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 それをまとった獣が、呼びかけに応えてここにあった。ハイロ、とアルトゥールは吼えたのだ。  飛び降りて来た先は、城壁の上に繋がる階段の中腹。目眩《めまい》に揺らぐわたしの視界で、ひとつに結われた青黒の髪が、月明かりを撥《は》ねてかすかに揺れた。  その顔には煤のひとつもついていないし、喉鳴らしの音も聞こえない。  暗闇に光る瞳を見つめたまま、わたしは銃口を持ち上げた。 「どいて」  ハイロ。僕の友だち。  昼食を作る方法も、馴染みの店も、裏路地を歩く近道も、全部彼が教えてくれた。 「どきなさい」  ハイロ。――わたしはきっと、彼のことが好きだった。  同じものを食べたし、同じ店を使ったし、近道の中心はいつだってあの工房だ。  言葉とともに半歩下がって、撃鉄《げきてつ》を上げる。銃爪《ひきがね》に指をかけながら、これから撃つ弾がなにも傷つけないようにと祈る。  ハイロが一歩前へ進んで、わたしもまた一歩を退いた。  そこでアマリエに体が当たって、ようやく照門を覗く覚悟を決める。 「撃てるのか、ルカ。そんなに震えて」  照門越しに見た友人は、ようやく笑った。笑って、肩をすくめる。  わたしはなにも答えない。ただしっかりと奥歯を噛んで、銃床を体につける。かつて弟が教えてくれた、過《あやま》たずに撃ちたいものを撃つための、ちょっとしたコツだ。  ハイロはひとつ溜息を漏らして、領主邸の跡に顔を向けた。 「俺がやるよ。そういう約束だろ」  目線だけでうかがえば、石の土台には数人分の軍服の影があった。ならばここでわたしがハイロを撃っても、最終的な結果は同じだ。それでも銃口を下げる気にはなれなかった。 「意外とちゃんと構えられるんだな。……知ってたのか、俺のこと」  こちらを見る青黒のまなこは、困り果てたふうを隠そうともしない。  わたしは冷えた空気を深々と肺に吸い込んでから、銃を握る手にたしかに力を込めた。 「イラテア――〈花《はな》伏《ふせ》の君〉に聞いたよ。獣は王を見分けられるって。だから」  王の獣とは、王を守護するもの。  実態はともかく、その身は近衛のひとりとして、軍籍にあるものとして取り扱われる。ゆえにハイロが本当に軍籍を求めるならば、なんのこともない、在りし日の僕と契約を交わせばよかったのだ。そうして僕が王になれば、彼は晴れて軍籍の獣となっていたはずである。  もしも彼がなれと言うなら、僕は王になることを厭いはしなかったはず。  ――だからわたしは昨日、彼と言葉を交わした時点で、こうなることを心のどこかで確信していた。それでもなお今のわたしが冷静だと言うのなら、それは諦念のせいにほかならない。そして、諦念に慣れているせい。 「そうか、なるほど」  けれどもここに至って、ハイロは瞠《どう》目《もく》した。 「俺にはそんなもの見えてないって気づいたんだな」  感心したふうの声音は、どこかひどく遠く聞こえた。外套の裾を掴んだアマリエの手に力が篭る。  ――旧い獣が見えると宣《のたま》ったもの。まだ年若いあの獣がわたしの前に平伏した理由。  もしもそれが見えていないと言うのであれば、ハイロは。 「……そのあたりまで、おかあさまにきちんと話を聞いておくべきだったか」  彼は、エクリールと同じだ。  獣の血によって夢へ至ることのできなくなったヒト、ヒトの血によって零《れい》落《らく》した竜の裔《すえ》。  彼らはこの国においてけっして珍しい存在ではないが、契約の環《わ》から外れている。それゆえに彼らは、ヒトとも獣とも契約はできない。裏を返せば、彼らには必要がないから文字など見える必要がない。  だからこそ、エクリールが割《わり》符《ふ》の記名を頼ったように、ほかの情報によってわたしの正体を判別する必要がある。 「なぁ、ルカ。王妃様はよい御方だよ」  笑みで塗り固めて吐き出される声は、子どものものによく似ている。ストーやアマリエよりもうんと幼い、いとけないばかりの嬰児《みどりご》の声に。 「俺みたいな混ざりものにも、王宮での席を用意してくれると言っていた」  か細い声が紡ぐ言葉は、どこまで信じられるかわからない。 「それは、王の獣になれる席?」  けれどもわたしは、ここに至ってなお彼の言葉を信じたいと願っている。  軍人になりたかったという話。なれなかったという話。わたしになにかあれば許さないとクロイツに向けて告げた言葉。それらをひとつ残らず、どれもこれもを。  だからこそわたしが口にしたのは、一等口にするべきではない言葉だった。  思えば、エクリールの家のひとびとはこの国を愛しているけれど、彼らが王の獣になることはできない。ヒトと獣の混血はひとり残らず須《すべか》らくそうだ。――この世にただひとつある例外を除けば。 「そうだよ」  ハイロの顔は笑みを残したままだ。  ちょうどクロイツに馬鹿なことを言われたときや、師であるラリューシャが無理を言ったときの顔。 