36

「応《こた》える」  鈴を転がすような声がして、ハイロは顔を上向けた。それを追うように、わたしもまた銀の名を冠する断崖めいた壁を見上げる。  ――目が合った。高い高い壁の上、たしかに、わたしと。 「応えるよ。なんだ、他人《ひと》様のこと呼びつけといてその間抜け面」  美しいばかりの黒い瞳が、影になってなお白いかんばせによく目立つ気がした。ましろの外套の裾が風を孕んで、壁上を踊るように泳いでいた。 「おまえ、前から思ってたけどさぁ、やっぱり馬鹿なんじゃねぇの」  あれは獣を呼ぶための詩だが、わたしはあれを、この数日をともに過ごした魔術師へ助けを乞うために使ったはず。  なのに、どうして。 「口を慎みなさい、クロイツ!」  困惑から抜け出したのは、アマリエが一等早かった。今にも噛み掴んばかりの彼女の声にひとしきり笑ってみせてから、黒いまなこがハイロを見る。ついで、領主邸の跡地に集《つど》った一団を。 「その馬鹿ふたり、殺したいなら殺してもいいけど」  最後に、宿舎の中に残ったアルトゥールを。 「殺したら最後、どこまで逃げても絶対に追い詰めて殺すからよろしくな」 「……どうしておまえがここに来られる、クロイツ!」  ハイロが叫んだ。ああその件ねと気安く笑い、魔術師は首許に手を伸ばす。 「飛んで来た」  ヒトと獣の混血でありながら、ハイロは猫のように大きく目を見開いた。 「おまえは魔術師だろう。エクリール卿の、雇われの……」  その視線の先で、白《しら》魚《うお》の指が外套のフードを留めた紐を解く。 「なんて言うかさぁ、みんな馬鹿のひとつ覚えみたいにそう言うんだよな」  続けざま、同じ指がフードの縁を摘んだ。  精緻な刺繍に触れる所作は、普段よりほんの少しだけ柔らかに見える。いつもと同じ黒いまなこでわたしへ笑いかけ、黒髪の魔術師はひと息に布地を後ろへ払った。  そうして月の明かりを撥ねた髪は、 「でも俺、一度だって自分のこと魔術師って言ってねぇんだぜ。思い込みって怖いよな」  わたしが十七年の間に見たどんな雪よりも、白い。  にわかにアマリエが悲鳴によく似た短い声を上げたが、わたしは驚かなかった。なぜなら彼はあの詩に、たしかに応《こた》えてみせたのだ。 「ま、ちょいと小細工ができる程度には、ほかの連中より化けるのが達者なんだがね」  風に踊る外套の色は、黒。金《きん》糸《し》の霜華《しもばな》が変わらずその裾を彩る。  彼がここまでけっしてあの外套を脱がなかったのは、なんのこともない、髪の色をそちらへ映していたせいだろう。そしてそれとは真逆に、自身の髪には外套の黒を映していた。 「改めて名乗る必要もないとは思うが、念のために教えてやろう。俺はめちゃくちゃ親切だからね」  彼が軽く足許を蹴ると、長細い影が空を舞った。  積もった雪片が飛ぶのとは異なるその影は、わたしが昼間に運んだ荷物の長さとよく似ている。けれどもよくよく見れば、それはけっして影などではなかった。 「〈宵《よい》守《もり》の君〉の子、クロイツだ。気軽にクロイツ兄さんと呼ぶことを許すぞ」  鞘も柄も影の黒色だが、鍔《つば》だけは鮮やかな金の色。ましろの手でそれにほど近い位置を掴んで、クロイツは中空の剣を手に取った。  生き甲斐と呼び、コウというひとの最後のひと振りだと言った、あの剣を。 「構うな、呼ばれて来ただけだ。契約も抜きになにができる!」  アルトゥールが叫ぶ。 「王都についたおまえらが、ここに来て後戻りなどできると思うな!」  クロイツは彼の姿を一瞥した。その視線を追いかけて、ああ、とわたしは考える。  アマリエがハイロへ貸し出している本は、彼が選んでいるのだと言った。そして本を仲介するアマリエは、その内容を明確に理解できない。中の書き込みを改めないわたしも合わせて、彼にとっては理想の伝令役であったことだろう。  今さら唇を噛むわたしの目の前で、クロイツはふたたび足許を蹴った。壁上から身を躍らせ、壁を蹴って遠くへ。  元が鳥であることを差し引いても、冗談のような身軽さだった。あれでは鍛冶屋通りの石畳も、細工師通りの手摺も、願かけになどならなかっただろう。  その体捌きを以て舞い落ちる姿は、白く尾を引く星に似ている。  夜闇を裂いて翔《か》け落ちる、ましろの流星。 「てめぇは後でぶん殴ってやるから覚えてろよ!」  美しい容姿に似つかわしくない怒号は、いつものように。  しかしながら降り立った後ろ姿は、もはや金の煌めきを連れていない。それはきっと、今は彼の瞳の裡《うち》にある。ただひたすらに、前だけを見るために。  彼からわたしに言葉はなかった。だからわたしも、どうにかなるのか、などと問うことをしない。いつもの調子を取り戻した頭で、ここから先の暴力が少しでも穏やかにすむようにとだけ祈る。けれども、その祈りがけっして届かないことを、わたしはよく知っている。  このたった数日で、そういうものだと理解してしまった。  クロイツは白いばかりの手に、友の作だという黒い剣を握り締め、ひと息に領主邸の跡地へ登る。