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 灰色の塀の向こうには、馬が二頭いた。驚きつつ駆け寄った彼らの片方は、僕が出かける前からいた早馬。そしてもう片方は、僕も知っている馬だ。 「ノグ?」  それも、ずいぶんと前から。  呼びかけに応じて上がった顔の一部だけが茶色く、身体が白い駁《ぶち》毛《げ》の馬。じっとこちらを見つめる賢《さか》しげな目は、最後に会ったときとなにも変わっていない。 「やっぱりノグだ」  エクリールが所有する騎馬である。僕も何度か乗せてもらった経験があるし、弟を乗せているのを見たこともあった。  近づいていくと頭を下げて、耳と耳の間をこちらに寄せて来る。撫でてやっても嫌がる気配はなかった。ノグも僕を覚えてくれているのだ。 「久しぶりだなぁ」  ノグは慎重すぎるほど騎手に配慮ができる賢い馬だが、それゆえに騎手に従わないこともある。おかげで戎馬《じゅうば》として生まれながらも、戦場には行かず、エクリールの唯一無二の相棒となった。  主人がここに赴任するにあたり、彼もまたここへ移されて来ていたのだろう。  おそらく今の彼の住居は、壁の外にある厩舎のどれかに違いない。そんな彼がここにいるということは、つまり。 「おや、ちょうど帰って来たか。そろそろアマリエを迎えに出そうと思っていたんだけど」  白銀の髪を揺らす男が、二本の足で歩いて来る。その口に銜えられているのは亜《あ》麻《ま》紙《がみ》の紙筒だが、まとう匂いはいつもと相違ない。 「急で悪いんだが、僕はしばらく〈壁の内《トゥーリーズ》〉を留守にすることになった」  そう告げて紙筒を持ち上げた彼のかたわらには、アマリエの姿があった。黒革の鞄を抱えた彼女は唇をまっすぐに引き結び、どこか白い顔をしているようにも見える。けれども彼女がここにいるということは、留守の理由は逮捕ではないだろう。  もしもそのような理由であるのなら、エクリールはむしろアマリエを遠ざけるはずだ。 「どちらまで?」  問いかけとほぼ同時、役所のほうからヒトの姿を取った虎がひとり、駆けて来る。  彼は僕へ頭を下げてから、ノグの背に鞍を乗せた。乗せられた側のノグは気にしたふうを見せなかったが、どうにも不慣れな手付きだと僕は思った。 「トゥーラ。訓練で怪我人が出たとかで、しばらくひとを貸してやれという話でね」  鞍を止めるベルトの穴は何回か変えたし、金具を止める手順自体も怪しい。  だというのに、ノグ自身の毛を挟んだりは絶対にしない。おかげでノグは、ただのんびりと主人のほうを眺めている。 「なるほど、それは大変ですね」  僕もまたエクリールのほうを見て、唇の端を持ち上げた。 「お言葉ですがね、人員の融通は同じ司令部に属する以上は当然の義務ですよ」  にわかに耳に飛び込んで来たのは、ささやくようでいてよく響く、高い男の声だった。  聞き慣れないその響きに、僕はようやく目の前で行われている作業の意味を悟る。――この虎は、けっして馬具の装着に不慣れなわけではないのだ。むしろその逆、慣れているからこそ余計な時間をかけられる。 「アルシリアは指揮官を出さないくせに、相互扶助とは笑わせる」 「ハーウェン家の御子息に従わない兵卒など、この国にはおりません。適材適所ですよ」 「そうかい。ひとりでも従わなかったら、まずおまえ《役立たず》の耳を焼いてやるから覚えておけよ」  早馬でやって来た白い獣。彼の目から僕を隠すために、彼はひどく手間取ったふりをしている。彼の夜《や》天《てん》色《いろ》の目には間違いなく、僕の正体が見えているのだろう。  否。彼だけではなく、軍籍にある獣たちはみな同じだ。彼らは全員、エクリールの嘘を知りながら、それをあえて黙認していた。  僕はいよいよその事実を認めなくてはならない。同時に感謝もしなくてはならない。  彼らの沈黙によって、僕のここしばらくの平穏な生活は保たれていたのだ。そして今もまた、そのひとりが僕を守ろうとしてくれている―― 「俺の荷物持って馬と遊んでんなよ馬鹿!」  宿舎のほうから澄んだ声がした。僕は意を決し、これ幸いとばかりに虎の影を飛び出してひた走る。  あえて白い獣のほうは見なかった。開かれた扉の中に駆け込み、乱れた呼吸を整える。 「ふざけんなよ、それ持って走るんじゃねぇ」  扉を閉めたクロイツは腕を組み、肩で息をする僕を見下ろした。 「走るなって言っても……いや、ごめん」  僕が梟の金色《こんじき》の目を避けたい理由を、クロイツに教えることはできない。エクリールが教えていないのなら、僕自身の判断で教えてよいはずがない。そしてそれを確かめる術は、閉ざされた扉の向こうにある。 