「王都からの客人の命ひとつで、それが買えるんだ」  もしも銃口を隔てた向こうにいないなら、わたしもきっと笑っていただろうと思う。安い買い物だ。わたしはそれを買ってやりたかったし、買ってやって喜ぶところを見たかった。  ――でも、とわたしは考える。  今は駄目だ。あいにくわたしは、アマリエをここへ連れて来てしまった。お飾りの王の獣を立てようとする企てを知ってい る者を、ここにいる人間が生かしておくはずがない。  ――だから、とわたしは銃を下ろす。  わたしはもうきっと、ハイロといっしょになって笑うことはない。 「……一発じゃ、どうにもならないね」  子どものような手伝いをして、床の上に広げた食事を食べて、あの工房を起点に裏路地を馳せたりしない。 「諦める。それに、僕は君を撃ちたくない」 「ルカさま」  顔を伏せれば、こちらを見上げる少女と目が合う。 「余計に怖い思いをさせたね。――ハイロ」  ハイロもまたすっかり困った様相でアマリエを見ていた。  名前を呼ぶと、彼は弾かれたように顔を上げる。助けを求めるようだと思ってしまったのは、きっと錯覚ではないはずだ。 「僕には家族らしい家族もいないんだけど、死ぬ前にいくつか言いたいことがあるんだ。少しだけ時間をちょうだい」  眉尻を下げた面は、雲間を縫う月明かりに照らされて、はっきりと見ることが叶った。彼は青い瞳で上を見ている。正確には二階の窓から顔を出す、アルトゥールの姿を。  ハイロの顔とは逆に、庭から見上げた書記官の顔は影になってよく見えない。ただわずかに頭の位置が上下し、ハイロはそれを了承と取ったようだった。わたしのほうに向き直った彼は、ひとつ深々とうなずいてみせる。 「ありがとう」  おかげでわたしは、微笑とともに銃《ひき》爪《がね》を引くことができる。銃声とともに抉《えぐ》られた雪が跳ねた。これで、銃はもうなんの役にも立たない。 「……ハイロは、ルカさまを殺すんですか」 「そうだと思う」  空の銃を捨て、雪の上に膝をついてみると、アマリエのほうが目線が高かった。今にも泣き出しそうな顔を見上げて、ゆっくりと目を細める。 「わたしがお祖父《じい》さまのところに、ルカさまを連れて行ったから……ハイロに、会わせたりしたから」 「だいじょうぶ、それとこれは関係ない話だよ。アマリエはなんにも悪くない」  袖口で目元を拭ってやると、娘もまたうんと幼い子どものように抱きついて来た。  その背中に手を回して、用意していた言葉をささやく。 「ねえ、アマリエ。……ここから先、わたしが言うことを絶対に口にしたらだめだよ」  アマリエが、肩に額を押し付けて来る。解かれた長髪を撫でてから、わたしはゆっくりと立ち上がった。  ――獣は嘘をつかない。  ――魔術師は嘘をつかない。  けれども、ヒトは嘘をつく。それが王であろうと、聖人であろうと、王女であろうと。 「聞きなさい、かつて形而下《この地》に在りしもの、|形而上の最果て《かたちなきものの地》へ去りし〈玄《げん》冬《とう》の君〉」  もっともわたしは、誰に何を言いたいとも明確に口にしていない。 「人の世に在りてルカ、玉座に在りてクレイゼラッド、汝の許に在りて四番目《セン》のアデル――善き語り部の王の裔《すえ》が命じます」  これを嘘だと言うのなら、語りかけたい相手が違うだけ。  驚いた顔をしてみせたって、そんなものは騙されるほうが悪いのだ。 「わたしの声を届けなさい」  アルトゥールが怒鳴っている。領主邸の上に集ったひとびとがハイロを見る。  ――当のハイロは喘ぐように口を開いた。僕と同じ嘘をつくエクリールがそうであるように、彼は嘘をつくことができるはず。  だがしかし、彼は王の獣になりたいのだ。  たとえその血に赦されていたとしても、獣たちができないことを成すには、心の壁があるのだろう。だから、わたしはそこにつけ込む。 「いずれこの身に王冠を戴く、王の娘が命じます」  ひどいやり口だと自嘲はしても、口から溢れる言葉は止まらなかった。  かつて先生から習った口上は、いつかわたしがクロイツの魔術を評したように、旋律を帯びた歌に似ている。  これは音の高低で言葉をつなぎ、ただの一音に複雑な意味を持たせる魔術の技法だ。いつかのクロイツが風を呼んだものと大した相違はない。そして同時に、魔術師にはなれない|王の血脈《わたしたち》が与えられた、唯一にして最大の武器。  形而上の最果てに去ったという竜だけが、これを言葉に解《ほど》く方法を持っていると聞く。  それが事実かどうかは知らないが。 「この名の許に番《つが》う者あらば、応えなさい!」  わたしは魔術師であった先生を、信じている。  それを追想して吐息を漏らしたことを、ハイロは言葉の終わりと見たようだった。なにかを断ち切るように頭《かぶり》を振り、一歩前へと進む。  でも、それで彼の歩みは終わりだ。続く二歩目はない。

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