25

 毛布を飛び出しても外は眩しくない。おかげで扉を開けるのに苦労はなかった。 「まだお休みでしたか?」 「ううん、今さっき起きたところ」  扉の前に立っていたアマリエは、くすくすと笑った。その手には木のトレイがあり、ふたつ並んだ器には燕麦の粥が盛ってある。それを見たとたん、胃が動いた感覚があった。ついでに情けない音が勝手に空腹を訴えるものだから、僕は慌てて顔を覆う。 「もう夕方ですよ」  転寝《うたたね》くらいに思っていたら、ずいぶんな時間が経っていたらしい。  外から射し込む光は曙光《しよこう》ではなくて、翳《かげ》りつつある黄昏の光だったのだ。道理で眩しさが少ないわけである。 「つまり二食も抜いたわけだ」  腹が減って当たり前だ。アマリエは笑ったままトレイを差し出してくれる。数がふたつであることが、今はひたすらありがたかった。  そうしてベッドの上に腰かけて食べた麦粥は、甘い。蜂蜜と香辛料で味をつけた、王都のあたりで作られる麦粥の味。これを作れるということは、アマリエが王都近郊の出身であるという話も、どうやら嘘や勘違いではないらしい。  そしてその味を妙に懐かしく感じたのは、僕自身がトゥーリーズに慣れ切ってしまったせいだろうと思う。  どこか空虚な食事を終えたころに、アマリエが井戸の水を汲んで来てくれた。それを暖炉で沸かして身体を拭うと、急にまともな人間になったような気がするから不思議だ。  皺ひとつないフランネルのシャツを着込み、背筋を伸ばして部屋を後にする。  アマリエ曰く、エクリールはすでに役所のほうへ引き上げているとのことだった。 「ルカさまがいなくなったのが判明してから、すぐに役所へ戻られましたよ。特に慌てたりもしないで、きちんとご自分の足で」  聞けばクロイツが馬を盗んだせいで、昨日の宿舎は結構な騒ぎになったらしい。  そこへ伝令の獣が飛び込んで来て、彼が僕を拐《かどわ》かして逃げたかもしれない、という話が伝わった。けれども調べてみれば僕の割符がないことも判明し、拐かされたのではなく唆《そそのか》されたのだという騒ぎに変わった。そこでようやくエクリールに事態が伝わったという。  顛末を聞いた彼は、部下には追《おつ》手《て》を戻すよう指令を出し、側仕えの侍女には僕らを迎えるようにと命じて、役所のほうに引き返したのだそうだ。 「いちおう書き置きはしていったんだけどな」 「あれが見つかったのは、アマリエが敷布を交換のために、お部屋へ入らせていただいたときですよ」  ――つまりは手遅れだったというわけだ。ごめんと小さく告げると、アマリエはすんと鼻を鳴らして見せた。晒布の入った桶を抱え直し、水場のほうへ消えて行く。  残された僕は一旦外を経由して、役場へと足を踏み入れた。  そうして階段を登って向かった廊下の先に、いつもどおりのましろの姿を見る。 「もう洗って乾いたんだ、それ」 「石鹸と暖炉に頑張らせればすぐだ」  作りものめいた白面《はくめん》がつぃと歪んで、笑う。 「木工通りの下の雑貨屋にある石鹸はな、とにかくすげぇぞ。軍服は色が落ちるけどな」  僕は肩をすくめて、なるべく近い表情を作って返した。 「白物に困ったら買ってみる」  エクリールの居室の戸を叩くのは、僕の役目だった。  ほんの瞬《まばた》きほどの間を空けて、お入り、と掠れた声がする。  声に従って入った室内には、吊られた角燈《ランタン》から白い明かりが落ちていた。わずかに青みを帯びた光の下で、エクリールは角燈そのものを見上げている。  その鮮やかな青のまなこが、するすると落ちて僕らのほうを見た。 「お座り」  告げる声音は低く、煙の匂いはごく薄い。みやびやかな細工の煙管は、文机の上に置き去りになっている。