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 夜半、であるのだと思う。僕が、硬い床の上で目を醒《さ》ますに至ったのは。  目を開けてみれば、あたりはうっすらと明るい。眠っていたから目が慣れているのだろうかと思ったが、二重硝子の採光窓には雪片がついていた。それに当たった月明かりが、室内にほのかな光を落としているのだ。  そこまでをしっかり見届けてはじめて、寒いと思った。  しっかりと毛布に包まったまま身体を起こし、時間をかけて目を閉じる。耳を澄ませても物音はしない。雪の夜に特有の静けさは、呼吸の音さえ飲み込みそうな具合だった。 「……ルカさま?」  疑念に眉根を寄せたころ、寝台の上で身じろぐ気配がひとつ。アマリエだ。  僕は毛布を出て立ち上がり、彼女のすぐそばまで忍び足で歩いて行く。小さな体に触れてみれば、彼女は不思議そうに僕を見上げた。 「静かに」  耳許へ語りかけると、アマリエは体を固くする。けれどもなぜ、とは言わない。その姿勢にうなずいてみせてから、僕はふたたび耳を澄ませた。  ――僕はなぜこんな夜半に目覚めたのか。それはおそらく物音のせいだったように思う。  思う以上の確証が持てないのは、続く音がないせいだ。あれはけっして秘めやかな音ではなかったはずなのに。 「歩哨」  息がかかるほど近くで、少女がささやく声がした。 「歩哨がいないんです。だから、こんなにしずかで……」  言葉のかわりに首をかしげてみせると、彼女は吐息とともに力を抜いた。そうして手を伸ばして僕の耳に宛てがい、一層に小さな声を吹き込んで来る。 「夜はいつもいます。雪の日は寒いからずっと動いていて、その音がするはずなのに」  薄明かりの中、僕は強く唇を噛んだ。常日頃の寝付きのよさが恨めしかった。  領主邸はとうに焼け落ちてしまったが、この敷地には役所もある。そこで管理されているもののことを思えば、敷地にまったく見張りがいないなど、有り得るはずがない。 「アマリエ、」  また動きを止めた娘の頭を撫で、彼女の額に自分の額を押し当てる。  子ども特有の高い体温がじわりと染みた。それに促されるようにして、言葉をつなぐ。 「なにも言わずに、僕の言うことを聞いてくれる?」  首肯は、額に対する圧力として伝わって来る。それに対する安堵の息を零してから、僕は膝立ちになっていた寝台の上から降りた。  次に音を立てぬよう細心の注意を払って、クローゼットを引き開ける。 「これを着て」  僕は着道楽でも衣装持ちでもないけれど、幸い外套はふたつ持っている。そのうち色の淡いほうを差し出すと、アマリエはおとなしく腕を通した。彼女が袖を折るまでを見届けてから、ベッドの前で膝を折る。  ついで深呼吸をひとつ。  意を決して寝台の下に手を差し込めば、冷ややかな感触がそれに応えた。掴んで引き出すと同時、ベッドの上に座るアマリエが、鋭く息を呑んだ音がする。 「……僕の頭が吹き飛んだらどうするつもりだったんだ」  一気に引っ張り出したのは、装填に使う槊杖《こめや》と玩具のような飾り小箱。見た目の割に重い蓋を開けば、中には紙包みの薬莢が入っていた。  こんなものの隣で寝ていたのかと思うと空恐ろしいが、今は不思議と怒りが湧かない。  ――そうして最後に取り出したのは、燧石式歩兵銃《フリントロック・マスケット》。黒い外套を羽織ってから、その銃身に火薬と弾を込める。アマリエは口許を両手で抑え、じっと装填の動きを見つめていた。 「そんなもの、どうして」  ようやく放たれた声には、苦笑いを以て答えるよりほかにない。 「僕のものじゃないんだけどさ」  言葉は密やかに、できる限りは戯《おど》けて。  もっともわざわざ努めて口調を取り繕わずとも、僕の声は暗くはならない。  なにせ僕は、こいつを置いていった人間に心当たりがある。具体的には、ベッドの下に物を隠すような男――かつてのこの部屋の持ち主に。 「もう一度だけ聞くけど、普段は外に歩哨がいるんだよね」 「います」  アマリエはしっかりとした調子でうなずいた。けれども今、外に歩哨の気配はない。  その事実を胸に留めて、僕は大きくひとつ呼吸をした。  思い出すのはトゥーラの猟兵、ストーのことだ。