戴冠、或いは暁を待つ | 三章:大嘘つきたちの夜
かなた

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「撃てッ!」  獣の威迫。鳥の恐嚇。  それはたしかに僕らの言葉でありながら、どこまで行っても僕らの言葉と交わらない。  続く銃声が静かであったように思われたのは、白い影が塀の向こうに落ちたせいだ。ましろの影はただただ大きい。それに対する怒号と悲鳴が銃声を掻き消して、ひどい恐慌が空《くう》を伝って来る。  塀の上から見える影の頭は丸く、冷静になってみれば見覚えのある形状であるようにも見えた。父の膝上で翼を畳んだ鳥の頭は、まさしくあれと同じ形をしていたと思う。  丸い頭は備えた嘴《くちばし》を器用に使い、悠々と軍人の身柄をひとつ投げ捨てた。その一連の動作を呆然と見つめる僕の背を、今度こそ本当にクロイツの手が叩く。 「ぼけっと見てねぇでさっさと行け!」  言うが早いか、彼はそのまま駆け出した。振り返ることなくまっすぐに、塀の向こうに続く門のほうへ。 「君は――」 「俺はあっちに加勢して来る!」  疾風《はやて》のように駆ける白い姿は、みるみるうちに見えなくなった。  行きましょうとリセリがささやく。僕は強くうなずいて、地面を蹴った。 「あちらはすっかり混乱しているようですが、流れ弾だけは気をつけて」  背後の魔術師の声はあくまで冷静だ。ちらと肩越しにうかがえば、彼は塀の向こうで跳ね回る巨《きよ》鳥《ちよう》の姿を見つめていた。焦がれるにも熱い似た眼差しに、僕はようやくあの鳥の正体を悟る。というより、はじめから悟っていたことを、事実として受け入れる覚悟を決めた。  あれは、イラテアだ。ヒト喰いによって命をつなぐ、旧《ふる》い獣の本性。その姿を正面に捉えたまま、僕らは早足で門を出た。  ようやく辿り着いた街への道は、もはや戦場と呼ぶにも混沌とした有様である。  巨躯の白梟が暴れる周囲には青い軍服の軍人たちだけでなく、好き勝手な服に青玉をあしらった男女がいる。軍人たちと直接的に争っているのは、イラテアよりもむしろ彼ら彼女らのほうだ。 「トゥーラにあの商会が出入りしているという噂は以前からありましたが、出入りどころではなかったようですね」  リセリは苦笑気味にそんなことを宣《のたま》った。  たしかに軍服を着ていない側の動きは妙に統率が取れている。獣にはけっしてひとりで相対さず、自分たちが孤立することはない。素人目にもわかる、訓練を受けた兵卒の動きだ。  巨躯の梟は首を回して彼らの奮闘を眺め、危ういと見えた箇所があれば飛びかかって支援に回っている。ついにはその様相を不利と悟ってか、誰かが集合の号令を叫んだ。  次の瞬間、金目の梟は地を蹴って跳ぶ。  梟というものは静かな鳥で、かの〈宵守《よいもり》の君〉ユードヴィール――父の獣ですら着地に音を立てることはなかったが、流石にこの場にいる梟の着地は音を伴う。こちらの足元さえ強く揺らぐような、低く鈍い音を。 「駄目だよお、彼らはうちの大事な護衛対象だからね」  僕らと軍人の間で笑った声は、女のものだ。間延びした口調にも覚えがある。  ついでに言うなら、僕らの前を塞いだ梟の脚は三本あった。なるほど、それであの義足であったのかと、今更のように合点が行く。 「良いことを教えてあげよう、若人《わこうど》。私ほど旧い獣を殺したいなら、火の魔術でも持って来るよりほかにないよ。なにせ私たちは火に弱いからねえ」  辛うじて銃声は響いたものの、イラテアは露も気にした気配を見せなかった。目線を向けることもなく、反撃もしない。その事実こそが、彼女の頑強さを雄弁に物語っている。それをまざまざと見せつけられた結果か、続く銃声はなかった。  