24

 アマリエは僕から上着を預かると、廊下の向こうへ消えて行った。  そうして自室の前にひとり残されたまま、過ぎ去ってしまった夜を想う。冷静になってみると、昨日から今日へ、すとんと飛ばされて来てしまったような気分がした。  部屋のドアノブを開けて中に入れば、かすかに花のような香りがする。石鹸で洗って干されたシーツの匂いだ。こればかりは一朝一夕の作業でつけられる香りではない。  それを胸の奥に吸い込んでようやく、自分が成し得たことに思いが至った。  僕は、僕らは、ひとりの魔術師を死の淵から掬《すく》い上げたのだ。  一連の騒ぎと移動によって、髪も身体もずいぶんと埃っぽい。けれどもこの早朝の刻限に湯を沸かして洗うのは手間がかかる。それを成し遂げる気力はとんと湧いて来なかった。誰かを呼んで手伝ってもらうのも気が引ける。  寝具を整えてくれたアマリエには申し訳ないが、今日は寝てしまうほうがいいだろう。  幸いにしてエクリールは、僕に休むようにと命じてくれている。都合のよいところだけを継ぎ接ぎするようで心苦しいが、身繕いは後に回そうと腹を括った。  しかし、流石に外出着で眠るのは自分自身が寝苦しい。せめて着替えを、と開いたクローゼットの中、不意にこちらをうかがう目が一対。  目が合った。  ――このクローゼットは、宿舎の個室に備え付けのものである。ゆえにその作りは、僕ならばけっして選ばない作りをしている。わかりやすく言うのであれば、扉の内側に鏡が付いているのだ。  目が合ったと感じた理由は単純に、僕自身の目がそこに映っていたせい。  正直に告白すると、僕は鏡が好きではなかった。鏡の中に映り込む、自分自身の顔が嫌いだった。だからこそ普段であれば、身支度のときでも鏡を覗くことは絶対にしない。覗かなくても済むように、訓練した。  結果として僕は鏡がなくとも、いつもの姿でいられるようになった。  いつもの、というのはつまるところ、僕自身のきょうだいの姿にほかならない。  母譲りの花緑青《はなろくしよう》の目。父譲りの枯野《かれの》色の髪。左の頬には、あるかなしかの薄い傷跡。  これが、わたし。高貴なる姿の竜と盟約を交わした王の裔《すえ》、名をルカ・アデル・セン・クレイゼラッド。  わたしは少しだけ目を細めて、先ほどと同じ表情を象《かたど》ろうとする。  けれども元の表情を詳しく知らない以上、それは最初から無理な相談だった。それでもしばらく鏡を覗いていたが、根負けの末に目線を外す。  元の目的であった寝間着を取り出し、僕はそっとクローゼットの扉を閉めた。  着替えて寝台に横たわると、手足は鉛のようだった。乗馬は楽なようで意外に疲れる。  そうして疲れたときに限って、考えなくてもよいものを考えてしまうのが僕の悪い癖である。そこに疲労の深さを自覚しながらも、それをやめることができない。諦めるにはまだ少し眠気が薄い。というより昨日のことが頭を巡って、眠気の入る余地を奪っている。 「おかあさま」  あの騒ぎの渦中にいなかったひとの呼び名をささやけば、声音は端から白く凝《こご》った。  ――最後にこの言葉を口にしたのは、一体いつのことだったか。少なくとも、思い出せるほど近い昔ではない。  なにせ、母は僕を嫌っていた。それから僕を生徒として養育する先生のことも。だから僕は母を避け、母もまた僕を遠ざけていた。そこにどんな理由があったかを、僕は知らない。  それでも遠くから見る母が常に凛と前を――この国のあるべき姿だけをまっすぐに見つめて、父のかたわらに控えていたのは覚えている。この国に美しい絵図を描こうとしていたあのひとは、いつから正しくないものから目を背けてしまったのだろう。  そう考えて思い出すのは、先ほど昔話をしていた魔術師のことだ。彼は笑って身の上話をしていたけれど、僕はあんなふうに昔のことを語れない。母と分《わか》たれ、先生と呼び慕うひとに育てられた僕らは、本当によく似ているはずなのに。  ――すべてを捨てて宮を出て来たことまで、なにもかもが、本当によく。  僕は昔のことを思い出そうとすると、いつでも泣きたいような気持ちがする。それは自分が捨てたものを惜しむための涙だったのだと、今の僕には分かるような気がした。  でも、と内心でつぶやいてみる。  本当に惜しむのならば、泣いているばかりではどうしようもない。  取り戻そうと思うならなおさらに。報いようと思うなら、より一層に。  寝間着の上から下腹を撫で、僕は母のことを考える。――僕はかつて間違いなく、彼女のことが好きだった。彼女が描こうとしていた美しい絵図を、見てみたいと思っていた。  だから母が僕に願うことなら、なんだって叶えて来たのだ。弟を王太子に。王太子を争うことなく玉座に。その下準備として母がわたしに声をかけたときには、幼子のように喜んで応じた。与えられた花《はな》緑《ろく》青《しよう》の雫の不自然な甘さも、すべて余さず覚えている。  そうして舌上に乗せた空想の毒は、間違いなく僕の喉をえずかせた。嘔吐感と似た感覚に釣られて、眦《まなじり》には涙が滲む。色のない雫を指で掬ってみれば、後はなぜだか無性に笑えた。 「なにが――」  あのひとはいつだって、自分の正しさを信じていた。だから彼女は正しいものの具現として、みずから手を汚そうとはしなかった。かわりに法規を整え、信賞必罰《しんしようひつばつ》を是《ぜ》とすることによって、みずからの意に沿うように国を動かすことに注力した。  そうやってすべてが恙《つつが》なく回ることを眺めるだけなら、たしかに国は正しく動いているように見えただろう。それを思うと、本当に笑えた。  声を潜めようと思ってなお、笑い声は止《と》め処《ど》なく唇からこぼれて止まらなかった。  ひとしきり笑い終えた後に残るのは、ただただ重みを増した疲労ばかり。いつの間にか宿舎に湧いたひとの気配から隠れるように、頭から毛布を被る。――次に目を開いたのは、扉を叩く音を聞いたときのことだった。

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