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 雪明かりよりほかに頼るもののない薄暗闇は、虎たちの青黒の髪を彷彿とさせる。その色彩にもっとも親しい獣の姿を想って、僕はアマリエの手を引いた。今は鍛冶屋の見習いではあるけれど、彼はけっして弱くないだろう。どうしてもと言うのであれば、契約を以て外敵を退《しりぞ》けることもできるはず。  けれどもアマリエは、もう走ることなどできなかった。つないだ手はひどく震えて、歩けるだけでも恵まれたことだと僕は思う。とかく長く時間をかけながら、僕とアマリエは階段へと辿り着く。  階下からは怒鳴り声を含めた相争う音が聞こえて来たが、それはすぐに静かになった。銃を構えて下を覗くと、後ろ足を引きずりながら登って来る虎がいる。 「待て、待て、撃つな。……というかまず、こっちに銃口を向けないでくれ」  牙の並んだ口から漏れる声は、夕食のあとの食堂で聞いたものと相違ない。 「あなたは……」 「俺はあんたの味方……というかハーウェン大佐の味方だよ。あんたがアマリエを連れて逃げるつもりなら、その手助けをしたい」  獣たちは嘘をつけない。それでも僕はさんざん迷った末に、銃口を下げた。  黒にしか見えない尾を揺らしつつ、虎は残りの段差を登り切った。長い吐息とともに廊下に腰を下ろして、じっとアマリエのほうを見る。 「この娘《こ》は俺が乗せて逃げられりゃよかったんだが」  漏れる笑いは唸りのよう。尾の先で床を叩いて、深い青の目が階下を振り返った。 「なにせ急が過ぎた。……同じ宿舎に寝泊まりしてるやつらに、街の外と通じた連中がいたとは恐れ入ったよ」  今日まで宿舎にいた者は僕とアマリエ以外、全員があのエクリールの正式な部下だ。よく鍛えられた彼らにとって、ただの一撃で歩哨を下すことなど、造作もなかったに違いない。  あげく相手が昼間までの味方とあれば、討たれた側も完全に気を抜いていただろう。  せめて、そこに痛みがなければよかった。――僕は一瞬だけ目を伏せてから、獣の瞳を覗き込んだ。 「あなたの言うとおり、わたしはこの子を連れて外に出ます」  うん、と獣はうなずく。うなずいて、身を伏せる。 「夢見る言の葉喰《ぐ》らいの竜の御身にかわって、善き語り部の王の裔《すえ》、ルカが貴殿を祝福しましょう。どうかご武運を」  その口許から白い牙が垣間見えて、どうやら微笑《わら》ったらしいと悟る。  音もなく立ち上がった獣とわたしの姿を見比べてながら、アマリエは不思議そうに瞬きを繰り返した。そんな彼女の手を引いて、獣と並んで階段を降りる。 「ルカさま」  掴んだ手に震えはない。 「ルカさまは……」  ただ声音だけが、今なお迷うように揺れている。 「ごめんね、アマリエ。わたしがきちんと、先に話をするべきだった」  後悔をしていないと言えば、嘘だ。けれども後悔ごときで足を止めるわけにも行かない。  そう思った矢先に、階下で乱暴に扉が開く音がした。  にわかに滑るような足取りで以て、虎がわたしたちの前へと出る。彼の姿はすぐに階下の暗がりに溶け落ち、階段の木板を伝って咆哮と叫びが登って来た。  それが絶えるまでの時間は長かったような気もするし、短かったような気もする。 「いいよ、行って!」  終わりの合図を叫んだのは、あの若い獣の声ではなかった。アマリエの口から安堵に近い声が漏れたのを聞き取り、わたしは強く彼女の手を引く。  本当は抱き上げてやれればよかったけれど、あいにくそこまでの腕力はない。所詮は女の細腕の範疇だ。かといって、わたしの弟もまたアマリエを抱くことはできなかったはず。姉に甘えてばかりだったあの子は、いくつになっても弱かったから。  ――なかば無理矢理に階段を下り切れば、一階は錚々《そうそう》たる有様だった。ひとの身体が文字どおり落ちていたし、壁には顔料をなすったよりもひどい跡がある。行って、と言ったひとの姿は血溜まりのかたわらにあった。  彼は横たわる獣の隣で膝を折り、祈るように瞼を閉じている。その横顔には、一直線の眉尻の傷が目立っていた。  その姿を認めたアマリエは、なにか言いたげにわたしの手を引く。  けれども無言の拒否を示したのは相手のほうだ。わたしは素直にそれに従い、アマリエを連れて食堂へ向かう。  食堂の先、厨房には勝手口が付いている。出られる先からは宿舎の裏手が近い。  階段を使って壁を登り、適当なところで下ったら、後は市街を抜けてラリューシャの工房まで行けるだろう。幸いにして僕の頭にある路地裏の地図の中心は、あの鍛治工房だ。道に迷うことはありえない。ついでに運がよければ、壁上の見張りにも会えるはず。  けれど。  窓の開く音がした。縋るように窓枠を掴んだ片眼鏡の男が、あらんばかりの声で吼えている。  わたしはそれは言葉でさえなく、断末魔にも似た叫びであるとだけ思った。  もしもの仮定ではあるけれど、それに追随する事象さえ起きなければ、わたしは永久に彼の叫びの意味を理解することはなかっただろう。  しかしながら哀しいことに、わたしの頭は冷静だ。眼前で起きたことと、鼓膜に残った余韻の意味とを、嫌でも容易に結びつけてくれる。  ――雪をまとって夜が降る。月と雪雲を一手に抱《いだ》く、帳の色。

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