29

 翌朝街へ出ることを告げた僕に、アマリエは細《こま》々《ごま》とした荷を持たせてくれた。シロップと卵黄を混ぜて糖蜜がけにした菓子や、白色で刺繍を入れた布巾の束、それからハイロに貸すための本――彼女にとって、僕がどこへ行くかは聞かずともわかるものらしい。  用意した荷を詰めた肩かけ鞄を預かって、僕は宿舎を後にする。実態としてはちょっとした使い走りになってしまったけれど、ラリューシャに渡せるものがあるというのは、話の糸口としてはありがたかった。  昼時の混む時間は避けたつもりだったが、正午を控えた通りには、すでに商人たちの姿が存在する。折角なのでそこで昼食を買い込み、裏路地を通って工房へ向かう。  何度も潜った扉の前に立ったときには、なんだか妙な緊張があった。  息を吸い、吐く。もう一度吸って、吐く。 「参りました!」  三度目は一層深く吸い込んで、それを声へと換えた。しかしながら、中から反応はない。  こんな気取った声をかけようものなら、煤けた顔のハイロが出て来るのが常なのだが―― 「……お邪魔します」  待てど暮らせど、あの大柄な獣が出て来る気配もない。  猫の仲間であるハイロたちの耳はヒトよりも優れているので、返答がないということはつまり、不在と言い替えてもよい。よって僕は鞄の肩紐をしっかりと掴み直し、自分で工房の扉を押し開いた。  ハイロが留守だというのなら、ここからは僕とラリューシャの一騎討ちだ。  ええいままよと気合を入れながら、大股に鍛冶場へ続く廊下を歩む。  ――いつものとおりに手前で足を止めた鍛冶場の中には、やはりいつもの相手がいた。  巌《いわお》のようなそのひとは、今日は炉を覗いていない。鍛冶場の隅で藁を焼き、その炎だけを見つめている。横顔はそれこそひと振りの刃物のようで、十人が見れば十人が話しかけることをためらうだろうと思われた。  百人もいればクロイツのような手合いが混ざるかもしれないが、混ざるほうが稀だろう。  僕もまた、そんな稀人《まれびと》になることはできなかった。そればかりか鞄の肩紐を掴む手から力が抜けて、中身の動く音がする。 「……おまえが来たのか」  不意に上がった声に、僕は身体を跳ねさせた。鞄の中身がふたたび大きな音を立てる。老鍛冶師はそんな音には構わず、藁を舐める火を見つめたままだった。  だから最初、僕は聞こえた声を空耳だろうと思った。鞄の中身があちらこちらへ動く音の加減で、そういうふうに聞こえただけに違いないと。  しかしながらラリューシャは、程なくして顔を上げ、今度はたしかに僕を見た。 「あいつはどうした」  言葉は今度こそ間違う余地もなく、僕に対して投げかけられたものだった。 「……――クロイツでしょうか」  思わず上擦る声に対して構うでもなく、老爺はかすかに頭を上下に揺らす。 「そんな名前だった」  声だけを聞くのであれば、巌よりも刃よりも、鋼を鍛える道具のような老爺だと思った。 「……彼はしばらく本業で忙しいとのことです」  この言葉に対しては、返答がなかった。目線は藁灰を作る炎のほうへと戻る。  けれども僕は、それを拒絶であるとは思わなかった。ゆえに深々と息を吸い込んで、街を囲う〈銀の壁〉より高いと信じてやまなかった境を超える。ただ一歩で靴底は砂を踏み、二歩目は砂《さ》礫《れき》を砕く音を立てた。  応じるように、ラリューシャがふたたび顔を上げる。 「僕が、代理で参りました」  老爺の目が見開かれる。右目ばかりが零れ落ちそうなほど、大きく。  もう片方の目が追随しないのは、そちらがなかば潰れているせいだった。この距離ならばそれがわかる。  鍛冶師の炉の火を覗く側の眼《め》は、いつか光を失うものだとアマリエが言っていた。強い光と熱は日輪のように、ひとの目が見つめ続けるには強過ぎるものだから。  そうして片目が完全に潰れたとき、鍛治師はふたたび自分の道を探すのだとも聞いた。  残る目を潰してでも鍛治師を続けるか、あるいは綺麗さっぱり鍛治の道を諦めるか――どちらにせよ彼らの前に続く道は、火の上を行くような苦行だとかつての僕は思った。 「それからこちらをアマリエから。お祖父《じい》さまに、と」  視力の残る目にわかりやすいよう、僕は鞄を持ち上げる。対してラリューシャは溜息をついた。唸るような、絞るような、ただひたすらに長い溜息だった。 「あの娘はまだそんなことを言っておるのか」  最後に漏れた言葉もまた、絞るような、唸るような、低いばかりの声だった。それを受けて、僕は慌てて口を開く。 「アマリエは別に奉公先から家に帰りたいとかそういう意味でこの荷物を持たせてくれたわけではないと思いますよ」  ラリューシャは鼻を鳴らした。  