戴冠、或いは暁を待つ | 三章:大嘘つきたちの夜
かなた

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 事前の取り決めに則って、僕は弾を込めたばかりの銃を置き、一目散に駆け出した。仮に僕がここに居残ったところで、できることなどない。クロイツにも、ストーにも、ストーが先生と呼ぶ魔術師にも、だ。  防雪林の斜面を駆け下りながら、途中で曲がって正面へ回る。  幸いというべきか、トゥーラは有事の際の避難所を二箇所に分けている街だった。その片方は治世の要となる領主邸であり、役所および詰所とは別の敷地に存在する。  よって、トゥーリーズと比べて詰所に居残る人材は少ない。だからこそ陽動の支援さえあれば、僕でも侵入は容易だろうとクロイツは言っていた。 「とにかく走る」  彼に教わった侵入の方法は単純かつ明快、本来ならば反芻するまでもない。  全力で走る人間の前に飛び出すのは、大変な勇気の要ることだ。ゆえに足を緩めずに走り抜ければ、見張りがいたところで、敷地に飛び込むこと自体は容易にできるはず。  見上げた先、開いた門扉の脇は見張りがふたり控えていた。  そして彼らは僕を認めると、驚いたように目を丸める。それを視認した刹那に、僕はきつく奥歯を噛んだ。  とにかく思い切りが肝要だ、とクロイツからは言われている。  中に潜り込みさえすれば、見張りは持っていても銃を使えない。誤射をしたらどうなるかは目に見えている。だから少しなら隙ができる。その間に逃げればいい。蕩々《とうとう》と語られた言葉を脳裏で反駁しつつ、一層強く地面を蹴る。  ――獣であれば自身の膂力《りよりよく》ゆえに、ヒトであれば保身の意識ゆえに、全力で疾走する人間の前に飛び出したりはしない。絶対に。だから僕は足を緩めない。そのために荷物はすべて捨てて来た。  心臓はすでに早鐘を打っている。呼吸も荒い。  困惑したような、あるいは驚愕したような顔を見た気がしたけれど、なにも見なかったふりをして頭の位置を下げる。体当たりの要領で肩から突っ込んだ身体は、受け止めるものの一切を持たず、当然のように踏鞴《たたら》を踏んだ。  ああ、でも。  これはつまるところ、僕が斜面を登り切ったことにほかならない。これで当面の目的は果たされた。勢いのまま蹈鞴を踏む羽目になったのは、足許の角度が変わったせいだ。  肩越しに振り返った先にはふたつ、青色の制服をまとった姿がある。その片方は迷いなく銃口を上げ、空に向かって銃爪を引いた。ついで彼の唇が小さく動いたことを、僕の目は見逃さなかった。紡がれたはずの言葉はひどく短い。――いけ。  その言葉は僕の心の底を強く引っ掻く。  すでに傷跡と瘡蓋《かさぶた》に覆われて、自分ではけっして見ようとはしない箇所を。 「こっちに」  庭木の陰から投げかけられた声に応じて、僕は土を蹴る。  外套の色を暗いものに変えた少年は、僕の姿を信じられないものを見る目で見ていた。 「来れたのか。どうやって……」 「クロイツ……僕の連れが裏で陽動をしてる」 「それについてはなんとなく予想がつくが」  ストーが聞きたいのはむしろ、僕がいかにクロイツを説得したかであったのだろう。彼はあの水車小屋の中で、クロイツが先生の救出に対して拒否を示したのを聞いている。 「話すと長くなるんだけど」  僕は、奇しくもあの日のクロイツと同じようなことを口にした。 「ならいい」  言って、少年は僕を手招く。その仕草に合わせてゆっくりと庭木のそばを離れ、詰所のほうへ向かって歩き出す。走ることはしなかった。 「あいつの陽動に本気で引っかかって壁を越えたやつもいるし、引っかかったふりをして外に出たやつもいる」  早口に語るストーの後ろを歩く僕に対し、すれ違った者は声をかけない。不思議に思って振り返ると、きょろきょろするなと小さな叱責が飛んだ。うなずいて、視線を前へ据える。  少し俯いたのは回りの目を気にしてのことだったが、これにはなにも言われなかった。 「……僕はなんだと思われてるんだろう」  すれ違った相手が充分離れたのを見計らい、ひそめた声で問うてみる。 「おれの連れ。おれたちはいつも同じ服を着ているわけではないから」  猟兵たちは市街での暗殺を主たる任務とする。それを思えばたしかに、僕の普段着は馴染みのよい服装に見えるのかもしれない。同時に前を行くストーの存在もまた、同僚たちの勘違いの一助になっているのだろう。  