来未優歌

 夜の九時を過ぎた頃、夕食の香りが仄かに香って来る住宅街を、一人の女子高生、来未優歌が一人歩いていた。その歩調に合わせて、黒いストレートヘアーも小さく揺らめく。右手に鞄を持って、黒を基調とした制服姿を着ている優歌は、学校帰りにいつも通っている小さな喫茶店に寄って、授業の復習や宿題をしたり、小説を読んだりしている。  いつもなら丁度良い時間に喫茶店を帰路につくのだが、今日は、先日の休みの日に買った小説が中々面白く、読み耽ってしまったために、帰る時刻が遅くなった。  優歌は住宅街に入って、誰ともすれ違わなかった。帰る時刻は遅くなったが、帰っても特に何かをするわけでもない彼女にとっては、大した問題ではなかった。そっと空を見上げる。暗い夜に、薄い雲の向こうで月がぼんやり浮かび、星は目を凝らしてやっと見える程度しかない。彼女の整った、綺麗な顔立ちには、しかしどこか、暗いものがある。言葉にし難い不安、憂い、諦念……  再び視線を前に戻して、歩き始める。少し先の、街灯の白いライトに照らされている駐車場の前に横づけで止まっている車の前に通り過ぎた。その時、運転席のドアガラスが開くと、金髪に赤いタンクトップを着た男が、通り過ぎた優歌の後姿にじっと視線を注いだ。そして、一瞬顔をニヤつかせると、中に引込んで、中にいる友人達に何かを語り掛ける…… 「か~のじょ」  そんな軽薄な声を掛けられ、優歌は立ち止まって後ろを振り向く。視線の先にそれぞれ、先程の運転手に、ヒップホップ系ファッションの男、茶髪にバリアートの入った、白い制服姿の男の三人が立っていた。三人の男が、優歌の方へ歩いて行くと、優歌は一瞬顔を強張らせつつも顔を前に向け、早歩きで歩いていこうとする。 「待ってよ~」  優歌の方に回り込みながら、男三人は優歌の行く手を遮る。バリアートの男が、優歌の肩を抱く。 「ねぇねぇ、俺達って、同級生じゃない? その制服、この辺のだよね?」  優歌は困惑した様子で何も答えない。 「今暇じゃない? もし良かったらさ、一緒に遊びに行ったりしない? 色々奢るよ? マジでマジで!」  ヒップホップ系ファッションの男にそう言われて、優歌は戸惑いの笑みを浮かべる。 「あの……ごめんなさい」  頭を小さく下げながら、優歌は男達の中から出て行こうとする。 「まぁ待って待って」タンクトップの男が止める。「じゃあさ、家送る。家送るから良いっしょ」  そう言って、三人は力づくで、優歌を車に向かわせようとする。 「あのっ……ほんとに……大丈夫です……」  今にも泣きだしそうな様子をしながら、優歌は必死に抵抗する。しかし、男達の力は強く、その握られた右腕の締め付けは、抵抗するごとに強くなっていった。優歌は叫びたかったが、氾濫した川をせき止めるダムの様に、強張った身体が叫ぶことを抑え込んでいた。  そして車の真横まで、三人の男が優歌を引っ張って来た時だった。 「なぁ……何か聞こえねぇか?」  ヒップホップ系ファッションの男が、後ろを振り向きながらそう言った。 「あぁ?」  白い制服姿の男がそう反応し、タンクトップを着た男も反応を示すと、三人の男は、辺りに視線を向けた。  男達の態度の変化に気付いた優歌は、何とかこの場を逃げ去ろうと思った時、三人と同じように何か音が大きくなって聞こえてくることに気が付いて、動くのをやめてしまった。  その音はだんだん近付いて来る。その音は空から聞こえてくるような気がして。優歌が空を仰いだ。月明かりで雲が薄らと見える、墨汁を垂れ流したような夜空だった。 「おい……何だあれ」  優歌と同じように空を仰いだ三人の内、タンクトップの男が、少々怯えたような声音でそう言った。姿は見えないが、明らかに黒いものが、こちらに近付いてきていた。 「ち、近付いて来るぞ」  ヒップホップ系ファッションの男がそう焦る。 「つうかあれ人じゃね!?」  バリアートの男がその推察と可能性のあり得なさに驚きつつ叫ぶ。優歌は怯えつつ、静かにその様子を見守る。  ――空から人が、孔雀華朱雀が、四人に向かってかなりの勢いで落ちてきていた。 「あーぶねぇぞぉぉぉ!」  次第に、朱雀の叫び声が四人の耳に入って来た。  三人の男は優歌を置いて、その場を離れた。優歌は相変わらずじっと、駐車場の入り口の前の、三人の男を乗せていた車を背にしてライトに照らされながら、魅入ったかのようにその朱雀の姿を見つめている。朱雀の目にも、少女の顔が映り、同時に叫ぶのをやめた。一瞬、二人は見つめ合う形になった。  ……そう思ったすぐ後に、朱雀はものすごい勢いで優歌の頭上を通り過ぎ、後ろの車に激突した。車は朱雀の勢いに巻き込まれて駐車場の中の真ん中辺りまで引き摺られると、そのままひっくり返ってしまう。優歌は、微妙に汗をかき、唖然としながら見つめながら後ろに下がっていく。  ……次の瞬間、車は大きく爆発した。 「キャァッ!」  少女は思わず、身を縮かませる。そして恐る恐る、爆発した車の方を見つめる。車は橙色の炎を上げながら、ぱちぱちと言う渇いた音を立てながら燃えていた。