「ま、梟の目ってのは意外と余計なもんが見えるからな。ビビったってしょうがねぇ」  クロイツはひとり勝手に納得すると、傷ひとつない右手をこちらに伸ばした。渡せ、との言外の態度に応じ、僕は素直に藍染の包みを差し出す。 「出発に間に合ってよかったぜ。遅れてたらぶん殴らなきゃいけないところだった」  ただただ美しいばかりのましろの指が、深い青の布地を撫でる。  挙措《きよそ》に追随する声は、僕が聞いたことのない愛おしげな響きを帯びていた。あの祈りを歌い上げた声とは似ても似つかない、ひとそのものの声だった。 「それって」 「言っただろ。俺の生き甲斐」  長い睫毛に縁取られた瞼が、黒い瞳を覆い隠す。 「――――コウが打った最後の剣だ」  コウ。ラリューシャの、本当の孫の名前だ。  同じ音を出すために、もうひとつ白い喉が動いた。しかしながら追随する声はない。そうしてごくゆっくりと、クロイツは瞼を開く。夜の帳などまだ薄いと言わんばかりの瞳は、宿す光に親愛の色を溶かしている。 「前は俺が折っちまってな。これでようやく、また連れて行ってやれる」  僕がここまで運んで来た荷物は、彼にとって形見などではないのだ。  死んだ、とラリューシャが宣《のたま》った孫は、まだここで生きている。――少なくともその友として在ったクロイツの中では。だから彼の声色に、追慕の色だけは存在しない。 「おやっさんは素直にこいつを渡してくれたか」  うなずく。 「孫の打った最後のひと振りだって話は聞いたけど」 「へぇ?」  対してクロイツは大袈裟に肩をすくめてから、慣れた手付きで包みを担いだ。 「あのクソ爺はよ、俺には一度だってそんな話はしなかったんだぜ」 「自分にとっても最後のひと振りになるだろう、とも言ってたよ」 「そうかい」  細い指先が、布を留める組紐を弄《もてあそ》ぶ。その指先の釉薬を思わせる滑らかさは、なるほど鍛冶師のラリューシャが忌避するわけだと思われた。なにも見えず、なにも語らない。  クロイツがあえて僕を遣いに指名した意味を悟り、今更のように腑に落ちる。 「それじゃ、俺はこいつを持って行って来る」 「……君もトゥーラに行くのか」  魔術師は首肯してから、布に包まれた剣でとんと肩を叩いた。 「今のところ、俺はまだ大将の側仕えだからな」  ならばたしかに、彼がエクリールに随伴しない理由はない。  そうかと応じた僕に軽く笑いを見せてから、魔術師は白い裾を揺らす。ついで扉に手をかけたとき、彼はふとこちらに顔を向けた。 「ま、困ったことがあったらいつでも呼び戻したまえよ、ルカ君。前職の好《よしみ》で助けてやらないこともないかもしれないぞ」 「なにかあれば、ね」  僕が苦笑を返すのに合わせて、彼はその手で扉を押し開いた。  去って行く姿はどことはなしに楽しげだ。担いだ荷物に絡めたその腕は、ちょうど親しい相手の肩に手を置いたように見えないこともない。  弾むような足取りが目指す先には、すでに青い軍装の姿が居並んでいた。どちらかといえばおとなしい気質のノグも、馬具をまとってどこか勇壮な趣《おもむ》きに見える。やはり彼は名だたる名馬を親に持つ、由緒正しい軍馬なのだ。  そしてそれは、それは彼の主人もまた同じこと。病弱で鳴らすエクリールもまた、二本の脚で立つ姿は儚さではなく強靭《つよ》さを佩びている。  しゃんと伸びた背筋と、片目を閉ざした黒革の眼帯。昼下がりの日差しに鋼色の影を落とす髪は、彼が誇り高き旧《ふる》い獣の――今は亡き巨《きよ》狼《ろう》の血を引いている証にほかならない。  凛と立つその姿を見るに、彼はずいぶんと遠くへ行ってしまったのだと僕は思う。  部下である軍人たちを従える姿は、あまりに堂に入っている。先生が見たら腹を抱えて笑うだろうか。それとも嫌味のひとつでも言うだろうか。  その判断に迷う僕の下へ、小さな影が駆けて来た。アマリエだ。  彼女の手にあったはずの黒革の鞄は、今はクロイツの手中にある。 「少しだけ、長い仕事になるかもしれないね」  手を置いた少女の肩は震えていない。けれども、震えていないだけだ。  努めて口の端を持ち上げて笑みを作りながら、僕は平素のとおりの口調で語る。 「でも、きっと必ず帰って来るよ」  早馬の訪《おとな》いは、火急だとしても早すぎた。  西方司令部を擁するアルシリアからこの街へは、実際のところ半日どころか一日かかっても着くはずがない。トゥーラからアルシリアへ、アルシリアからトゥーリーズへ――あくまで推測でものを言うなら、馬を乗り継いでも一週間はかかるはずだ。ヒトよりも目方が少ないと言われる梟を乗せたとしても、一日短縮できればよいほうだろう。  つまりあの遣いは、少なくとも僕らがトゥーラにいた頃には、すでに馬上のひとだった。 