――いつもエクリールが吸っている香薬は、そもそもの来歴がヒトと獣に幻覚を見せるための薬だ。彼はそれを以て病のない身体の夢を見続けるが、けっして褒められた類の薬ではない。  思考を鈍らせるこの薬を名指しして、麻薬と呼ぶ領地も皆無ではないと記憶している。  その事実を噛み締めながら、僕はエクリールの向かいの椅子に座した。クロイツは僕の後ろからやって来て、同じだけの距離を開けたまま、椅子には座らず足を止めた。 「まずは君たちが無事に帰って来てくれてなによりだ」  僕ははいと答えたが、魔術師は口を開かない。かすかに衣擦れの音がして、彼が腕を組んだことだけがわかる。  エクリールは隻眼を細めて、まっすぐに僕を見た。 「して、なにか僕に聞きたいことはあるかな」  骨と皮ばかりの指先が、血色の悪い唇を撫でる。それがいつもの煙管を求める所作であることを、僕はよくよく知っていた。  だからこそ、質問は可能な限り手短にせねばならない。 「イラテア商会とはいつから?」 「正確性を求めるなら、僕が生まれる前から。家ぐるみでこういう商売をしていると、いつまでも避けて通れる相手でもないし」  因果なものだと呟いて、彼は隻眼を伏せた。 「とはいえ君が聞きたいのは、こういうことではないんだろうな」  角燈の中で炎が爆ぜる音がした。エクリールが目線を上げる。  ――先生がかつてあかがねにたとえた炎の色は、エクリールの虹彩の色でもある。ただただひたすらに澄んだその青は、見つめ続ければ瞳に焼き付くようだった。 「この件については事故の少し前からだよ」  清閑《せいかん》でありながら苛烈。烈々《れつ》としてなお冴え冴えしい、燃える炎の青の色。 「もし国と事を構えるつもりがあるのなら、なにかと入り用だろうという話でね」  後ろ頭に鼻で笑う音が当たった。当てて来たのが誰であるかについては、振り返ってたしかめるまでもない。クロイツだ。  ひそかに商会と通じていた彼にとって、己の主人まで商会と通じていたという事実は、まさに寝耳に水だろう。  元々知っていた可能性もあるが、それを判じるには材料が少ない。 「国と事を構える、というのは」 「端的に言うなら王妃を政《まつりごと》の場から追い出す、と言うことさ。……もっとも端《はな》から実行する気はなかったし、交渉は決裂したけどね」  エクリールは煙管を銜えた。ついに、と言うには短い我慢だった。  ましろの煙が空を泳ぎ、背後からはささやきより幽《かそけ》き声がする。わずかに僕の髪を揺らした風が、香薬の煙を千《ち》々《ぢ》に払った。 「なにせ、錦《にしき》の御《み》旗《はた》が……その後に続くものが、なにもないから」  今なお王妃を信奉する貴族は少なくない。その最たるは弟だ。次に、母の配剤で位と土地を得た者たち。彼らの姿を思い浮かべて、僕は膝上で拳を握る。  母を追い出すということはつまり、彼らと相対することでもあるのだ。彼らを平らげて母を排したならば、次は彼らを納得させられる王が必要になる。  獣と賢者の威光を一身に承《う》け、王妃の影を払うただひとりの王が。  ――それを思えば、言いたいことは山とあった。けれども、どれも言葉として出すことができない。 「後に続くものがあれば、やるのか」  僕の言葉を遮《さえぎ》ることなく問うたのは、クロイツだった。  常々の涼やかな声音は、冷えた鋼に触れたよう。あるいは冬の夜の厳《おごそ》かな寒気。一切の矛盾を孕むことのない冬の声音は、ここに至ってなお、僕が振り返ることを許さなかった。 「無論だとも」  声色の強さを恐れることなく、エクリールは隻眼を上向けた。微笑む青の瞳は、まっすぐにクロイツを見ている。  魔術師は、そうかとだけ応じた。  