ミッドナイトウルブス | 五章:ワインディング
いしやんWRX

第三十二話:師弟の戦い

 先行する「レガシィ」がゆっくりと加速する。  おおよそ一車身程度の間隔を維持しつつ、高山は愛車をそれに追従させた。  スピードは、時速五十キロ。  八神街道における法定速度だ。  アクセルペダルに乗せた右足が緊張で強張る。  少年は、師匠に教わったとおり全身をリラックスさせようと努力した。  が、肉体は精神の求めた要求を頑なに拒んでみせる。  スピードメーターの針が不規則に揺れた。  それは、ペダルの操作が安定していない何よりの証左であった。  いま走行している区間は、比較的傾斜も穏やかでコーナーの曲がりも緩い。  繊細なアクセルワークが必要とされる場所とは言えなかった。  にもかかわらずこのていたらくだ。  高山は、改めて自らの技量未熟を情けなく思った。  そしてその直後に、「いや、本当に情けないのは、いまの自分そのものだ」と、すかさず前言を改める。  もとより確たる目的もなく、見知らぬ他人との戦いを望み、  他愛ない逢瀬に舞いあがったあげく、大切な想い人を手酷く傷付け、  そしてそんな自分と決別すべく、今度は敬愛する師匠に無礼な挑戦状を叩き付けた。  すべてが自己中心。  すべてが自分勝手。  これを恥ずかしいと言わずなんと言おう。  唯一の救いは、師匠──壬生翔一郎が何も言わずに自分の挑戦を受け入れてくれたことであった。  それだけではない。  未熟な自分にも勝利の可能性が垣間見えるルールを、あえて提示してくれもした。  つべこべ言わず全力で勝ちにこい。  高山には、翔一郎がそんな風に言っているような気がしてならなかった。  最初のヘアピンが目前に迫る。  速度による恐怖心はさほどでない。  しかし高山は、やはり「プリメーラ」を減速させてしまう。  車間距離がわずかに広がった。  明らかに、向こうのほうが速い速度でコーナーを処理している。  それを察した高山は「くそっ」と短く悪態を吐き、懸命にそのあとを追った。  トップスピードが時速五十キロと規定されている以上、加減速の効率によってのみ互いの間隔は前後するはず。  であれば、「プリメーラ」の相対的な軽量は明らかな武器だ。  コーナリングの際、それを利用することで翔一郎の「レガシィ」より奥まで突っ込むことが適えば、師に追いすがることも不可能ではない。  |運転技術《ドラテク》での優劣は、あまりにもはっきりしている。  端からこちらに勝ち目などない。  なれば精神面、すなわち「度胸」を糧に立ち向かうしかない!  しかし、それでもなお彼の「プリメーラ」は、先行する「レガシィ」との車間距離を詰めることができなかった。  むしろコーナーをひとつ抜けるごとに、その差は次第に広がってすらいる。  全行程の半ばに達する頃には、それは誰の目にも明らかな規模に育っていた。  ルールの中に「法定速度までしか出してはならない」という縛りが存在する以上、それはもう絶望的な状況だ。  なぜだ?、と高山は自問した。  翔一郎がルールを破って時速五十キロを越えるスピードを出しているとは思えなかった。  もしそうなら、両者の距離は直線時においてこそ、より顕著な広がりを見せているはずだからだ。  原因はほかにある。  それはなんだ? 「速く走るコツは短い距離を速いスピードで走ることだよ」  ふと、翔一郎の言葉が高山の脳裏に浮かびあがってきた。  短い距離を速いスピードで。  短い距離。  短い……  「そうか!」と叫んで高山はすべてを察した。  翔一郎と自分との差。  それは、文字どおり、走行距離の差によって生じたものであったのだ。  高山は、慣熟歩行のおりに聞いた彼の教えを思い出した。 「走行ラインを選ぶ際、選択理由となる要素は大まかに分けてふたつある」  翔一郎は高山に語った。 「それは走行距離と走行時間だ。基本的には、走行距離が短かければ、その分だけ走行時間も短縮されるけど、コーナリング速度の関係からそれが絶対というわけじゃない。正解は場合によっていくつもあるから、走り込みながら掴んでいけばいいよ」  彼の言葉を信じるなら、高山が翔一郎に遅れを取っている最大の理由は、自身が最適な走行ラインを描いていないということに突き当たる。  片側一車線しか使えないこの条件下においてさえ、翔一郎の選択した走行ラインは高山が選んだそれよりも短く、そしてクルマがより効率的に前進できるものであったのだ。  一例を挙げるなら、高山が道なりに左右左とステアリングを切りながら進んでいたスラロームを、翔一郎はもっと直線に近い行程で走り抜けていた。  上から見た左右への振り幅が少なければ当然クルマの進行方向への抵抗も小さくなるし、実際の走行距離も短縮される。  自明の理であった。  それは精神論とは最も遠い、合理的で計算高い戦略性の発露だ。  単純ではあるが、同時になんと奥深いのだろう。  ドライビングというものに秘められた真の魅力を、いま、高山はじっくりと味わっていた。  これ以上もないほど噛み締めていた。 「凄い。やっぱり凄いです、壬生さん」  徐々に徐々に遠ざかっていくテールランプを眺めながら、高山は感極まって独白した。  すでに勝敗のことなど頭の中ではどうでもよくなっていた。  