彼は堂々たる態度で詰所の中へと入って行った。もっと走るかと予想していた僕にとっては、呆気ない目的地への到着だった。 「そういえば、あの男は本当に魔術師なのか? ずいぶん正確にものを撃てるようだが」  詰所の廊下の壁には、番号式の鍵で閉じられた箱が釘打ちされている。ストーは慣れた手付きで番号を揃え、開いた箱の中から黒鉄《くろがね》の鍵を引っ張り出した。 「 『本当に』?」  鍵を懐にしまい込むストーと肩を並べ、僕は眉根を寄せた。  ――彼とはじめて出会ったとき、自分が魔術師に見えるのか、とクロイツは笑った。たかだか数日前のことであるのに、もうだいぶ前のことのように思える。 「君たち、もしかして……」 「それについては否定も肯定もしない」  この年頃の少年にしては、ずいぶんときつい声だった。少なくとも僕は、こういう声を発したことがない。  そのうちにストーは足を止め、廊下の一角にあった扉を開いた。  先に続く空間はひどく暗く、狭い。狭いということがわかるのは、単に壁のひとつに隙間があって、光が漏れているから――ではなく。 「申し訳ないが、」  あるのは、扉だ。ならばここは、拘置される者の身辺を改めるための場所のはず。 「ここから先は、目を閉じてついて来てくれ」  少年の筋張った手が開いた扉の先には、長く階段が続いている。  風に乗って、脂の燃える匂いが鼻をついた。光源として燃やされる獣脂の特有の匂いだ。  冷えると凝《こご》る乳酪《にゆうらく》を金属の器に流して作るバターランプは、安価な割に長く燃える。それが吐き出す煤のせいで、扉の向こうは光量の割にずいぶん暗く見えた。 「どこまで?」 「おれがいいと言うまで」  僕は首を縦に振ると、肺腑の奥まで息を吸い込んだ。  砂を撫でるような感触の壁に掌を押し当て、ゆっくりと階段を降り始める。はじめの数段は流石に不安もあったが、そこを過ぎれば後はさしたる困難もなかった。耳を澄ませればストーの立てる足音ばかりが小さく聞こえる。  ――それだけを導《しるべ》に、いくつ階《きざはし》を降りたころか。  あるとき唐突に、ランプの芯が溶けた脂に落ちる音がした。火と獣脂が直接触れ合うことで立てられた断末魔は、薄い器に共鳴して長く尾を引く。  その向こうに足音はない。目を開くかと迷いはしたものの、逡巡《しゆんじゆん》はすぐに霧散した。瞼の闇の向こうから、ひとを殴打する音がしたからだ。  ついでストーのものではない声が、怒声とも悲鳴ともつかない声を上げる。 「いいぞ、鍵を取れ!」  それを割いて飛ぶストーの声は、今まで聞いた彼のどの言葉よりも年齢に相応しいものに聞こえた。応じて開いた目は、すでに暗闇に慣れている。  すぐそこにある階段の終わりの先、ストーと男が組み合う姿は汗の雫までよく見えた。  男の肩には、乏しい光を撥《は》ねて煌めくものがある。それは軍服の肩に沿って縫い止められた臂章《ひしよう》、つまりは軍人の証にほかならなかった。男の上に馬乗りになったストーは、彼の腕を不自然なほどに捻り上げ、その動きの大半を封じている。 「こんなことをしてただで済むと思っているのか、おまえたち!」  僕が残る階段を降りて行くのに合わせ、彼のわめきは明確な言葉に変わった。言われるまでもなく、ただで済むなどとは思っていない。それはきっとストーも同じだ。  僕は男の腰のベルトから、真鍮の輪に通されたたったひとつの鍵を外す。  火事などの有事に備え、拘置所の鍵はひとつで賄《まかな》うのが習いだ。見張り役が持っていたということは、これが先生を助ける鍵で間違いない。  男は口から泡を飛ばしつつ、いよいよ大きく身体をよじろうとした。  もはやその動きに、自分の腕を庇おうという意思は見えない。だからこそとでも言うべきか、対するストーの動きはひたすらに迅速だった。猟兵たちが使う黒塗りの短剣を鞘ごと引き抜き、その柄を男の顔面へ振り下ろす。鈍い音は三度。それきり男は動かなくなる。 「嫌なものを見せた」  自分が見張りを捕まえている間に、僕が先生を助ければいい。ストーはそんなふうに考えていたのかも知れない。けれどもその望みは、男の思わぬ抵抗によって挫かれてしまった。  唇を引き結んだ少年の横顔に、僕はかける言葉を持たなかった。もしあの魔術師がここにいたなら、彼にどんな言葉をかけただろう。考えてはみたが、どうにも想像がつかない。 「……でも、殺してはいない」  しかしながらストーは、自分で言うべき言葉を見つけたようだった。 