その黒い双眸が見るものを追う勇気を、僕は持ち合わせていなかった。 「質問はそれだけかい」  笑みの気配を忍ばせた声に、ひとつうなずく気配がした。エクリールもまた首肯の仕草を見せ、椅子の背もたれへ深々と体を預けた。  彼の思索を示すように、白色が室内を染め上げていく。 「では、僕のほうからもいくつか聞いていいかな」 「もちろんです」  磨かれた飴色の家具も、窓際の花台も、すべてが柔らかな白さに落ちていく。  その中でエクリールの紙のような面を見出すことができるのは、魔術の加護があるからにほかならない。加護を授けてくれる当の魔術師はといえば、おそらく腕を組んだままの姿勢で、僕の背後に佇んでいる。 「もしも僕が新しい王を擁立するなら、足りないものがある。それがなにか、わかるかい」  僕はわずかに目線を落しとた。示すべきものはふたつのうち、たったひとつだ。しかしながら、それは複数の言葉によって呼称される。だからこそ、僕はその呼び名にのみ迷った。  あれはヒトと竜が成した盟約の証、もっとも尊い契約の担い手、竜の名代《みようだい》の片割れ、玉座の護り手。あるいは―― 「本気でわかんねぇと思ってんなら、幻覚剤《くすり》やめて出直すんだな。そりゃあ〈白夜《びやくや》の討ち手にして極夜《きよくや》の守護、黎明にありては弓を引き、桑楡《そうゆ》にありては帳《とばり》を引く者〉――つまるところ〈宵守《よいもり》の君〉の次だろ」  触れることさえ厭われる、厳冬の声。それが滔々《とうとう》と告げたのは、僕らの父に仕えた獣の真の名前だった。その響きを聞き入れるに至り、エクリールはうそりと瞼を閉じる。 「王の獣は王ひとりにつき一頭だ。逆もまた然《しか》り。だからもしも僕が誰かを王位に就かせるのなら、まずはそれを探さなくてはね」  王位を継げる誰かではなく、王の獣を求めるならば、彼の目標《のぞみ》はただひとつだ。  ――この国の玉座は、常にふたりの竜の名代によって支えられる。片方は相談役として在り、ときに竜の意を請うて伝えてくれる魔術師。もう片方は王を守護し、契約を以てその治世を見届ける獣。前者は生きていれば先生がなってくれるだろうが、わたしは後者を持たない。  だからもしも玉座を前にしたとしても、僕はそこに座ることができない。  けれども逆を正せば、獣がいればわたしは玉座に座すことができる。つまりは王位を得ることができるのだ。ゆえに王位を求めるならばそれを得よと、エクリールは言っている。 「あと、そうだ。リセリ師はどうした?」  ふたつめの問いに、肩が跳ねた。まさか彼の名前が出るとは思わなかった、などと言えば嘘になるが、そんなものは驚かない理由にはならない。  エクリールはそんな僕を見て、さも愉しげに口の端を吊り上げた。 「……イラテアから来訪のわけは聞いていない?」 「娯楽、とだけ」 「そうか。まぁ、実際にはそんなに難しいことではないよ」  低い笑いは白煙を伴わない。  ゆえにエクリールは二の句を継ぐより前に、煙管の中身を入れ替えた。 「どこぞで法を超えてひとを処罰するような件があれば教えてくれ、というくらいで」  君に見せるから。そう続いたかもしれない言葉のかわりに、室内を満たす白さが密度を増したようだった。 「して、先の問いへの返答はどうだい」 「蜘蛛の巣谷へ連れて行く、と」  イラテアが教えてくれたのはそれだけだ。エクリールはひとつ首を縦に振り、煙管の中身を捨てる。骨と皮ばかりが浮いた指に震えはない。 「魔術師と学士の総本山か。木の葉を隠すなら、というやつだな」  あげく蜘蛛の巣谷――オルトヴィロウ大学府《だいがくふ》は、王妃の故郷である。万が一彼女が兵を差し向けたところで、方々から批難を浴びることは目に見えている。  