白黒の斑《まだら》の体躯を愉快そうに揺すったイラテアは、三本の脚を入れ替えてこちらを向く。 「無事に連れて来られたようだね。――リセリ殿とお見受けするが、いかがかな」  周囲の喧騒に構うことのない声音は、いっそおだやかでさえあった。  リセリは背中を伸ばして、相違ないと彼女に告げる。 「そちらは〈花《はな》伏《ふせ》の君〉ですね」 「ああ、そう。そんな名前で呼ばれていた時期もあったねえ。懐かしいことだ」  イラテアはまた身体を揺すった。次にまろい形の頭を横に傾け、僕のほうを見つめる。 「賭けには負けてしまったなあ。君がリセリを助けようと言わなかったら、彼はわたしが食べていいことになっていたんだけれども」 「それは、その……すみません」  三度目の笑いは、ふふふとかすかな笑声だけを伴って。 「長生きするとねえ、賭けに負けるくらいはよくあることさ。そのたびに怒って約束を違えていたのでは、ちっとも面白くないしねえ」  言って彼女は足のひとつを持ち上げた。爪のひとつとっても僕の肘から先ほどある、巨大な足を。もしこの場でイラテアがそれを振り抜けば、僕の体はただそれだけで綺麗にみっつに分かれたに違いない。  けれども彼女はそれをせず、貴婦人を想わせる仕草で僕の手に触れる。 「君がリセリを助けるのが正しいと言ったら、助力してくれと坊は言っていた。なのでこの場の私は、間違いなく君の味方だ」  旧い獣の声音に、ひとつうなずく。 「して君、私の脚にしばらく掴まっているくらいはできるかい」  怖いと思う気持ちは、正直なところたしかに存在する。  しかしながら今は幸いなことに、銃声と怒声が一団となって僕の背中を押してくれる。だからこそ、イラテアの脚に触れ返した指先に震えはなかった。  今の僕が一番恐れて然るべきは、この場から離脱できないことだ。 「ここはうちの傭兵に任せておけばいい。私がいなくたって、彼らはうまいことやってくれる。今はクロイツもいるしね」 「はい」  リセリの手を離し、力を込めてイラテアの足にしがみつく。 「とりあえず君は、しっかり掴まることだけを考えなさい。できるだけ下は見ないでね」  横目で見やった初老の魔術師は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼に対してイラテアはきゃらきゃらと笑う。 「あなたは背中に乗せて行くよ。安心なさいな」  言うが早いか、梟はリセリの身体を銜え上げる。首を捻って彼を背中に乗せる仕草を眺めながら、僕はそっと奥歯を噛んだ。鳥の飛翔には詳しくないが、乗馬の経験ならいくらでもある。それに伴う記憶が、この場で口を開けているのは危険だと吼えていた。 「飛ぶぞ、撃たせるな!」  聞き慣れたはずの声が、聞いたことのない凛とした響きを弾《はじ》かせる。  その声の主を地上に残して、イラテアは翼を打った。ただそれだけの動きで、靴の踵が地面から離れる。もしも奥歯を噛み締めていなければ、僕の唇から溢れていたのは痛烈な叫びであったに違いない。  イラテアがもうひとつ羽《は》搏《ばた》けば、いよいよ爪先も土から離れる。  寄る辺のないその感覚は、馬上で鞍《くら》に跨るときとは質が違った。世界が終わるようなと言うと大袈裟だが、感覚としては近いと思う。  なにせイラテアは梟だ。その飛翔は連れる音を持たず、それゆえに浮遊感はどこまでも空虚に感じられる。戸惑う間に、僕の目は防雪林の木の先を捉えた。葉を絶やさない針葉樹の昏い緑も、見る見るうちに眼下へ落ちて行く。  更に下へと目線を滑らせれば、ひとの姿など玩具のようにしか見えなかった。  それでも、その仕草のひとつひとつが見えないわけではない。中でも、誰かが銃口を上げるのは特段はっきり見えた。