30

 大荷物を持って通りを抜けるのも、長《なが》物《もの》を持って路地を抜けるのも、僕には成し遂げるだけの勇気がなかった。結果的に時間を潰すため、僕は昼食を摂ることにした。  ハイロが戻って来たのは、ちょうどその終わり。  弁当売りたちの姿も、通りから消え始めた頃合いである。  彼はまっすぐいつもの――つまりは僕のいる部屋に顔を出し、かたわらに置かれた荷を認めて目を丸める。 「それ、ひょっとして親方からか?」  昼食を包んでいた油紙を畳みつつ、僕はひとつうなずいた。 「クロイツが取りに行けって言うからさ、代理で」  へぇ、と感心したような声を上げ、ハイロは床に膝をつく。  伸ばされた指先はしかし、藍染の布に触れることはない。こちらに向けられた彼の笑顔には、眉間の皺が添えられていた。 「昨日さ、俺が持って行こうかって言ったら怒鳴られたんだぜ」  今度は僕が目を丸める番だった。  ラリューシャは気難しいことで有名だが、誰かを怒鳴ったという話はついぞ聞いたことがない。先刻聞いたばかりの声ががなり立てるところを想像しても、それがうまく像を結ぶことはなかった。  しかしながら今の僕には、あの老人の怒りが理解できるような気がする。 「大事なものだって言ってたからね」  そのように告げると、ハイロは首肯した。  窓から差し込む午後の日差しを受けて、その髪は鮮明な藍の色彩を帯びている。荷物に巻いてある布とよく似た色だ。  ――藍で染めた布は、燃えにくい。ただそれだけの事実が、僕の言葉をたしかなものだと主張している。 「ところでハイロ、昼ご飯は?」  改めて問うてみれば、インクの色の目がこちらを見る。 「まだ。……砂鉄は嵩《かさ》張《ば》ってよくないね」  重かったと言わないのは、彼が獣であるからだろう。竜の係累である獣は見た目よりも数段頑健であり、力も強い。  僕は少し笑って、机の上にある包みに手を伸ばした。 「蒸し鶏と粒辛子のサンドイッチがあるよ。はじめて買う店のだけど」  買い求めたときには暖かかった包みは、もうすっかり冷め切っている。 「味のほうはどうだった?」  受け取ったハイロは嫌な顔をしない。彼は猫舌なので、これくらいのほうがありがたいのだろう。 「実は今日、それは食べてないんだ。なんとなく別のにしたんだよね」 「そうか。でも俺、鶏は好きだよ」 「ならよかった。いい匂いだったんだよ、本当に」  小さく畳んだ油紙を片手に、僕は床から立ち上がった。  見下ろした獣の顔は、それでもまだずいぶん近い位置にあるように思われる。思えばこうして彼を見下ろすこと自体、僕にとっては初の経験だった。  ――はじめて出会った彼も思い切り煤をつけた顔で、高い位置から僕を見下ろしていた記憶がある。僕を工房へ案内したアマリエは、それに対して失礼極まりないと目を吊り上げていたものだ。彼の顔を見て数年ぶりに大笑したことは、昨日のことのように思い出せる。 「……昨日の話は思い出せた?」  僕の面を仰ぎ見て、彼は首をかしげる。雑に結われた長髪が揺れて、ごくかすかに乾いた音を立てた。 「うん。もしも、の話なんだけどさ」  ――これは、あくまで仮定の話。あるいは、僕の希望としての言葉。 「君、チャンスがあればやっぱり軍人になりたい?」 「そりゃね。……ひょっとして、詰所に契約したがってるヒトでもいる?」  青とも黒ともつかない瞳に、期待の気配はない。揶揄《からか》いでもしているのかと、どこか呆れたような色があるだけだ。ゆえに、僕は首を横に振る。 「でも、機会があれば紹介したいヒトはいるかな。故郷に、だけど」 「王都か。期待しないで待ってる」  ゆるゆると微笑む顔は、いつもどおりの。 「でも、もしルカがなにかでどうしても困ったら、頼ってくれたっていいんだよ」 「そうだね。どうしても、契約の奇跡《対価》が必要になることがあれば」  いつもとは違う視点でそれを見ながら、僕は鞄を抱え上げ、中に残った荷物を取り出す。  油紙に包まれたそれは、アマリエから預かって来た用兵書だ。後付の線と印を大量に抱えた本の中身は、もはや僕でも理解できない。  けれどもハイロは受け取った本を大切そうに抱えて、僕を玄関まで送ってくれた。  彼に頼ることなく運んで来た荷は、やはり相当な運送の手間が要りそうだった。上まで送ろうかという言葉を断り、僕はそれを肩へとかける。長さのぶんだけ取り回しには苦労するものの、銃の二挺よりは軽い荷物だ。抱えて走るには不安が残るが、坂くらいは登れる。  しかも日は高いのだから、のんびり行けば転ぶこともない――  そのはずだった足取りを早めたのは、ちょうど見張り小屋の向こうを視認したとき。

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