そうして第一の犠牲になったのは、わたしたちにもっとも近い位置にいた男だ。低い位置から弧を描いた剣の鞘が、軍服に包まれた胴を殴打する。彼が反射として身体を折り曲げた矢先、同じように弧を描いた剣の柄が後頭部へと吸い込まれた。  次のひとりは帯びた軍刀を構えて飛び込んで来たが、クロイツはその一撃を鞘で防ぐ。その勢いを乗せて振り抜かれた一閃は、悪い冗談のように相手の身体を吹き飛ばした。横手の仲間を巻き込んで、軍服の姿が壇上より消え失せる。  ――覗いた横顔は、実に愉しげだ。それは暴力に慣れた者に特有の、容赦のなさの表れ。 「どうした、かかって来ないのか」  絶対的な力を振るう側の笑みであっても、彼の顔に浮かんでいれば、たちまち花祭りの乙女のものに似る。それはひたすら華やかであり、ただひとつの翳《かげ》りも持たない。  なにせ今日の彼がその手に掴んでいるのは、生き甲斐だとまで言ったあの剣だ。彼はあの剣のために未来の神官位を捨てたのだと、今ならわかる。  ゆえにわたしは、この凶行を止めようとは思わなかった。  かわりに思いを馳せたのは、かつて寝物語に聞いた英雄譚。あれはたしか雪を知らぬ異国の話で、身の丈を越す剣を携えた英雄王が、悪《あく》神《しん》を誅《ちゆう》した話であったと記憶している。  クロイツが携えている剣もまた、身の丈を越える長さだが、かの王が携えた剣とは趣《おもむき》が異なる。あれは勇猛さを示す記号ではなく、少女のような体躯を補う、彼だけのための剣だ。  四人目は、おそらく決死の覚悟でクロイツの懐へと飛び込む――猟兵たちですら踏み込めなかったその場所は、長《なが》柄《え》の得物を使う者には完全な死角と言えただろう。  しかしながらクロイツに慌てたふうはない。黒い裾を翻し、矮《わい》躯《く》は軽々と宙を舞う。一転した身体は地に落ちることなく、銃を構えたひとりの首に剣の鞘を絡めて、それを基点に鈍い不吉な音を立てた。  流れるような一連の暴虐に対し、もっともまともな判断を下したのは、上階から敷地を俯瞰していたアルトゥールだ。窓枠の揺れる音に応じて顔を上げれば、身を投げ出すようにして銃を構えた姿がある。  ここに至って幸いであったのは、彼の狙いがわたしたちではなかったことだろう。わたしはアマリエの身体を押し込むようにして、厨房の中へと退却する。  いっぽうクロイツは動かなくなった男の身体を蹴りつけ、領主邸の跡から追い出した。さらには石段を登ろうとした相手の顔面を柄頭《つかがしら》で打ち据え、骨の砕ける音を立てる。  そこまでの狼藉をやり尽くしてから、振り返った金の瞳が上を仰いだ。  月と星の輝きに似た光の色は、この血腥《ちなまぐさ》い場にあってなお、ひとの声を奪う優美さ。  されども残念なことに、持ち主はそこに嘲りの色を織り交ぜる。彼が口の端を吊り上げたのは、銃声とほぼ同時のことだった。さらには、きんと高く響いた鋼の音とも同時である。 「お祖父《じい》さまの、お祖父さまの大切な剣をあんなことに!」  白い獣はただ剣の柄に手を添えただけに見えた。けれども彼が成した成果については、アマリエの叫びが雄弁に物語っている。クロイツは、抜き打ちで銃弾を切って捨てたのだ。  ラリューシャはアマリエを孫ではないと言ったが、この子はどうしようもなく、あのひとの孫でしかない。その事実がおかしくて、わたしも無意識に笑っていた。  そんなアマリエは、わたしの腕の中でわなわな震えている。それも怯懦《きようだ》や恐怖からではなく、激昂から来る震えである。  そんな彼女の怒りと震えが収まる前に、邸宅跡の戦場には完全な決着がついた。それはすなわち、離反者側の敗走――逃げ去る軍装の背を、クロイツは追おうとさえしなかった。涼しげな顔で見送るだけだ。  そして、彼と同じく軍服の青を見送ったひとがいた。それまで棒立ちになっていた、ハイロである。  彼の上背を持ってしても、石造りの土台に立ったクロイツのほうが目線が高い。ゆえにその青黒の瞳は、夜の色を失った白い顔を見上げる。 「おまえ、俺のことは知っていたのか」  言葉は責めるふうではない。 「まぁね。気づいてすぐに言わなかったことについては、俺を恨んでくれるなよ」  気安い様子で応じて、クロイツは領主邸の跡の上を進む。出会いの日、わたしと並んでエクリールの許へ向かったときと同じように、駆けるのではなく、歩いて。  見下ろす側と見上げる側、獣とそうではないもの。わたしが見ていたはずの姿を真逆に転じて、両者はまっすぐに見つめ合う。 「それは別としてだな。俺はおまえのこと、割といい友達だと思ってたんだぜ」 「俺もだ。信じてもらえるかは微妙だけどな」  互いに笑い合う姿だけが、いつぞやと欠片も変わらない。耳朶を打つ笑声はどちらもひどく愉しげだ。 「……なぁ、クロイツ。後生だ、譲ってくれないか」  そうして最後に、変わらぬ調子でハイロが言う。

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