僕らの母がそれを成し遂げられるとは思えない。 「あの婆さんもまだ頭は回るな。トゥーラから引き渡しの依頼が来たら、こちらは知らぬ存ぜぬで通すとしよう」  エクリールも考えることは同じと見えて、それ以上はあの魔術師の処遇について言及しなかった。  かわりに彼は机上に肘をついて指先を組み、そこに顎を乗せることで頭を支える。先生がよくやって見せた、ひとの顔を覗くための所作だ。 「だいぶ寄り道をしてしまったが、そろそろ本題に入ってもいいかい」  僕は糸で引かれたように背中を伸ばす。こちらもまた先生に相対していたときの、僕の癖のようなものだ。目前に据わった先生の友人もそれを憶えていると見えて、にわかに破顔する――と見せかけて、目が笑っていなかった。唇にかすかな笑みの気配を帯びているだけ。  おかげで僕は、彼の瞳から目を離せない。目線を断ち切ることが妙に恐ろしかった。 「では、端的に言うよ」  けっして大きくはない声が紡ぐ言葉は、一字一句、違うことなく僕の胸に落ちていく。 「本日この時刻を以て、君の目付役の任を解く」  珍しくよく通る声で言い切ってから、エクリールはようやく瞳に笑みの色を浮かべた。 「補足しておくと、君が悪いわけではなくてね。……なんと言うかやはり、僕がクロイツから目を離すとろくな結果にならないと学んだ」  クロイツはなにも言わなかった。  いっぽうの僕は、ようやくエクリールの隻眼から目線を外すことができた。喘ぐように息を吸い込んだところで、それまで呼吸を忘れていた事実に気づく。  ふたたび煙管を銜えたエクリールは、火皿をふらふらと上下に揺らして見せた。 「正直なところ、元より目付役としては期待してなかったんだけどね」 「それについては重々自覚があります……ありました」  ハイロも、アマリエも、僕自身も、目付役など建前だろうと考えた。つまりそれは目付役という名の足枷であったわけだが、クロイツはそれを一切苦にしなかった。むしろ足枷がついているからと、平気な顔で余計なことをさせた気さえする。  申し訳ないやら恥ずかしいやらで、僕は深々と頭を下げ――られなかった。下げようとしたところで襟首を掴まれ、無理矢理姿勢を正される。  下手人については、たしかめるまでもない。 「おまえは俺相手によくやったほうだ。だから気にしなくていい。どうせこいつだって、完璧に俺を御せるわけじゃねぇ」 「君、いちおうはエクリールの雇われだろうに」  振り返った僕の顔を見下ろして、クロイツはすんと鼻を鳴らした。 「俺は金に困って雇われてやってるだけだ。……アマリエとは違ってな」  ましろの面には薄青の影が射している。仰ぐばかりの僕から見れば、歪みも変化も均一に影に飲まれて、表情のほどまではわからない。彼の内心を推察するための材料は、薄い唇からこぼれる声を拾うことでしか得られなかった。 「だから俺は、気に食わなきゃいつだってここを辞めてやるし」  しかしながら今日の魔術師の声は、僕が聞いたことのない類の声であり―― 「次に行く先も、自分で選ぶ」  夜明け前の空気にも似た、ひどく透き通った声色だった。  ゆえに、僕は彼の意図を判じかねる。けれども恐らく、僕の推測などクロイツにとってなにひとつ必要がないことなのだ。  ――だというのに、続く声音は緩々といつもの調子を帯びて行く。 「おまえを振り回して遊ぶのは、なかなか楽しかったけどな」  別れはいつだって唐突だ。言葉のただひとつで、ふつりと切れることもある。  それはちょうど僕とわたしが別れたときに似ている。離別の後、これからも続いて行くものがあるという点においては、特に。

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