「……ルカさま」  僕の顔を見上げて、アマリエが手を重ねる。  その幼い顔に不安の色を見て取って、僕は肩をすくめた。 「ごめんね。実を言うと僕もちょっと心配で」 「エクリールさまのことですよね。馬に乗れたなんて、アマリエは初耳です」  眉間に深い皺を刻んだアマリエは、うんと細めたまなこで出立を控えた一団を見やる。 「一般的な馬はどうだか知らないけれど、ノグはエクリールの馬をやって長いから」  僕らの視線の先で、エクリールは手綱を取った。鐙《あぶみ》に片足をかけ、野を馳せる獣の身軽さで鞍に跨る。いつもの緩慢な動きが嘘のようだ。にわかにアマリエが感嘆の声を上げる。  かく言う僕も、あれを見事な動きであると思った。 「……なら、アマリエはエクリールさまのことを心配しません。ここをお守りすることだけを考えます」  吐息に似た声音に首肯を返す。彼女はエクリール付きの私設の侍女であるから、主人の生活を守る義務がある。主人がいようがいまいが、彼女の戦場はこの宿舎のすべてだ。ここを守ることこそが、彼女にとっての絶対の任務である。  ほかの誰であろうと、かわりを果たすことはできない。  とはいえもちろん、彼女だけが宿舎に残るわけではなかった。トゥーリーズの治安を維持するために、軍人たちの一部も残る。  だからきっとだいじょうぶだと、根拠のない自信を胸に抱く。あの梟の主人が、如何なる理由で命を下したのだとしても、きっと。  僕らが見守る先で、二頭の馬がしずしずと歩き出す。  それを筆頭に、庭に集った軍人たちは広場のほうへ姿を消した。宿舎の入り口から、塀の先は見えない。ゆっくりと時間をかけて全員を見送ってから、僕らはそれぞれのやるべきことへ戻ることにする。  すなわちアマリエはいつもどおりの宿舎の維持へ、僕は邪魔にならぬよう自分の部屋へ。  そうして僕らが再会したのは、夕《ゆう》餉《げ》の席でのことだった。 「思ったよりも残ったひとが少なかったです」  自分たちの身の回りのことは自分で片付けるのが、我が国の軍の倣《なら》いだ。日々の雑事は係を決めて行うことだが、頭数が減れば分担が回って来る率も上がる。  ゆえに今日のアマリエは、端《はた》から見てもずいぶんと忙しく過ごしていたようだった。 「明日は僕も手伝うよ。――掃除とか」  幼い容姿に似合わぬひっつめ髪からは、いくらかの後《おく》れ毛が飛び出している。  それについては指摘しないまま、僕は小さな声で彼女に告げた。アマリエは戸惑うように沈黙を保った後、ごくゆっくりと首肯する。 「アマリエは今日はもう休みな。片付けは俺たちがやっとくから」  続けて声をかけたのは、まだ年若い獣だった。たしか些細な言い争いが遠因で、クロイツに投げ飛ばされた猫である。  絞られた食堂の明かりの中で、その瞳はほとんど黒のように見えた。  その目を細めた彼の顔を見上げて、アマリエはまたしばらく黙り込む。そうしてまたひとつ、ゆっくりとうなずく。  よしと手を打ち、若い男は空いたアマリエの皿を引き寄せた。上から僕と自分の分まで皿を重ねて、厨房のほうへ運んで行く。彼の大柄な後ろ姿を見送りつつも、アマリエは席を立つことをしなかった。 「……アマリエ?」  名前を呼ぶと、弾かれたようにこちらを向く。その顔を真正面から覗き込んで、僕はごく薄く苦笑を漏らした。 「エクリールがいないのは不安?」  アマリエはまだ年少の子どもだ。軍人たちは誰しも彼女を娘か妹のように可愛がっているが、男所帯にひとり暮らす心細さはあるだろう。そんな彼女の心を支えていた芯は、奇妙な威光で軍人たちを従えるエクリールであったはず。  それから――おそらく当人が認めることはないだろうが――祖父の旧知であるクロイツも同じ。ふたりが同時に街を離れた今、アマリエの不安は察して余りある。 「……少しだけ」  それでもアマリエは、あくまで気丈に振る舞おうとする。  しっかりと背筋を伸ばした姿を目の当たりにして、僕は食卓の上に頬杖をついた。 「よかったらさ、今日は僕の部屋で寝る?」  そう言う僕だって、実際のところは男のなりだ。体つきには年ごろの娘に特有のまろさがない。かといって、同年代の少年のような硬さとも縁遠い。  これをなんと称するかは十人十色の意見があろうが、軍人たちと似ても似つかないのはたしかだ。  アマリエはそんな僕を眺め見て、ごく小さく首肯した。 「自分の枕だけ持って行っても構いませんか」 「もちろん。毛布も持って来てくれたら助かる」  あどけないおもてに、ようやく笑みの色が戻って来る。思わず返してみせた笑みを作るために、先ほどと同じ努力は必要なかった。

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