彼の眼前にあった藁はすでにすべてが燃え落ちて、鍛冶場の中には特有の煙の匂いが立ち込めている。 「儂が言いたいのはそういうことではない」  老爺はそれを一瞥してから、炉で燃え盛る火に目を向けた。それからまた僕を見る。 「あの娘は、まだ儂を祖父と呼んでおるのかと言うておる」  え、と短い声が唇から漏れた。ラリューシャはふたたび鼻を鳴らし、藁灰を壺へ移す。  その視線の行方を追い、僕はアマリエの姿を思い浮かべてみる。――ふんと鼻を鳴らしてみせる様などは、とてもよく似ているように思えたが。 「あれは儂の孫ではない」 「でも、……アマリエは御両親が亡くなられて、お祖父《じい》さまに引き取られたんでしょう?」  骨を伝って聞こえる自分の声は、食い下がるような響きを帯びていた。  空《くう》を伝って同じものを聞いたはずのラリューシャは、それをどのように捉えただろう。彼は大きさの揃わない目を一様に閉じてから、時間をかけてゆっくりと開いてみせた。 「あれの父親は儂の甥だ。だからあれは孫ではない」  又《また》姪《めい》。つまりはそういうことになる。ならばふたりは祖父と孫ではないというだけで、たしかに血はつながっているのだ。僕はその事実に安堵する。 「儂にも孫はおったがな。顔を見たこともない」  煤が飛ぶ。ものの焼けた匂いがする。ごうごうと燃える炉の炎が、今は音を飲んでいる。  そのうちぱちんと火の爆ぜる音がして、ラリューシャが炉を振り返った。 「お孫さん、というのは」 「あれは幸福な子だ。儂らのように迷うことを知らぬままだ」  炉を眺める横顔には、慈しみの影があった。炎によって衰え、開くことのままならない片目さえ、どこか微笑んだように見える。 「……お亡くなりに?」  問えば、首肯が返って来る。  続く沈黙を挟んで、ラリューシャは炉のかたわらの炭入れを開けた。 「儂の娘はよりにもよって、儂の弟子と駆け落ちしよってな。孫なんぞいつ生まれて、いつ死んだかも知らん。娘も、弟子も、似たようなもんだ」  つまり、この老爺は長らく独りであったのだ。掠れた声音は、熱を孕む空気に焼かれたばかりでなく、久しく語らう言葉を持たなかったことによるのだろう。  僕はそれを思って口を閉ざした。 「あの男はな、儂の孫の友だと言い寄った」  ――僕らの言葉は、誰かと語らうには向いていない。ただひとり語るのを聞いてもらうほうが、いくぶん楽だといつも思う。  それまでの孤独が長く重いものであるのなら、殊《こと》更《さら》に。 「数年前の雨の日、急にやって来おってな。仕事道具が壊れたから直せ、と言う」  ひとつふたつと炉に炭をくべてから、ラリューシャは鍛冶場の隅に目を向ける。釣られて見やったその先には、なにも存在しなかった。強いて言うなら空白がある。  道具と素材で溢れたこの鍛冶場における、唯一の間《かん》隙《げき》。 「作った者のところへ持って行け、と儂は返したが、そんなものは死んだと返された。その死んだというのが、儂の孫だ」  空いた場所に収まっているクロイツの姿は、なぜか容易に想像がついた。腕を組み、口許をまっすぐに引き結んで、鼻息荒く座り込む姿だ。  空虚から目線を逸らして、ラリューシャは憎々しげに言葉をつなぐ。 「持って来たもんはそりゃあひどい有様だった」  思い出すのは揺らぐ足下の感覚。こちらを向いた銃口を逸らすために、クロイツはためらうことなく銃床《じゅうそう》でひとの頭を殴打した。  銃というのはなかなか繊細で、ああいう乱暴な動きには耐えられない。発射機構に狂いが生じてしまい、調整や修理なしでは使えなくなる。  刃も、同じだ。あまりに乱雑に使えば、必ず刃《は》毀《こぼ》れを起こすはず。  ――まだうちに帰って来るつもりはないわけ、とイラテアは言った。永きを生きた獣である彼女が「まだ」と呼び得る時間は、一体どれほどのものだろう。  そう僕が思考を巡らせる間、ラリューシャはじっと黙り込んでいた。  火を見つめるその姿は、程なくして孫を見守る祖父のそれに重なって見える。なんとはなしに悲しい気分がして、僕はつと目線を落とした。 「ところでおまえ、男の形《なり》をしておるが、女だろう」  慌てて顔と目線を上げる。  自分で言うのもなんだけれども、僕の身体は五年前から背丈以外はほとんど変わっていない。女であることを――いずれ母になることを諦めた身体は、弟と同じく線の細い貧相な男にしか見えないと思う。  だからこそ、正直に言えば、困惑した。  それを悟ってか否か、ラリューシャは呻きに似た笑いを上げる。 