26

 目が覚めたそのとき、部屋に燻《くすぶ》っていた薄明は紛うことなき朝日の一端だった。  そう判じた理由はなんのこともない、扉を隔てた先にあるひとの気配が、朝に特有の慌ただしさを帯びていたせい。  簡単に身繕いをして外へ出た刹那、ちょうど廊下を歩いて来たアマリエと行き会う。 「おはようございます、ルカさま。朝の用意ができましたから、お部屋まで起こし行くところだったんですよ!」  幼さの色濃く残る少女の笑顔は晴れやかだ。  これを見ていると、否応にも日常へ帰って来たのだと思う。  もっとも僕らが街を出て行ったのは一昨日《おととい》の話で、帰って来たのも昨日の話でしかないけれど。 「それで結局、目付役をお辞めになるというのは本当ですか?」  朝食の席に着くや否や、彼女はそんなことを言った。どうやら昨日のうちに、エクリールから例の件についての伝達が出たようだ。  万が一クロイツが僕を連れ歩いていても、エクリールが容認した行動ではない――その事実を知らしめるのが目的だろう。 「うん、馘首《くび》になりました」  茹で卵の殻を剥きながら、僕は曖昧に苦笑をこぼす。  なるほどと何度もうなずいて、アマリエは白パンをちぎった。その姿を目の当たりにした僕は、あくまで心の中だけで胸を撫で下ろす。  ――僕はあの置き手紙に、出立の目的を書かなかった。それでもエクリールは僕らの目的を知っていたようだが、周りに告げてはいないらしい。  もしあれがわかっていれば、今ごろ引きちぎられているのはパンではなく、たぶんクロイツの服か髪の毛であったことだろう。なにせ彼女の所有物には、トゥーリーズ随一の鍛冶師が仕立てた糸切鋏が含まれているのだ。  それがあるから、僕は彼女に伏せられた事実を告げることはしない。起こった出来事も一切話さない。  そのように意を固めてから、けれどもしかし、と僕は思った。よくよく考えてみれば、エクリールは僕らの目的を知ってなお、制止するための手段を講じていなかったことになる。  彼は純血の獣ではないから嘘をつくが、リセリの最期を僕に見せようとしたのは、僕の誤解ではなかったようだ。あの男は少し気弱なふうに見えて、案外したたかで質が悪い。先生にそっくりだ。ふたりの親しさを鑑みるに、類は友を呼ぶというやつだろう。  僕らを見習うなよと、かつての彼らが声を揃えていたのを思い出す。 「ところで」  パンを嚥下したアマリエの声に釣られて、下向けていた視線を持ち上げる。 「次のお仕事はお決まりですか?」 「そういえば、決まってないかもしれない。前の仕事に戻ればいいとは思うんだけど……」  と言うよりも、昨日の僕はそれを確認する意識がなかった。おかげであの会話が終わった後、またいそいそと毛布を被って寝入ってしまったのだ。  ゆえにまずはエクリールのところに行くと告げた僕に対し、アマリエは首を横に振る。 「本日はお忙しいというお話です。火急の用でなければ明日になさいと、アルトゥールが」 「そうか。教えてもらって助かった」 「とんでもございません。主人の仕事を影からお助けするのも、侍女の仕事ですもの」  顔全体で笑う彼女にもう一度謝意を伝えて、僕は朝食の席を立った。  昨晩のエクリールは僕の目付役の任を解いたが、そのまま元の仕事のほうへ戻れとは言わなかった。対するアマリエには次の仕事があるのだから、僕がここに残って長話をするのはよろしくない。  とはいえ今日の僕には、本当にやるべきことがないのだ。だから市街のほうまで降りてもよいし、降りなくてもよい。どうしたものかと迷ったあげく、選んだのは後者のほう。  逡巡の証拠に新品同然の史書を抱えたまま、僕は領主邸の跡地に踏み込む。石造りの土台に乗り、奥へ、奥へ。正確には、宿舎の裏手のほうへ。  はじめて踏み入るその場所において、僕自身の目で確認したいことがあったのだ。  ――街を出る前、クロイツは僕とは別の道で壁を超えるのだと言っていた。彼がどのようにして壁を超えたのか、なんとなく知っておきたかった。そのために、わざわざ屋敷の跡に登った理由はただひとつ――彼が好む道を通ることで、見えるものもあるかと思ったから。  しかしながら結論から言うと、そんなものはなかった。