彼が同僚である見張りを無力化したやり口を追想し、深呼吸をもうひとつ。 「……今から僕はそのひとの様子を見に行く」  次に僕は、自身の眠りを妨げた音についてを想う。音の主は、僕が硬い床の上で眠っていることを知っていただろうか。  そこまで考えると少しだけ笑えた。誰であろうと、王都から馬車でやって来た貴族の子息が、床上で浅い眠りを貪っているとは夢にも思わなかったことだろう。  いっぽうでアマリエは僕の顔を見上げて、ベッドを降りて来た。ついておいで、と口にすることはしないでおく。片手に銃を掴んだまま、僕は彼女の手を引いた。  足音を殺して扉に近づく。木の板に耳を当てて外をうかがうのは、いつか魔術師がやっていたのを真似た所作。僕には彼ほどの聴覚はないが、目を閉じて耳をそばだてれば、木製の扉は意外によく音を通してくれる。  聞こえる音で一番大きいのは、まず僕自身の鼓動。それから緊張で逸《はや》る音に紛れて、かすかに床が軋む音。  三度目の深呼吸ののちに、僕はアマリエの手を放した。銃の撃《げき》鉄《てつ》を起こす動きは久しぶりだが、これに手間取ることはない。 「みっつ数えたら、扉を開けて。……僕が呼ぶまでここにいるんだよ」  アマリエがうなずくまで待ってから、さん、と口を動かす。に、いち――僕の後ろから伸ばされた小さな手がノブを回す。そこから一拍の間を開け、靴裏で扉を蹴りつけた。  開いた扉が壁を叩き、思った以上に大きな音がする。  その向こうには、ただただ驚いた顔があった。窓から入る雪明かりに、片眼鏡のレンズが光っている。 「そこを退いてくれるかな、アルトゥール」  吐き捨てた声は自分でも驚くほどに低い。変なところで度胸がついてしまったなと、冷淡に嘲笑《わら》う自分がいた。 「撃てますか」 「撃てないと思ってるなら、その勘違いはすぐ正せるよ。やる?」  銃口の向こうで平素を取り繕い、片眼鏡の書記官は鼻で笑った。照門《しようもん》越しにその顔を見ながら、僕は一歩前へ出た。  背後から続く足音がないことに安堵しながら、さらに一歩。対するアルトゥールはレンズの向こうの目を細め、片手に提げていた銃を上げる。僕が構えたマスケットよりも、よほど取り回しがよい小銃だ。  僕は短く息を吐き、銃爪《ひきがね》にかけてあった指を引く。耳元で鳴る銃声はひどく大きい。反動で身体が跳ねて、僕のものではない悲鳴が谺《こだま》した。 「アマリエ、おいで!」  予想していた流血はなかった。火薬が悪いのか、銃が悪いのかは知らないが、銃弾はアルトゥールの軍服を貫くことができなかった。  でも、これは一種の幸いだ。ひとが死ぬというその瞬間を、アマリエに見せることがないままで済む。その事実に安堵しながら、扉からまろび出て来た少女の手を掴んだ。倒れ伏したままもがく男の隣を抜け、暗い廊下を駆け抜ける。  ――僕らがこの街を出た日、外には歩哨など立っていなかった。  それを思えば一等に疑って然るべきは、アルトゥールにほかならない。談話室で交わされた僕らの言葉を聞いていれば、理由をつけて歩哨を外すことは容易だっただろう。 「逃げた、逃げたぞ!」  血を吐くような、怨嗟にも似た声が背中を叩く。  振り返ろうとするアマリエの名を呼んで制し、角をひとつ曲がった。  そこでようやく、装填のことに頭が回る。ポケットに捩じ込んで来た紙製薬莢は、引き出す勢いでひとつが遠くへ転げて行った。どこまで行ったかは見えなかった。  がちがちと勝手に鳴る歯で、硝化《しようか》された包み紙を食いちぎる。焦って口の奥に入れ過ぎたせいか、舌先には潤滑用の固形油脂と薬剤が混ざった、塩漬けの脂身に似た味が染みた。 「ルカさま、あれ」  窓の外をうかがっていたアマリエが、そっと僕の袖を引く。応じて首を巡らせれば、硝子の向こうには鮮やかな朱が見えた。  僕の部屋があるのは宿舎の二階だ。その高さから見下ろしたその色彩は、雪上に刷毛で絵の具をなすったようにも見える。  すっかり青ざめたアマリエの頭を撫で、僕は銃を担ぎ上げた。 「お祖父さまのところへ行こう。……ハイロがいるから、きっとだいじょうぶだ」

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