の不眠の改善策として、そう私に言ったのかもしれない。  このような時代である。  女性にとって、最愛の人と、最初に結ばれるということがどれだけ尊く、幸福なことであるか、男女のことに疎い私でもよく分かっている。そうであるから、私は彼が望むのであれば、婚前前でもーー少しも怖くないと言ったら嘘になるがーー、そう言う関係を持っても良いと思うのだが……。  しかし彼は、いつもそのような話になると、成人していない子供に手を出さない! それは自分の信条だからして曲げるわけにはいかない! と頑なに拒むのである。だいたい女の魅力のないこどもに対してそんな感情など起きない。とまで捲し立られる。魅力がないと言われてしまうと、私も反論できず、そうですか、と黙るしかない。成人まであとひと月と少しである。そのような短い期間に、私に女性の魅力とやらが備わるのだろうか。 ……それはそうとして。  私は首を振った。私がそのような振る舞いをしたのは、男女の営みをしようとした訳ではないからである。 「才四郎。言っていなかったかもしれませんが。私の兄の行信はあなたより一つ上、ほとんどあなたと同じ年齢だったのです。私は小さい頃、怖い夢をみた夜などは兄にせがんで添い寝をしてもらっていました。兄が隣に居てくれるだけで、安心で私はよく寝れたのです。才四郎。あなたがその……嫌でなければ」  才四郎が口を閉じて私を見つめた。私の瞳を通して私の真意を確認するかのように。そして私が避けて空いた褥の空間を見つめる。しばらく間があったが……彼はこちらへやってきてくれた。照れくさいが、とても嬉しい。私が横になると、彼も横になった、掛け布団をかけて私たちは仰向けに、一つの褥に収まった。温かい。鼓動が早鐘のように打ち始める。それを気づかれることが恥ずかしくて。私は一度深呼吸して、息を整えてから、首を彼の方に傾けた。彼は仰向けのまま全く動かない。 「才四郎」  嫌なのだろうか? それともあまりにも、はしたない発言に愛想を尽かされてしまったのか。私はふと怖くなり彼の名を呼んだ。彼がそのままの姿勢で目だけ動かして私を見て、口を開いた。 「気が張っているのだ」 「え……」 「小春。お前今、あれほど女人と寝たことがあるのに? と思ったな」  思わず考えて居たことを、そのままずばり彼に言い当てられ私はいい淀んでしまった。旅の途中でも彼は私を守るために。女性と夜一緒にいることが多かった。それ以外にも出会う前に夜を共にした女性にも数人、私は出会っている。だからこそ気が張ると言った彼の言葉が不思議だったのだ。私は動揺を悟られないように、小さく首を振った。 「いえ」  とは言ったもののお見通しである彼は、小さくため息をついた。そして口を開く。 「何度も言うが……心から愛しい思っている女人と、褥を共にするのは初めてだからな」  私は小さく頷いた。才四郎も答えるように少し笑った。彼がそのように思ってくれることが素直に嬉しい。 「才四郎……すみません。あなたが悩んでいることに気づかなくて。自分の気持ちばかり押し付けてしまいました」  私は寝返りを打ち、彼を見たままそう言って目を閉じた。私は恋や愛と言った言葉に舞い上がっていただけだ。本当に愛する人を思いやってこその愛情である。その基本的な気持ちを忘れて居た自分が情けなく、たまらなくなって私はそう呟いた。才四郎が私の方へ向き直ると大きく首を振る。 「小春……いや、謝るのは俺の方だ。小春を悩ませてしまった。俺の方がよっぽどやきもち焼き。いや、嫉妬深いというべきか。とにかく、そうなのだ」  そう言うと彼は再度天井に視線を移し、手の甲を額に当てて続ける。 「本当はお前がなぜ悩んでいるか、昼間からわかっていた。だけどやきもちを焼いてくれたことが嬉しくてな。ついつい町娘と長話をしてお前を困らせてしまった。お前の気を引きたかったんだ」  私の気持ちに気づいていた? 