屋敷の囲いは〈銀の壁〉と一部を共有する作りになっているのだが、ちょうどその共有部が見えただけ。  近づいて検分すれば、そこに階段がついているのもわかる。石の濃淡をうまく使って、遠目にはひどく見えにくく作られていたけれど。 「なんだ」  独りごちて、僕は階段の前へ回る。これを登って壁の上に着きさえすれば、あとは縄なりなんなりで下へ降りればいいのだ。僕には難しいかもしれないけれど、クロイツの身軽さと無謀さなら、さして困難な手法でもあるまい。なんなら飛び降りても構わない。  呆れたような気分を抱えながら、僕は段差をいくつか登った。そこで腰を下ろし、壁に背中を預ける。階段の外へ足を投げ出すと、飛翔の感触の残滓に似たものが感じられた。  小さく笑って、抱えて来た本を膝に乗せる。出かけるならと思って持参して来た本であるが、これを抱えたまま出て行くほうが、いくらか建設的であったかもしれない。  とはいえ、今さらになって外へ行こうという気にならないのもまた事実だ。  よって僕はこの場で本を広げ、慣れ親しんだ書体の活字に目を落とす。  そこに事実として綴られた、父の――王の死に続く言葉は少ない。第一王子の立太子についてが簡素に記述されているだけだ。その先に割かれている紙面が少ないのは、王太子である僕の弟が、まだ成人を迎えていないことに由来するはず。  しかし僕らは今年で十八の成人。即位ができる年齢だ。  そして戴冠式は通例として、白夜のはじめの夜明けに行われる儀礼である。次の白夜のさなかにはこの史記も編《へん》纂《さん》されて、ぐんと頁を増すに違いない。  いずれ来《きた》るべき日を想い、埋められるはずの空白を指でなぞる。  母と同じものを愛する僕の弟は、ここにどんな諡《おくりな》と偉業を綴られるのだろう。できれば母と道を違《たが》えたとしても、最後には善き王であったと記される王であって欲しい。  それからかたわらに名を綴られる王の獣も、彼にとってのよき友であって欲しい。  あれは王の人生において、ともすれば伴侶よりも親しい、唯一のものだから。  ――どんな獣がよいかしらと考えを巡らせながら、僕は史記のはじめの頁を開いてみる。  この本には歴代の王と獣の成したことの大半が綴られている。追い駆ければ、そのひととなりも少しくらいは見て取れる。が、何度も読んだ活字を改めて追う作業に対し、僕が飽きるのは早かった。  でも、頁の端にある数から察するに、だいぶ頑張ったほうではあると思う。――そういえばアマリエは、午後からは仕事がないと言っていた。いっしょに読めば少しは面白味が出るかしらと、詮のないことを考える。  ふと空を仰げば、雲の流れはずいぶん早い。活字を成すインクのかわりにそれを眺めることしばし、ぼんやりとした時間の終わりを告げたのは、馬の嘶《いなな》く声だった。  丘陵の上に位置するこの空間へ、馬がやって来るのは珍しい。細工師通りのように明確に馬や荷車を拒む道は珍しいが、ほかの通りでも、なにかと行き交うのに難儀する場合があるからだ。  おやと思って目を凝らせば、見張り小屋のあたりに騎馬の姿が見えた。  その手綱に結われた赤い布は、ここからでもはっきりと見える。早馬の証である。あれをつけた馬ならば、ひとであろうが荷車であろうが、強制的に道を開けさせることができたはず。なるほどと合点し、僕は階段を下った。  そのまま建物の影に隠れるようにして、騎手のほうを観察しに向かう。  かくしてまず目を引いたのは、軍服の肩に縫い止められた鮮やかな藤黄《とうおう》の臂章《ひしよう》。あれはたしか、アルシリア所属の軍人たちが使う色であると記憶している。  ついで僕の目を引いたのは、馬上のひとの白い髪。  雪と同じく蒼い影を落とすあの色を、僕はよく覚えていた。父の獣と同じ色――白梟の本性を隠した獣の髪だ。  つまりは彼は、ユードヴィールやイラテアの同族である。その証拠とばかりに、鞍を降りる所作は羽根のように軽やかだった。  まだ年若い男の姿をした獣は、駆け寄って来た軍人へ手綱を手渡す。  ついで二言三言と短く言葉を交わし、並んで役所のほうへ去って行った。  彼らの姿がすっかり見えなくなってから、僕は改めて彼の臂章《ひしよう》についての記憶を辿る。  