その頭を銃床《じゆうそう》で以て殴り飛ばした小柄な影の動きも、同じく。 「いやはや、あの子は何年経っても変わらないなあ。というか悪化したな、あれは」  さえずりにも似たささやきに、僕はおそると顔を上げた。 「そういえば君、クロイツと付き合いは長いの?」 「いいえ」  僕とクロイツの付き合いはせいぜい数日のことである。彼はそれまで、アルシリアのほうに派遣されていたはずだ。たしか期間は数ヶ月――僕がアルシリアを経由したのも数ヶ月前だから、ひょっとすると馬車の内外ですれ違うくらいはしていたかもしれないが。  イラテアはふぅんとヒトじみた声を発したのを最後に、ようやく翼で風を掴んだ。  支えのない足が揺れはしたが、怯えの気持ちはもうほとんど湧かない。頬を叩く風の冷たさだけが、はじめて馬を走らせた日のそれによく似ていると思った。  そろそろ夜半も過ぎようという刻限のはずだが、眼下に見えるトゥーラの街並みには、いつしか煌々と明かりが灯されていた。空を飛ぶのははじめての経験であったが、こうして見下ろす景色はさながら夜空のようだった。  街の灯《ひ》を星と見做《みな》すならば、川面を揺らめく光は銀河であり、鐘楼《しようろう》が掲げた角燈の火はひときわ明るい一等星。遠く彼方に見える領主邸に至っては、連星にたとえてもよいだろう。  これが僕らの起こした騒乱に伴って点けられた明かりでなければ、僕は快哉《かいさい》を叫んでいたはずだ。あとは――足元がもう少し安定していれば。 「この格好は久々過ぎて、うまいこと旋回できない気がして来たぞう」  しかもイラテアはそんなことを言う。僕は彼女の脚を掴む手に力を込めた。  巨大な梟に頭上を飛ばれる街の住人は怖いだろうが、その脚に掴まって飛ぶのはもっと恐ろしい。だから今、僕がひとつ叫ぶとしたら、恐怖を訴える悲鳴が最優先である。なにせ僕のたったひとつの命は、彼女の飛行技術に賭かっているのだ。  川面を抜けて吹く風は冷たく、指の感触が曖昧なのが一層に恐怖を煽る。 「なに、でも安心したまえ」  それでもこの国随一の商会を抱える獣は、朗らかに笑うばかりだ。たぶん、彼女は僕の状況と心情にはあまり構っていないのだろうと思う。 「私は空中にいる鷹くらいは余裕をもって捕らえるからな」  つまり落としても捕まえてやるぞ、ということである。  もしかすれば彼女なりの気遣いゆえの発言かもしれないが、そもそも空中に投げ出すこと自体をご勘弁いただきたかった。 「……すみません、なにかよい術があればよかったのですが」  降り落ちるリセリの声に、僕は首を横に振る。だが、イラテアの背に乗った彼から、こちらの姿が見えているとも考えにくい。 「お気になさらず!」  慌てて返した声に応《いら》えはなかった。もしかすればどちらかの声が風に紛れてしまった結果かもしれず、リセリがこちらに気を遣った結果かもしれない。理由がどちらであるかを判別するより先に、イラテアが大きく翼を広げた。川をさかのぼる形で滑空していた彼女は、そのまま大きく身体を傾ける。  山から吹き落ちる風に、梟の体躯は一瞬だけ速度を失った。  風の音さえ消え失せたその間隙から抜け出した刹那、僕はたしかに風に「乗った」という感覚を得る。  雪の白と緑を抱く山肌、川面の星々、家々と鐘楼の灯り、雲間に覗く不円《みちたらず》の月。幻燈函《ゾエトロープ》めいて回る世界を眼裏に残し、旧い獣は街道のほうへと梶を取る。  閉じた瞼を開いたとき、意外なほど近くにまろやかな形の丘陵が見えた。同時に、目印がわりの針葉樹と里程標《りていひよう》の姿も。  同じものを目にしたと思しきイラテアが、大きく翼を打つ。同時に彼女は脚を下げ、僕の身体を降ろそうという挙動を見せた。ここに来て振り落とされてはたまらないと両腕に力を込めた刹那、茂る枝葉の下から飛び出した影がひとつ。