だが、勝利を諦め手を抜くような真似は決してしない。  むしろ、もっともっと戦っていたい。  可能ならば死力を尽くして。  そんな心境がこの時の彼を──その精神と肉体とを歴然と突き動かしていた。  ◆◆◆ 「高山君と付き合う気はないのか?」  不意に翔一郎は眞琴に尋ねた。  助手席に座る眞琴は、思わず丸くした目を運転席の翔一郎に差し向ける。  それは、バトルも終盤に差しかかろうとしたおりのことであった。  高山の「プリメーラ」はコーナーひとつ分ほど後落した位置にまで下がっており、勝敗自体はすでに完全決着を見ていた。  この状況からの逆転など、よほどのトラブルが発生しない限り物理的にはありえない。  だが、翔一郎はまったくその手を緩めなかった。  容赦なくすべての技術を動員して「レガシィB4」を走らせる。  それは、あたかも兎を狩る獅子のごとくだった。  そんな彼が、ふとこぼしたひと言。  それは翔一郎が持つ精神的な余裕と冷静さとを端的に表すと同時に、彼が高山正彦という少年を好意的に捉えているのだという事実を眞琴に伝えた。  そう、場合によっては大事な妹分を託しても構わないと思っているほどに。  妹分──それを感じた眞琴の瞳がわずかに曇った。 「翔兄ぃは、ボクが高山くんの彼女になったほうがいいの?」  眞琴は、翔一郎の問いかけに同様の質問でもって答えた。  言葉尻に少しだけ影の存在が見え隠れしていた。  「そういうわけじゃないが」と前置いて翔一郎は返答する。 「いい男だぞ、彼は。一時の気の迷いはあったようだが、間違いは誰にだってあるさ」 「それは認める。でもね」  翔一郎の高山評を素直に肯定しつつも、眞琴はつまらなそうにこう言った。 「高山くんはボクを必要としてくれていないから。そして、ボクはボクを必要としてくれていないひとを必要としていない。それがすべてだよ」 「こいつはまた、えらく哲学的な台詞だな」 「わからなければそれでいいよ。翔兄ぃにもいつかわかる時がくるから」  発言を茶化された仕返しか、眞琴は先ほどの翔一郎の台詞をほとんどそのままの形で言い返した。  拗ねたようにくちばしを尖らせる。  それに気付いた翔一郎は思わず苦笑するしかなかった。  改めてドライビングに専念する。  目の前に「コークスクリュー」が現れた。  先日、翔一郎が芹沢聡に引導を渡した印象深い区間だ。  今回、翔一郎は愛車をきっちりと減速させ、教科書どおりの「スローイン・ファストアウト」を決めながらこの難しいヘアピンをクリアしていった。  その行程は驚くほどに滑らかで、かつ効率的だ。  「ロスヴァイセ」の面々に乗せられて幾度もここを通過した経験を持つ眞琴だが、やはり翔一郎のドライビングは群を抜いて上手に思える。  比較する対象が倫子であっても、その評価は変わらない。  なぜならば、その操作のひとつひとつが極めつけに丁寧だからだ。  動作にまったく無駄がない。  そう言い換えることもできる。  絶対的な安心感がそこにはあった。  安心感。  そのセンテンスを思い浮かべた時、眞琴はふと、いま自分が座っている場所について深く考えてしまった。  翔一郎の横。  それが彼女の定位置だった。  これまではそうだったし、これからもそうだと信じ切っていた。  揺るぎない椅子。  それも極上の。  だが、本当にそうなのだろうか。  漠然とした不安が込みあげる。  眞琴は突然、翔一郎と自分との間に歴然と広がる大きな溝に気が付いたのだった。  「ミッドナイトウルブス」のミブロー。  かつて八神街道に君臨した伝説の|走り屋《ロードレーサー》。  「壬生翔一郎」という極めて身近な男性が有する希有のカリスマ。  しかし、眞琴がそれを知ったのは本当に最近になってのことだ。  もし芹沢と倫子とのバトルに翔一郎が介入しなければ、いまもって知ることは叶わなかっただろう。  自分の年齢と等しいだけの付き合いを経ていながら、彼女は翔一郎が隠し持ったもうひとつの顔に気付けなかった。  彼の両親を除き、いや彼の両親をも凌ぐほどに「壬生翔一郎」を熟知していると自認している身であったにもかかわらず、だ。  おそらく、眞琴の知らない翔一郎は数多に存在しているのであろう。  少し考えれば、それはごくあたりまえの話だった。  事実、職場での彼を眞琴はまったく知らない。  翔一郎が誰と付き合い、どのような時をすごしているのか。  周りからどのように思われ、評価されているのか。  そしていま、誰のことを憎からず、大切に思っているのか。  乾きにも似た思いが眞琴の胸中を襲った。  それが独占欲に近い感情の裏表であることに、彼女自身は気付いていない。  壬生翔一郎の傍らという、おのれだけの特等席。  あって当然のものと感じていたそれが、実のところ不確定な砂上の楼閣であるのだと知った彼女は、ある意味、心底からその現実に恐怖した。  翔一郎が自分の側にいない日常。  それは、想像することすらはばかられる未来予想図であった。  本能的な衝動から眞琴は小さく呟いた。 「翔兄ぃは、ずっとボクの側にいるよね」  「何か言ったか?」という翔一郎の確認にもうわの空で、眞琴はフロントガラスの向こうをただ呆然と眺めていた。

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