少女と三人の男は、呆然とその様子を見ていた。 「く、車……」  何が起こったか良く分かっていないというような調子で、タンクトップの男が、それだけを口にした。  その時、車の方から、何かが殴られる音がした。優歌は目を少し見開く。何度か、車から殴られる音が聞こえて来たかと思うと、車体を貫いて、燃え盛る炎の中から一本の腕が飛び出て来た。炎がさらに燃え上がる。 「ひっ!?」  誰がとも無く、そんな叫び声が上がり、三人組は一気に恐怖に染まり、そのまま逃げ去っていった。優歌もその場で固まり、大きく息を上げていた。その目は、今起こっている光景を一気に受け止めんばかりに大きく見開かれている。しかし彼女は、不思議と恐怖を感じず、むしろ冷静でいることが出来た。車に落ちる前に見た朱雀の目が、どういう訳か彼女を頭に浮かんだ。  もう一本の腕が出て来ると、その両腕で車を抑えつつ、朱雀は上半身を車から飛び出させ、そのまま弾みをつけて、一気に全身を飛び出させ、車の上に立ち上がった。炎の中ということもあり、朱雀の姿が良く見えなかった。何となく、頭や手に、赤い模様が引かれているように見えた。  すると突然、朱雀を取り巻いていた炎が突然渦を巻き始めたかと思うと、そのまま空に向かって舞い上がり始めた。優歌は舞い上がる炎を目で追いかける。炎は夜空に向かうにつれ次第に細くなり、やがて消えていく。その光景は、奇妙であると同時に、言葉にし難い美しさがあった。優歌は思わず、この光景に魅入ってしまった。  車の炎が消え、夜空に舞い上がる炎も当然消える。先ほどの惨状が嘘かと思えるほど、辺りは静かになった。車の燃えた後の臭いと、ガソリンの不健康な臭いを、優歌はその嗅覚で捕えた。暗闇の落ちたその光景の中で、朱雀は車から降りる。朱雀の身体から、煙が上がっている形跡は無かった。  朱雀がゆっくり近づいて来るのを見て、彼女は一気に緊張した。この時初めて、彼女は我に返ったのだ。何を言おうか、どんな顔をしようか、そもそも自分はどうすれば良いのか、いったい何が起こったのか。彼女の頭は混乱した。頭に浮かんだいくつかのことは、少し考えれば十分満足のいく答えを導き出せるはずであったが、彼女は余裕をなくしていた。  朱雀は優歌の目の前に迫り、遂に駐車場の入り口のライトに入ってきた。身長は優歌より少し大きい位で、赤い髪をしている。右側頭部の髪が、ワックスを掛けたかのように上向いており、見ようによっては炎を模しているようにも見える。朱雀は彼女の顔に顔を近付けてきた。彼女は朱雀の行為に一瞬ドキッとしてその頬を少し赤らめつつ、朱雀の顔を見た。  自分と同じ年だろうが、優歌を観察するかのように大きく見開かれたその瞳と、柔らかな唇で閉じられた口には、子供の様な間の抜けたあどけなさが強く残っている。その表情も、何かを探ろうとしつつ、何かを心配しているということも、何かしらの疑念を掃おうとすることも無い、好奇心が浮かんでいた。首にネックレスの紐がぶら下がっている。  少々焦げ臭かったが、火傷を負っている様子もない。とても先ほど、空から車に突っ込み、爆発、炎上する中を堂々と現れ、その炎を消し去った存在だとは思えない。彼はこの瞳で、この顔で、この表情で、何でもないことであるかの様に、それらを行ったのだろう。この朱雀は恐らく……  その時、朱雀は顔を優歌から離し、笑顔を浮かべる。その笑顔がなお一層、朱雀の子供っぽさを強調した。 「大丈夫か?」  穏やかなトーンで、朱雀は優歌に尋ねる。 「えっ? ……は、はい」 「いや~悪いな」そう言いながら、朱雀は笑顔で後ろ髪を掻く。「ちょっと調整に失敗して。まぁ怪我がなけりゃあ良かった……他にもいたと思うんやけど」  朱雀は男三人組が走り去っていった方向を見る。優歌も、朱雀にそう言われて初めて気が付いたように、その方を見る。所々、電柱のライトに地面を照らされつつ、家々と道路は闇に沈んでいた。男達の影はもう見えなかった。 「まぁ、たぶん大丈夫だよな」  そう言って、朱雀はあどけない笑顔で優歌に目を向ける。ほぼ同時に、優歌も朱雀の目を合わせた。 「あーっと……ヒアマっていう人の名前、知らん?」  少し考える仕草を見せた後、朱雀は尋ねる。 「ヒアマ……さん?」  優歌に、ヒアマという名前で思い当たる者は出てこない。しかし、何となく聞いたことがあるような気がしたので、少し考えてみた。 「……ごめんなさい。思い当たる人はいないですね」  優歌は少々戸惑いつつ、何処となく恐る恐る、そう答える。 「そっか。分かった。それじゃあ、俺はもう少し探してみるよ。それじゃ」  そう言って、朱雀は、男三人組が消えた方向に走り出す。 「あっ、あの……」  そう呼び止めようとした時、朱雀はすぐそこにある曲がり角を曲がってしまった。優歌は走って追い掛ける。しかし、曲がり角を見ると、そこにはもう誰もいなかった。優歌は驚いた様子で口を小さく開け、微妙な焦げ臭さを感じつつ、目の前を伸びる夜道をじっと見つめ続けた。

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