役人たちが連環の腕輪で所属を示すように、軍人たちは徽章《きしよう》の紋で所属を示す。役人たちの腕輪は素材と輪の数で見分けるが、軍人たちの場合は意匠と位置で見分けがつくのだ。  思い返せば、あの男の臂章には白糸の刺繍がしてあった。あれはたしか―― 「ちょうどいいところにいた」  快哉《かいさい》に近い声を聞いて、僕は伏せがちになっていた顔を上げる。 「……クロイツ」  領主邸跡の土台の上を駆けて来た姿は、もう見慣れたものだ。ましろの姿はそのまま土台の上で足を止める。  ――てっきりもう二度と会わないような気がしていたけれど、彼とは会わない可能性のほうが低いのだった。なにせ彼の雇い主は、未だエクリールから変わっていない。 「なんだ、犬が隣で爆竹鳴らされたみたいな顔して」 「どんな顔だ、それは」 「ちょうど今のおまえみたいな」  僕は右の掌で自分の顔を撫でた。  しかしながらやはり、触れただけでは自分の表情はよくわからない。僕が眉間に皺を寄せるのと入れ違いに、クロイツはすらりと細い腕を組んだ。 「おまえさ、今さっき来たやつ見た?」  うなずいて見せると、わずかに目を眇《すが》める。 「徽章の紋もちゃんと見たか?」 「藤黄に花弁が六枚の――なんだろう、はっきり見たわけじゃないから、断言できない」  嘘をついてもどうしようもないことであるので、それについては正直に答えた。 「それだけわかれば御の字だ」  小言のひとつも降って来るかと思ったが、返答はあくまで明るい。同時に心底喜ばしげに笑って、彼は身を翻した。そのまま数歩前へ進んでから、不意にこちらを振り向く。 「来いよ」  さも当然と言わんばかりの声に、僕は溜息をついた。けれども言われるまま彼の後をついて行くことに関して、拒否はしない。  別に拒否しても構うことはないのだが、断る理由が見つからなかったせいだ。それになんだか、呼ばれているのについて行かないのも落ち着かない。  そうして僕らは領主邸の基礎の上下を並んで歩き、役所の中に入り込む。  久方ぶりに訪れた昼日中の役所は、さざめきにも似たひとの気配で満ちていた。白衣の魔術師は迷うことのない足取りでその中を進み、扉のひとつを開く。  流れ出た空気には、鼻の奥が乾くような、刺激のある独特な匂いが濃く混じっていた。インクや顔料の匂いと混じり合った、虫除けの花香《かこう》に特有の匂いだ。  クロイツはその匂いに息を詰めることもなく、扉の向こうに踏み込んでいく。 「……ここって、紋章課の保管部屋だよな?」  この刺すような香りは、王都の紋章院で嗅いだものと寸分の違いもない。  そして紋章課とは、貴族や組織が身分証として用いる紋章を管理および発行する、紋章院の下部組織という扱いになる。大都市にしかない紋章院とは異なり、紋章課は役場があればどれだけ小さな都市であっても存在した。 「まさか、あのひとの所属先を探すつもり?」  紋章課の機能は、相手方の身分を保証するための紋章の参照に限られると聞く。ただし紋章の数は膨大で、専任の担当者でもなければ、目当てのものを探すだけでも大変な労力が要るとも聞いた。  なにせこの部屋の壁はほとんどが棚であり、そこには隙間なく紋章を記した冊子が収められている。知らなくても見ればわかるという有様だった。 「それ以外になにがあるんだ。少しは考えてから喋れよな」  罵倒とともに懐から引き出された手には、白墨《チョーク》がひとつ握られている。  魔術師は外套の裾を捌いて腰を下ろし、それを使って床に書き物を始めた。 「というわけで俺は、今から失せもの探しを敢行する。壁にぴったり張り付いて、絶対に動くなよ」 「――失せもの探しに要る注意か、それが」  ドアを探せばドアのほうから吹っ飛んで来る。彼はイラテアの屋敷において、みずからの失せもの探しをそのように表現した。  それがなければ、さしもの僕も彼の指示に従うことはなかっただろう。ついでに、自主的に頭を庇うようなことも絶対にしなかった。 「正直俺、これの速度調整そんなに得意じゃねぇんだよな……」  白魚めいた指先が、暗褐色の床に白墨を躍らせる。円を閉じ、言葉を綴り、引かれた線がそれらをつなぐ。止まることのない所作を不審に思って、僕はしゃがみ込んだクロイツの肩越しに床を覗いた。  