戴冠、或いは暁を待つ | 終章:物語の終わり
かなた

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「して、ルカよ」  東の空にようやく月が見えたころ、クロイツはいつもの調子でわたしを呼んだ。  星を数えていた目を瞬《またた》かせ、わたしはそっと彼のほうを見る。 「おまえは王になるべきだ」  なぜ、と彼は言わない。だからわたしも、なぜ、とは問わない。  かわりに口の端を持ち上げて、困ったような笑みを象《かたど》る。対してクロイツはそのましろの手で、軽くわたしを手招いた。  応じて身を屈めた刹那、襟首を掴んで引かれる。  ――吐息がかかるほど近くで見れば、彼の瞳は思ったとおりの色をしていた。これと同じ色もまた、宝石の女王の持ち合わせにはあるまい。  そこに映るわたしの顔は、なぜだか泣き出しそうな様相に見えた。ひどい顔だと思ってしまったのも、なにもわたしの錯覚ではないはずだ。  そしてさらに言うのであれば、金の輝きを横切った黒も、同じく。  わたしからなにか声を上げる前に、クロイツはひとつ鼻を鳴らした。そして、わたしの肩を押す。座しただけの姿勢を取り戻したわたしの顔を、彼はどんな顔だと思っただろう。 「おまえは王になれる。母親を王宮から追い出して、正しい国を作れる。間違いなく、この俺がそうしてやる」  目の奥がひどく痛かった。「なにせ俺にはもう後がねぇんだ。その土壇場で俺にはおまえしかいねぇんだぜ、ルカ」後がないと言うのなら、彼は一路王都を目指せばよいのだ。そうして王宮の門を敲《たた》き、わたしの弟を王位に就ければいい。なのに彼は、わたしを唯一であると宣《のたま》う。かくも残酷な言葉が、この世にあるだろうか。 「もしわたしがきちんと自分の獣を選べるなら、君のことだけは選ばなかった」  わたしにだって、選びたい選択肢があった。  それでもクロイツがわたししかいないと言うのなら、わたしにもまた彼しかいない。それ以外の選択肢は、もはや遥かな遠きに過ぎる。 「……わたしは君の王になるよ。次のことなんて知るもんか」  獣は嘘をつかないが、ヒトは嘘をつくものだ。だから、溢れてきた涙の理由は知らないことにする。久方ぶりに声を上げて泣くわたしの横で、今度はクロイツが星を眺めていた。 ***  月がようやく中天《ちゆうてん》に差しかかったころ、ようやく流せる涙がとだえた。実際は早々に涙など枯れていたけれど、ようやく泣こうという気が失せたのだ。  そこに至ってようやく、わたしは改めてクロイツを見る。その視線に気づいたように、彼もまたわたしのほうに目線を移した。 「契約を、」  ヒトと獣は、幾ばくかの儀礼的な事項を以て契約を交わす。それを事務的なことと呼んだのは、たしか先生であったはず。 「……しないといけないだろ」 「そういえば、そうね」  クロイツは起き上がらなかった。親指の背で顎を擦って、心底面倒くさそうな顔をする。 「となると、俺もいよいよ真《しん》名《めい》を名乗らんといかんのだなぁ」  イラテアやユードヴィールがそうであるように、獣たちは長い名前を持っている。たとえばユードヴィールであれば、いつかクロイツが呪文のように唱えたものがそれだ。それは別段秘されたものでもないのだが、用途は契約に使うくらいしかない。 「……俺、自分の真名ってめちゃくちゃ長いから嫌いなんだよね」  真名を名乗った獣に対し、ヒトの側はもうひとつ名を与える。  よって、クロイツが名乗らなければ、わたしは永久に彼との契約を交わせない。 「たまに噛むから、一回で覚えてくれる?」 「努力はする」  ならよし、とクロイツは言った。そして剣を抱えるようにして、腹の上に両手を置く。 「我が母より賜りし名を示す。 〈極点《きよくてん》に座《おわ》す白星《しらほし》、総《すべ》ての道を示す者。黎明に座す明星《みようじよう》、始めと終わりを絆《ほだ》す者。蒼天に座す距星《きよせい》、定めと法を計る者。薄明《はくめい》に座す連星《れんせい》、すべての言葉を言祝《ことほ》ぐ者。仰げ、畏《おそ》れよ、祈れ、満ちよ。此《こ》れは七《なな》夜《や》を繋いで駆ける星、祈りの器、刹那を結う白の火〉である。