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「駄目だな。非常に残念なことに、俺も王の獣になりたい」  魔術師であったはずの獣は肩をすくめた。わたしはその言葉にどきりとする。  獣は嘘をつかない。つけない。  わたしの呼び声に応えると言ったクロイツは、わたしに王になれと言っていたのだ。 「死んだ親友との約束でね。だから、ここであいつに死なれるのは困る」  俺が、おまえを王にしてやると。 「魔術師紛いの軟弱者がよく言う。王の獣は剣など取らない」  ハイロはわずかな唸りを漏らした。続く声音は大きくはないが、咆哮などよりよほど腹の底へ響く。 「おまえはよく知っているだろう」  対するクロイツは目を眇《すが》め、つまらなそうに鼻で笑った。 「まぁ、親父はよくそう言ってたね」  ついで彼はなにかを手招く所作をする。それがわたしを呼ぶものだと気づいて、アマリエを置いて勝手戸を潜った。  いつしか月はふたたび雲の向こうに隠れて、剥き出しになった肌には雪が当たった。  そうして近づいて来たわたしに対し、クロイツは一瞥をくれることもない。自分が呼んだ以上、わたしが来るのは当然だと言わんばかりの態度だった。 「獣はその身ひとつで王を護るものだから、武器を取るのは軟弱なんだってな」  かわりに彼が投げてよこしたのは、唯一の荷物――コウが打ったという剣である。慌てて両手で抱き留めた剣は、装飾すらない真鍮の鍔を中ほどに据えてあった。つまり全長の割に刃は短く、柄が長い。これならば、クロイツの腕であっても抜き打ちは容易だろう。  もっとも、技術が追いつくならば、という条件はつくが。 「いいぜ、相手してやる。俺に勝ったらルカのほうは好きにしな。アマリエは見逃せ」 「……わかった」  ハイロもまた、わたしを見ることはなかった。そうしてわずかに俯けた顔を上げたその姿は、もはやわたしの知らないものだ。  ただしそれは、単純にわたしがハイロの本性を見たことがないからではない。  彼の見た目が、如何なる獣とも異なるからだ。――四肢は獣。顔はヒト。尾はなく、結われていたはずの髪は解けてざわめく。  また白く視界を遮り始めた六花《りつか》を散らして、まがいものの獣が奔《はし》る。対する本物の獣は雪より白いヒトの姿だ。  そもそも彼の本性は梟なのだから、殴り合いには向いていない。有利不利など考えるまでもなく、あの姿で向かえ撃つよりほかにないだろう。  振り下ろされた拳を避け、クロイツは月色を落とした色の双眸を細める。 「おまえはよく頑張ってたと思うぜ、ハイロ」  ささやく声音はひそやかに、けれどもたしかな憐憫を含む。雪の合間を縫うように下がる彼を追い、ハイロはひと跳びで距離を詰めた。 「おまえの真似《フリ》は上手だった。ルカさえいなけりゃ、俺だって永久に気づかなかったさ」 「光栄だな」  灰雪を散らして迫る拳に、クロイツは半身を退くことで対処する。そのまま彼は姿勢を低めて相手の懐へ飛び込もうとしたが、これに対してはハイロのほうが厭った。クロイツはそれでもなお食い下がるべく足許を蹴り、伸び上がるように靴裏を前へ叩きつける。  続けて鈍い音が聞こえはしたが、これはハイロが蹴撃を腕で止めたせい。――獣は得てしてヒトより強いが、それには「見た目よりも」という枕詞がつく。  上背があり、なおかつ混血のハイロが相手なら、華奢なクロイツは分が悪いのだ。 「というか俺、おまえに殴られたら普通に死ぬしな。おまえのほうがらしいよ」 「俺の母親もそんなことを言っていた」  なかば獣、なかばヒトの姿のまま、ハイロは肩をすくめる。 「ちなみに魔術が鑢《やすり》みたいなもんだってのも、お袋さんの受け売り?」 「そう。もっとも、それ以上は聞けなかったけどな」  なるほどと応じたクロイツは、拳を握らない。かわりに繰り出されるのは二指《にし》を揃えた貫手の一撃。それを裏手で往《い》なしたハイロの横顔に、素早く握られた逆《さか》手《て》の拳が突き刺さる。  しかしながらハイロは怯まない。呼気とともに薙ぎ払われた爪は、逆にクロイツのほうを退かせてみせた。風切り音に重なるように、おかあさま、と呼ぶハイロの声が脳裏を過《よぎ》る。  おかあさま。あれはわたしが母を呼ぶ声に似ていた。  その響きを思い出してみると、ひどい頭痛がした。  言葉を交わすことなく組み合った二頭の獣が揺らいで見えたのは、なにも雪煙のせいではないだろう。ハイロは未だ父を呼ばない。