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 クロイツは用意ができると言ったが、臂章《ひしよう》の出所がわかったところで、僕にはなにができるわけでもない。だからこそ、クロイツの側にいるのは単純に苦痛でもあった。  そうして彷徨《さまよ》うように訪《おとな》った領主邸の庭の中には、早《はや》駆《が》けの馬がつながれている。飼い葉と水の桶が置かれているから、別に処遇に迷ったわけではないだろう。近場に厩舎《きゅうしゃ》がないことを思えばむしろ、恵まれた処遇であるとさえ言い得る。  馬は無心で飼い葉を食《は》んでいた。  その隣には青黒の髪のひとがいて、その食事ぶりを眺めている―― 「ハイロ」  名前を呼ぶと、馬を眺めていたひとが顔を上げた。  鮮やかなインク色のまなこが僕を認めて、ゆっくりと細まる。 「どうしたの、こんなところで」  問うと、鍛冶屋の見習いは頭を掻いた。 「親方の遣いで来たんだけど、入っていいものかよくわからなくて」  近づいてみれば、たしかに彼の足は領主邸の敷地の外にある。 「役所があるんだから、別に入ってもいいと思うけど」 「やっぱりそうか。でも、やっぱり早馬なんかがいるとどうも気になってさ」  ハイロはごろごろと喉を鳴らした。釣られて僕も小さく笑う。しかしながら結局、ハイロはこちらへの敷居を跨ぐことをしなかった。 「クロイツはいる?」 「いるよ。……でも、ちょっと忙しいかも」  白昼においては青みの強い瞳の中で、瞳孔がくるりと丸くなる。驚きの現れだ。 「珍しいなぁ」  言って彼は溜息を零し、肩を落とした。 「……親方からあいつにって、名指しの言《こと》伝《づて》があったんだけど」 「なら、僕から伝えておこうか?」 「そうしてもらえたら助かる」  肩を落とした姿勢のまま、彼はわずかに顔を緩めた。  対して僕は、いいよと努めて明るく了承を告げる。今できることがあるというのは、それだけで安堵につながることだ。 「『預かりものを返すから、早めに取りに来い』ってさ」 「……預かりもの?」  そして、今度は僕のほうが目を丸くする。  驚きではなく、聞いたばかりの言葉を訝《いぶか》しんだ結果としての反応だ。ハイロは心なしか少し困ったような顔を作ってみせる。 「俺もよく知らないんだよ。言えばわかるの一点張りで、帳面にもなにも書いてないし」  思えば、ラリューシャとクロイツは付き合いが長いと言われていた。少なくとも一年前にはいっしょに暮らしていた経歴があり、いつあの老爺の元を去ったのかとイラテアが尋ねていたのも覚えている。それを踏まえて考えれば、いくらでも推論は作れる気がした。  けれどもなんとなく、そのどれもが正解には至らないという確信がある。  だからこそ僕は、あのふたりついてそれ以上の思索を避けた。 「ところでハイロ」  かわりに僕は、今この場で問うべき言葉を思い出した。あるいは思いついた、というべきかもしれない。どちらにせよ口を開いてしまったのは、あくまで反射的な行為に過ぎない。  ハイロは続きを促すように頭を傾ける。その仕草を目にして、僕は首を横に振った。 「……ごめん、なにか聞きたいことがあったような気がしたんだけど、ど忘れした」 「ええ……気になるなぁ。待ってたら思い出せない?」 「時間がかかると思う」  気になると言いはしたものの、ハイロはそれ以上の言及をしなかった。  仕方ないねと笑って、踵を返す。 「俺、まだ親方からの用事があるから。……今度来たら教えてくれよ、頼むから」  彼が大きな手を振るのに合わせて、僕もまた手を振った。そうして青黒の髪が広場の向こうに消えるまでを見届け、役所へ戻る。ふたたび訪れた紋章課の保管庫はもぬけの殻で、クロイツの姿はどこにもなかった。  すっかり薄まった白墨の筆跡ばかりが、彼がここへは戻らないことを雄弁に語っている。

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