――終わりがわかりにくいから、呼ぶときはさんを付けろ」 「うん、……うん?」  わたしはなんとはなしに、ユードヴィールの厳《いかめ》しい顔を思い出した。それから、見たこともない彼の令《れい》室《しつ》の姿を想像する。  獣の名は長いほうがよいと聞いたが、それでも限度はあるだろう。  指折り音を数えようとしたものの、冒頭はすでに記憶の彼方にある。なのでわたしは肩を落として、彼の名を復唱することを諦めた。名の復唱など、そもそも契約の儀式に含まれていない。 「……よくわからなくなったから、」  偉大なる竜《アデライード》を〈玄冬《げんとう》の君〉と呼ぶのに倣《なら》い、ヒトが獣に与える名もまた〈何《なに》某《がし》の君〉とするのが慣例である。  何某の部分には真名に絡めた言葉を入れるのが一般的であるが、それを考えるためだけに反芻するのも馬鹿馬鹿しいと思えた。 「真名からは取らずに、見たままの名前をつけるね」  世の中には、真名に掠りもしない名の獣などごまんといる。  クロイツもまた、それを嫌だとは言わなかった。嫌だと言われても、聞き入れるつもりはなかったが。 「 〈計都《ながれぼし》の君〉 」  なにせわたしは、彼に与えるべき名をすでに決めている。  わたしの裡から出た言葉は、あの日の歌と同じように、途切れることなく風に乗った。  応じてクロイツは、音もなく体を起こす。わたしがつけた名前については、気に入ったとも気に食わないとも言わなかった。  金の瞳で東の空を眺めて、ましろの獣はぽつりと言葉を吐き出す。 「――おまえさ、朝焼けって見たことある?」 「……ないなぁ」  この国は北の最果てにある。ゆえに、月日の廻《めぐ》りは異国よりもいくらかゆるやかだ。夏は夜に沈むことなく、冬は黒の帳の下に沈んで季節の終わりを待つ。だからこの国では、夜が明けるという事象の回数自体がけっして多くはない。あげく、朝方の空は雲をまとっていることも少なくないと来ている。  だから別にわたしでなくとも、朝焼けを見た経験のない者は多いだろう。 「あれさ、暗い空が急に明るくなってさ、目が醒めるような色になるんだよ。剣を作るための鋼っていうのは、そういう色の火から生まれる。……沸き花っていうんだけどな」  けれどわたしは幸いにして、夕焼けというものを見たことがあった。だから、クロイツの言う光景は容易に想像ができる。あの東の山々から登る日が赤く染まり、天蓋から夜の一切を払うのだ。きっとそれは朝の中にあってなお、夢のような光景であろう。 「俺、あれが好きなんだよね」  語る声音は、ただただ明るい。 「だからおまえは、先生とやらから朝焼けを諡《なまえ》にもらうといい。そうしたら、俺は最果ての御方に、誰よりうまくおまえの話を語ってやるぜ」  ――戴冠の儀は白夜のはじめ、長い昼を告げる朝焼けの中で行われる儀礼だ。あけいろの日差しを受けて王冠を戴き、いずれ来たる日のための諡《な》を受けて、わたしたちは王になる。  その日を目指して馳せた王であれば、朝焼けの諡はなにより相応しくあるだろう。だからわたしは、ひとつだけ、深く深くうなずいた。  クロイツは本当に楽しげな様相で、剣を抱え直して後ろへ倒れ込む。 「それさえ約束してもらえりゃ、後はいつ死んだって楽なもんだ。なにせ俺はおまえの物語の終わりを知ってるからな」 「……それは、わたしがここで聞いても?」  今度は白い獣がうなずく番だった。彼はその美しい面に晴れやかな笑みを浮かべて、囀るにも似た声音で告げる。 「物語の終わりってやつは、いつだって相場が決まってる」  獣たちは嘘をつかない。だからきっとわたしの物語は、彼が言うままに終わるのだ。 「たったひと言、これで終わりだ」  それを聞くことに一切の後悔はなかった。それを抱えて、わたしはここで朝焼けを待つ。  ともすればもう二度とともに見ることがないものを、ともに見ることができればよいとだけ思った。  そんなわたしの意を知ってか知らずか、わたしの獣は、朗々と物語の終わりを告げる。だから、わたしも同じ言葉を綴ってペンを置こう。 「――――めでたし、めでたし」

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