――ヴィガだ。  彼が両腕を開くのに合わせ、イラテアはいよいよ本格的に高度を下げる。  最後はヴィガの頭上を掠めるようにして、再度空へ。  そのとき、僕の身体はヴィガの太い両腕にしっかりと抱えられている。肥満体にしか見えていなかった彼の腕は、触れてみると冗談のように硬かった。  健脚どころの騒ぎではないな、と僕は思った。 「すみません、なんだかぼんやりしていたようで……」  抱かれたまま声を上げると、ヴィガはよく通る声で笑う。 「人間なら誰だってそうさ。おれも心当たりがある」  彼の腕から降り立った丘陵には、見覚えのある二頭の馬の姿があった。  それからもうひとつ、馬の影から覗く白い姿も。 「おまえらはな、揃いも揃ってすっとろいんだよ」  魔術師は舌打ちに続けて言い切ると、枝葉の隙間から空を見上げる仕草をした。倣《なら》って上を仰げば、はるかな遠い空をイラテアが舞っている。こうして見る彼女は、ひどく美しい白の鳥だった。かつて見た父の獣の姿も、あれと同じ優美さであった憶えがある。彼の姿は雪花《せつか》のようであったが、イラテアの姿は夜の帳を開いて届く、彼方から射す光のようだった。  ――などと思ったのも束の間、白い鳥はふたたび大きく旋回する。  その姿は瞬《まばた》きより早く視界を埋め、かと思えば唐突に縮んだ。三本の脚が一本に戻り、二度三度と雪上を跳ねる。彼女の肩にしがみつくリセリが、跳躍の都度大きく揺れた。  ヴィガは慌てて彼らに駆け寄り、両者の身体を引き剥がすと同時に支えてやる。  黒い瞳の魔術師は、一連の出来事に呆れ返った眼差しを向けていた。 「……加勢は?」  問うと、彼はわずかに肩をすくめる。 「して来た。で、割と早くに片がついたから、ここまで迎えに来てやったわけ」  いつもの外套の白さを失ってなお、その顔ばかりは透けるように白い。ただただ美しい面に浮かんだ表情に関しては、やはり呆れを透かしたものでしかなかったが。 「おまえが降りられないと思ったもんで」 「……ごめん」 「いいってことよ。おまえが死んだら次は俺の番だからな」  言葉とともに、彼は顔を緩める。ひどく愉しげな表情に釣られて、僕も口の端を上げる。 「そういえばクロイツ、君さあ、まだうちに帰って来るつもりはないわけ」  いっぽうヴィガの肩に凭《もた》れたイラテアが、横合いからそんな言葉を投げた。 「やっぱり君がいないと、私なしで総出の荒事ができないんだよねえ。地味に困るんだ」 「一生そのままやってりゃいいだろ、死ぬわけでもねぇくせに」 「だから余計にヤなんだよお。ヒトが滅びるまで前線指揮官なんて冗談じゃない」  クロイツは彼女の姿を見ることもなく、せせら笑いで問答を終えた。  見ればイラテアは唇を尖らせて、ひどく不服げな顔を作っている。ついでにヴィガの逆の肩に掴まったリセリの顔は、蒼白を通り越して土気色だった。しかしながら手を差し伸べると、もうだいじょうぶだと固辞してみせる。言葉のとおりにみずからの脚で立つ姿まで見せつけられれば、僕にできることはもうなかった。  所在のない気分で、僕はなんとはなしにイラテアとクロイツの姿を見比べる。 「ちなみに君、ラリューシャのところを出たのはどういう風の吹き回し?」 「誰が話すかよ」  かつての雇い主であるイラテアに対し、クロイツの態度は辛辣そのものだ。彼にとって荒事で生計を立てていたのは昔の話で、今は興味も愛著もない――そんなふうに見える。しかしながらイラテアは、その態度に気を悪くした気配を見せなかった。 「それもそうか。私はまだ君の母上とも親交があるもんねえ」 「というかそもそも、俺はおまえのことを一切合切信用してねぇから」  舌打ちの音はなにをどうしたのか、ひどく大きかった。  