驚いて彼を見つめた。そのまま彼は続ける。 「そもそも。顔の包帯の件も。実を言うとひなに、ある程度旅を続けて問題なければ取っても良いと聞いているんだ。しかし、俺は……その……お前の美しい姿を他の野郎共に見せたくない。だから、安全のためとかこつけて」 彼は弱り切った表情で私を見つめる。 「今度、何か嫌なことがあったら、俺の手を引いてくれ。誰にもわからないようにそっとでいい。すぐにその場を離れる。嫌な思いをさせてすまなかった」 私は自然と自らの口許がほころんでいることに気付いた。今なら先ほど彼がにやにや笑っていた理由がわかる。愛する人が自分のことを特別だと思ってくれている。そして誰にも取られたくないと感じてくれる。それがどれほど嬉しいことなのか。 「自分がやきもちを焼いているときは、とても辛いのに。大好きな人にそう言われると、なぜか嬉しく思ってしまうものなのですね」  私がそう言うと彼は頷いた。許してくれるか? と言う彼の小さいつぶやきに、私は、もちろん、と微笑みながら返す。 「才四郎。今まであなたを旅の途中たくさん困らせてしまって、本当にすみませんでした。でももう。もう私はあなただけのものですから。安心してくださいね」 「ありがとう。俺もそうだ。旅の途中で、お前を困らせたのは同じだ。俺ももうお前以外の誰かなど、考えられんし。絶対にない。隊も抜けたしな。だから安心してくれ」  私はそっと左手を掛け布団から出した。 「手を繋いでもよいですか」 才四郎が笑いながら同じように片手を出して、そっと私たちは、指切りをするときのように手を繋いだ。 「温かい……」 「お前はすぐ体を冷やすからな……ほら。しっかり握れ。温めてやる……」  私たちは固く、指を絡め手を繋いだ。 「これなら、私がいなくなればすぐ分かりますよね」 「ああ。わかる」  「ずっと。私だけを見てください。そしてずっと一緒に居てくださいね」  私は彼をまっすぐ見つめて言った。 「勿論だ。小春もそうしてくれ。ずっと傍にいてくれ」  彼の瞳の中にある星を見つめる。ああ、今宵も彼は私を変わらず深く愛してくれている。 「はい」  私は強く頷いた。才四郎が少年のように、心の底から嬉しそうな、無邪気な表情で笑いかけてくれた。 「才四郎……寝れそう……ですか?」  しばらく彼の温もりに蕩けそうになりながら、私は思わず眠ってしまいそうになり……気を振るい立たせて目を開いた。とにかく彼がきちんと眠れているかどうかを確認するまでは、落ちるわけにはいかない。  ふと彼の方を見る。寝息……だろうか? 規則的な深い静かな呼吸が聞こえて、私は暗闇に目を凝らした。彼は既に私の方を向いたまま、あどけない寝顔で寝付いていた。そういわれてみれば、旅をしてこの方、私はこのような安らかな彼の寝顔を見たことがなかった。いつものような飄々とした彼も楽しいが、このように自然に穏やかに眠っている彼も、子供の時の表情を見ているようで可愛くて、愛おしい。私も彼にそのように思ってもらえる寝顔であればいいのだけれど……。  そんなことを思いながら、安堵しつつ。段々と眠くなり……閉じかけた瞳の向こうに、閉め忘れた障子窓の隙間から、静かに零れ落ちる月影に照らせられた萩をみとめた。ああそうだ。萩にはこういう歌もあったなと思い出しながら……気づいたら自らも眠りについていた。 萩の花 咲きのををりを 見よとかも 月夜の清き 恋まさらくに  梅が好きだった万葉の萩の歌を思い起こす。  あの日から私たちは、ずっと一緒に眠っている。萩の季節が過ぎてからもずっと。萩は枯れてしまったが……私の恋心は、月明かりに照らされた、彼の可愛い寝顔を見るたびに、募っていくばかりなのである。

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