それはひょっとすれば、彼が―― 「ルカさま、アルトゥールがいません!」  アマリエの叫びに、わたしは頭《かぶり》を振った。イラテアやユードヴィールならまだしも、クロイツはハイロの拳の一撃で死ぬのだ。  上からの弾丸など、浴びればひと溜まりもあるはずがない。だから彼は確実を期して、銃弾を斬って捨てるような真似をした。 「アマリエ、ここにいて」  わたしは駆け出す。  あの小銃の装填にどれほど時間がかかるが知らないが、とにかく間に合ってくれと心の底から祈った。祈る先は、先に祈った相手と同じ。もしもこれが叶わぬならば、二度と祈ってやるものかと心中で毒づいた。  幸いにして、死体は建物の入口側に集中している。踏み越える手間がかからないのは、今でこそ単純にありがたいばかりだった。  そしてもうひとつ幸いだったのは、わたしの手中に剣があったこと。階段を登りながらその鞘を払って投げ捨てる。鞘走りの音は、場違いなほどに軽やかだった。  ここに至ってはじめて目の当たりにした剣の白刃は――コウが打ち、クロイツが折り、ラリューシャが繕った刃は、薄明の中でもわたしの顔を映す。  刃紋に歪んだ顔は、まるで知らない誰かのよう。思わず窓を見やったが、そこに自分の顔は映るものはなにもなかった。  視線を落とせば、雪にまみれた硝子の向こうで、未だ二頭の獣が争っている。霧雪と風花《かざはな》に蹴り立てられた雪が混じり込み、戦況まではわからない。  ふたたび覗き込んだ刃の中の誰かは、花緑青《はなろくしよう》の目で笑っているようにも見えた。 「アルトゥール」  けっして重くはない長剣の柄を両手で掴んで、わたしは曲がり角を飛び出す。  片眼鏡の書記官は結局のところ、わたしに撃たれたおかげで思うように動けないでいるようだった。たとえ皮膚と肉を突き破ることがなくとも、銃弾が当たった打撲はそれ自体が相当な痛手なのだ。 「銃を捨てなさい」  その証拠に、アルトゥールはまだ銃弾を詰めることができずにいる。こうなってしまえばもはや、どちらの一撃が早いかなど自明の理だった。彼は最後に深々と息を吐いて、手にした小銃をこちらへ投げてよこした。  わたしはそれを曲がり角の向こうに蹴り飛ばし、開かれた窓から外を見る。  まるでわたしを待ち構えていたかのように、悲鳴がした。  そして見間違いでなければ、たしかに赤い色が雪煙の中に尾を引いた。  にわかに薄まった雪《ゆき》帳《とばり》の向こうで、蹈鞴《たたら》を踏んでハイロが下がる。目元を抑えたその手の甲に、青黒の獣毛など影も形もなかった。 「まだやるか」  クロイツは肩で息をしながら、それでも構えを解かない。 「次は殺すぞ」  降り積もった雪の上には、点々と赤色が散っている。そのけざやかな色彩に、わたしはなにが起きたかをはっきりと悟った。  いかに殴り合いには向かないとはいえ、クロイツにもまた獣としての本性がある。黒曜石にも似た爪を備えた、梟の姿が。――彼は瞬きほどの刹那に変化を解いてその姿に転じ、鋭利な爪を以てハイロの目を引き裂いたのだ。  目元を抑えたまま、ハイロは首を振る。  この二階にも聞こえるほどの獰猛な唸りを上げ、蹌踉《よろ》めきながらも前へ進もうとする。対峙するクロイツは今度こそしっかりと拳を握ったが、それが暴力のために振るわれることはなかった。  理由は明白、広場のほうで青い炎が上がったせいだ。 ……あなたたちは終わりだよ」  月明かりよりも煌々と照る炎が雪を舐め、それを逃れた白花《びやつか》が嵐を模して渦を巻く。この西方の街を治めるあるじ、エクリールの帰還である。  いかなる方法でそれを悟ったか、ハイロはひと息に、炎から離れた塀の上へと跳躍した。  クロイツだけであれば彼の手で下せた可能性もあろうが、エクリールが戻って来たなら話は別だ。かつて〈銀の壁〉に立ってこの街の営みを守ったあのひとは、おそらくもっとも偉大な魔術師の手にさえも余る。  青火《そうか》に追われて塀を下るその前に、イロは月のあるべき方角へ向かって吼えた。  長く長く音を響かせたそれは、わたしがはじめて聞く声だった。けれども終わりは雪風《ゆきしまき》と炎に巻かれて、一切の余韻を残さない。      この夜捕らえられた〈内通者〉はアルトゥールを筆頭に八名。死者まで含めれば、その数はおおむね倍となる。  彼らの調書を幾たび捲っても、インクの海にハイロの名を見つけることは叶わなかった。

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