遅れて目線を感じ、首を巡らせて見やれば、居た堪れない表情をしたヴィガと目が合う。 「で、この魔術師は俺たちが連れて行っていいのか」  とかく今夜のクロイツの声には、いつも以上に攻撃的な気配が濃い。いつものものがひとを殴るために棒を構えている類の害意だとすれば、今日のそれは抜き身の剣を突き付けるような殺意にたとえられる。  その語調で話題に出されたリセリが、わずかに表情を固くするのが見えた。 「もちろん! と言いたいところだがね」  イラテアはそれこそ梟のように、頭を真横へ傾けた。 「彼のこと、私に預けてみる気はないかい?」  尖《せん》晶石《しようせき》のまなこを眇《すが》めて、クロイツはかつての主人を見た。言葉はなく、イラテアの側は僕を見ている。彼女の問いが向けられている先もまた、魔術師ではない。僕だ。 「彼は私たちが責任を持って、蜘蛛の巣谷――オルトヴィロウの大《だい》学《がく》府《ふ》へ連れて行く」  懐かしい名前を耳にし、僕は目を細める。 「それがどういう場所であるか、ご存知なのですね」  蜘蛛の巣谷の異名で知られるオルトヴィロウは、石灰棚の崖をつなぐ橋の上の都市だ。立地としては王都に近いが、その中心となる学府は王立のものではない。  学問の中立を謳うかの都は、王妃――次の王母となる女の生まれ育った土地でもある。 「無論だとも」  イラテアの答えには淀みがなかった。  その響きに、僕は見たこともない伯父へ思いを馳せる。肖像でしか見た覚えのない蜘蛛の巣谷の長は、妹との不仲で有名だ。ゆえに彼は王都からの干渉を強く拒否する。同時に彼が治める蜘蛛の巣谷もまた、学都の自治を守るためなら一糸乱れず法を守る。  それを思えば、蜘蛛の巣谷はリセリを裁くのに最適の場所とも言えるだろう。 「リセリ。あなたはそれで構いませんか」  初老の魔術師は微笑んだ。 「初戦私は、死後のお仕えに惹かれてヒト喰いの獣を呼んだ男です。彼女の胃に収まって世界の終わりを待つことに比べれば、どこでもましですよ」 「せっかく来てやったのに、つれないなあ。別に気にしないけれどもさ」  やはりイラテアは、リセリのことを食べたいと思っていたのだろうか。ならば悪いことをした。生爪のひとつでも譲渡すべきかと考え出したころ、放っておけとクロイツが言う。 「で、いいんだな。この女に任せて」  低い声での念押しに、僕はひとつうなずいた。 「うん。任せます」 「承った。料金については、もののついでで無料《タダ》にしておいてあげよう」  イラテアは破顔した。ついで彼女はとんと片足で跳ね、中空で小さな影を象《かたど》る。  地面ではなくヴィガの肩へと降り立った姿は、先の自身とは似ても似つかぬ小さな白梟のものだった。 「ではリセリ殿、街道から少し離れよう。さすがにこの私が日に二度も近くを飛び回ったのでは、トゥーラの住人に申し訳がないからね」  リセリは否とは言わなかった。ずいぶん血色を取り戻した顔で、イラテアに対する答えのかわりに僕を見る。左胸に掌を当てる仕草は、かつて王宮で目にした魔術師式の最敬礼だ。  こうして並んでみると、リセリは意外と上背があった。見上げる僕の視線に微笑んで、彼は深々と頭《こうべ》を垂れる。 「いずれはオルトヴィロウへ参ります」  対する僕は礼を取らず、ただひとつ、その言葉だけを返した。  ――魔術師たちは嘘をつかない。ゆえに、リセリは何も言わない。  けれども僕は嘘を許されたヒトであるから、ただ彼の旅の餞《はなむけ》に、慰めの言葉を渡すことができる。  顔を上げたリセリの背中を見送り、僕は心の底から彼の旅路の無事と幸いを祈った。

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