「儂らのように火と鋼にだけ向き合って暮らすもんはな、そのうち魔術師どもにも見えんものが見えて来る」  無意識に喉が動く。けれども鍛冶場の熱のせいで、飲み下せる唾はない。かわりに驚くほど大きな音がした。ラリューシャは体を捻ってこちらを振り返り、僕を手招く。 「儂らトゥーリーズの人間は、もちろん竜を信じておるが、それよりもっと旧《ふる》いものを信奉しておる」 「――外《と》つ国の神々、ですね」  僕らの先祖は、最果てに座す竜より践《せん》祚《そ》を受ける以前、遠い異国の地に暮らしていた。ゆえに僕らは偉大なるものを今でも神と呼び、場合によっては今なお信仰を捧げている。  老いた鍛治師はかたわらに立った僕に対し、炉の横に提げられた鉄《くろがね》の護符を顎で示した。 「儂ら鍛治師が信じる神は、焔《ほむら》の躯《からだ》で炉に座《おわ》す」  金属板に彫られたヒトの姿は、長い髪を焔のように従えている。 「炉の神だ。炉の神は女神だ。ゆえに鍛冶場に女が入ることを好まん」  跳ね躍る長髪に縁取られた顔《かんばせ》もまた、たしかに女人のように見えた。その事実に気づいた刹那、僕はそっと後《あと》退《すさ》る。唐突に湧いたおそれは、襟の裡《うち》へ落ちた雹に似ていた。  ラリューシャはそんな僕を横目に見ながら、炭の壺に蓋をする。 「儂らはな、延々炉の火と向き合ううちに、なんとはなしにその御機嫌が見てわかるようになる。今はえらく困っておられる」 「それは……その、すみません」  僕の目には炎の心は見て取れない。それでも、と見つめているとひどく眼球が乾いて、瞬《まばた》きを繰り返す羽目になる。  まばらな暗闇のどれかひとつの裏には、愉しげに笑う老《ろう》翁《おう》の顔があったような気がした。 「それから、もうひとつ。儂らは言葉を使うより、手を見てものを聞くようになる」  言って、ラリューシャはこちらへ手を差し伸べる。  合わせて差し出した手の指先が触れると、黒光りのする手は思った以上に硬かった。乾いて黄ばんだ爪は層を成した砂《さ》岩《がん》のようだったし、胼《た》胝《こ》は砂地で拾える石膏の塊に似ている。  ――これはヒトの手ではなく、ただ鋼を打つための道具なのだと、すぐにわかった。 「乗馬と銃、書き物の痕《あと》。……昔は外でよう遊んだだろう。――針仕事がない。争いごととも縁遠そうだ。これでは炉の神とて迷うわけだな」  そしてなにより、暖かな手だった。  遠慮がちに僕の手の甲を撫で、ラリューシャは炉の火に向き合う。その横顔には抜き身の刃に似た鋭さはなく、ただただ静けさばかりが残る。それがリセリによく似ていると思ったのも、きっと僕の勘違いではないだろう。 「あの男は、おまえをよう守ったか」 「はい」 「刃のあるものを使ったか」 「いいえ」 「――ならば儂も、本当にこれを返さねばならんな」  ラリューシャは頭《かぶり》を振って腰を伸ばした。  続けて引きずるような足取りで、鍛冶場の隅に向かって歩き出す。歩みの末に彼が手にしたのは、藍染の布の細い包みだ。  老翁の後を追った僕は、ぞんざいに突き出されたそれを両手で受け取る。腹に力を入れて受け取ったものの、気抜けするほど軽い荷物だった。長さこそ僕の背丈を超えているが、肩にかければ運ぶことに苦はないだろう。  幸いにして、僕は普通の娘よりは力もあるほうだ。 「あの男の手はものを語らぬ手だ。ゆえに儂も迷いはしたが」  目の前にある笑顔は錯視ではなく、ましてや幻でもあり得ない。聞き慣れた鎚の音よりも明瞭な声が、はっきりと僕の鼓膜を打つ感覚がある。 「これは、儂の孫が打った最後のひと振りだ」  落ちる言葉はその一音ずつが、たしかに鋼を打つように。 「そしていずれは、儂の最後のひと振りにもなろう」  ――銘《な》は、教えてもらえなかった。  そうしてこれを最後に、ラリューシャの声はいつものとおりに低く沈み、およそ言葉と呼べるものとの縁を切ってしまった。  荷物を棚へしまったときも、退出の挨拶をしたときも、返って来るのは唸りのような母音だけ。僕はむしろ、その事実に安堵する。  僕らは長い孤独の末に、できれば言葉と縁を切りたかった人間だ。  だから本当ならば、僕らに言葉は要らない。そこに互いをつなぐものがあるのなら、一層に。  だというのに、ここには口を開かなくては伝わらない想いがあった。それを辛いとは思わないまま、僕は手の中の包みを撫でる。  藍《あい》で染められた麻布は、ちょうど夜明け前の空の色によく似ている。

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