そうしてわかったのは、床にはすでに何度か白墨を使った形跡があるということ――白墨の先端はそれをなぞっているだけだった。  跡が残るほど回数を重ねても上達しないということは、彼の魔術の才はけっして突出していないのだろう。 「藤黄に花弁が六、間違いはないか?」  ほとんどすべての跡を上書きしてから、クロイツは僕を振り返る。  うなずいて見せると、跡とは別の箇所に何事かを書き込んだ。 「色は白だった」 「ハイ、白ね、白……と」  開いた環の端にさらにひと言。最後に描いたものを指差しで確認し、彼は立ち上がった。 「〝はじめに言葉ありき。四《よん》鎖《さ》の陣、一《いつ》端《たん》を開いて招く〟」  落ちる言葉は歌に似ている。  けれどもそれは恋を謳うものではなく、尊い誰かを讃えるものでもなく、ましてや祈りでもない。いつかの子守唄を模したものと同じく、もっとうんと根源的に、ただあるものをより的確に語るためのものだ。 「〝次に供《く》儀《ぎ》。四《よ》ツ組《くみ》の言の葉、揃えて礼を成す〟」  だから正確に表現するのであれば、彼の歌が言葉に似ている。本来はこれを聞き届けるべき者も僕ではなくて、形而下《ここ》にはいない御方であるはず。  僕などはただ、クロイツが彼へと語りかけるのを、かたわらで聞いているに過ぎない。 「〝おわりに報奨。応ずるもの、食らうもの、すべて等しく円環の内へ在れ〟」  洗われるように空気の匂いが消えて行くことが、その証左。  ここにあるのは匂いに対する感覚質を失わせるに足るだけの、情報の飽和だ。  それを起こすだけの質量を持つ僕ではない誰かがこの場に降りて、魔術師が語らう言葉を聞いている。それは僕らが住まう雪国において、あまねくすべての場所と時間に存在するという、万古不変の獣として語られるもの。  ――返答のかわりに空が鳴く。ひしめくように棚が揺れ、何冊かの冊子が落下した。  それらはばらばらと開いて中身を露わにし、床の上で沈黙する。最後にクロイツが強く手を打ったとたん、唐突に鼻の奥が痛んだ。  匂いが戻って来ている。|偉大なるかたちの獣《アデライード》はもういない。 「やっぱり探すものが曖昧だとダメだな、失せもの探しは。あと、冊子は頁が背にくっついてるのもよろしくない」  彼はそのようにぼやきながら、手近に落ちた冊子を拾い上げる。横手から覗き込んだ頁には、藤黄の地に蝋で白抜きされた花の図案が記されていた。 「おまえが見たやつ、これか?」  首を横に振る。するとクロイツは特に惜しむ様子もなく、冊子を閉じて棚へしまった。さらに次の冊子を拾い、僕のほうに紙面を向けて来る。 「それも違う」 「……じゃあこれ」  ふたたび新しい紙面を見せられたとき、僕ははっきりとうなずいた。  鋭く尖った六枚の花弁――団結を示す槍水仙《イキシア》の花の紋。それを掲げることを許されているのは、この国においてただひとつ。 「西方司令部だ」 「……またずいぶんなところから来たな、オイ」  クロイツはフードの上からがりがりと頭を掻いた。 「大将の上官のところじゃねぇか」  司令部は王都によって設立される機関であり、地方ごとの都市にいる軍を統括する立場を取る。中でも西方司令部に属するのはトゥーリーズとトゥーラ、アルシリアの三都市のみ。  中でも花だけの紋をつけることを許されたのは、司令部直下の人員に限られる。つまりあの男は、司令部からの急使で間違いない。 「なにか厄介ごとかな。……逮捕とか」 「いやぁ、さすがに逮捕はねぇだろ、急が過ぎる」  クロイツはそう言って手中の冊子を閉じ、残りの冊子と一緒に棚へ戻した。  僕も手伝って本をしまったが、開かれた頁にはどれも藤黄の地に白抜きの花が描かれている。失せもの探しの魔術の効果のほど自体は、どうやら覿《てき》面《めん》であったようだ。 「まあ、わかれば俺のほうでも色々と用意ができる。おまえが見といてくれて助かったぜ」  そう告げた彼は、これから床を掃除するらしい。もう手伝いは不要だと紋章課の部屋を追い出されてしまったものだから、僕はそのまま役所を後にした。

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