「理由はどうあれ、あいつは誰も殺さなかったから」  その横顔には触れがたい硬さが残っていたが、僕はうんと小さくうなずく。  入れ替わりにストーは深々と息を吐いた。男から奪った鍵を手渡すと、それを使って見張りのついていた扉の錠を外す。  押し開かれた三枚目の扉の向こうには、意外なことに暖気があった。  空気もまた、階段よりよほど清らかだ。深々と息を吸う僕を一瞥して、ストーは猫のように音もなく歩き出す。――格子の並ぶ通路の奥に、僕らが求めたひとがいた。 「先生」  ささやくような呼びかけに応じて、格子の向こうのひとが面を上げる。 「ストー?」  返る声音には驚きよりも困惑の色が濃い。  渋染《しぶぞめ》の裾を引いて立ち上がった男は、細めた目でこちらを見た。 「はい、俺です」 「よりにもよって、君が……」  それはけっして睥睨する目つきではない。単に視力が悪いのだ。その事実を補強するように、頭髪にはずいぶんと白いものが混じっている。  彼は僕のほうに顔を向けると、より一層に目を細めた。対する僕はほとんど直角に近い形を以て、見間違いようのない礼を取る。 「……街の外の方ですか」 「ルカと申します。トゥーリーズから参りました」  魔術師はゆっくりと頭を縦に振った。会釈ではない。首肯のための動きだった。  濁った青灰色のまなこには、恨みもなければ怒りもない。おだやかなばかりの彼の眼差しに、僕はようやくストーの――あの日の猟兵たちの目的を悟った。 「彼といっしょに壁の中に逃げ込めば、あとはエクリール卿が守ってくださるはずです。少なくとも、あの方はあなたの死刑を命じたりしない」  祈るように、少年は言った。  にわかに、魔術師が肩を落とす。けっして大きくないその仕草に、これまで先生とストーが交わしてきた言葉の数々を思う。おそらくストーたちは、すでに何度か先生を手引きしようとしたのだ。けれども後がないことを理由に断られ、香炉の先触れの日に僕らが来た。 「ですから、先生、どうか」  僕の先生とは似ても似つかぬ『先生』は、ストーではなく僕を見る。 「エクリール卿は紙幣と公的書類の偽造に関して、どのようにお考えかな」 「嫌い、ではあるはずです。でも、定められた以上の罪に問うことはないと思います」 「噂に聞くとおりの御方であるようだ」  低い笑いに、ストーは不安そうな顔で僕と先生を見比べた。まだ子どもと呼び得る年頃にしか見えない彼は、こうして見ると本当に幼子のようにしか思えない。  先生、と小声で呼ばわった声は、かすかに震えているように聞こえた。 「この場で罪を贖《あがな》うのが私の終わりだと思っていましたが」  老いた魔術師は困ったように微笑んで、乾き切った指を以て鉄の格子に触れた。 「出ましょう」  ストーはずいぶんと長い時間をかけてうなずき、ただひとつ塞がれた房の鍵を開く。外へ踏み出す足音はひそやかで、衣擦れの音を連れている。  そうして直接向かい合った僕に対し、先生はふわりと頭を下げた。 「リセリと申します」  家名のつかないその名が、通称であるか本名であるかはわからない。紙幣や書類の偽造に携わるひとなど、得てしてそんなものである。獣だろうが魔術師だろうが例外はない。  偵察のために駆けて行ったストーの背を見送り、リセリは小さく肩をすくめた。 「ご存知かと思いますが、私は魔術師としてはけっして高尚ではありません。魔術を使いはしますが、最果ての……〈玄冬《げんとう》の君〉にお仕えさせていただけるような者ではないのです」  うなずきながら、僕は彼の手を掴む。目の悪い彼の前に立ち、ごくゆっくりと格子の間を抜けていく。背後からついて来るリセリは、忍び笑いの気配を伴っていた。 「――ですのにここ数年で、先生などと呼ばれ始めまして。もしも正しく罪を償うことができれば、あの方にお仕えできるような気がしてしまったのです」 「お仕えができるとよいですね」  |偉大なるかたちの獣《アデライード》は、魔術師のすべてをみずからの側仕えとするわけではない。  彼、あるいは彼女は、魔術師自身が現《うつ》し世《よ》にて果たした業を以て側仕えを選ぶ。ゆえに魔術師たちにとって、形而下の生は修行であり、祈りそのものだ。果ての見えない生き方に嫌気が差して、貴い方に仕えようという意思を失うものもいる。  リセリはまさにその典型であり、魔術の秘《ひ》儀《ぎ》を犯罪に使っていた。彼はこの拘置所を出たところで、行先はふたたび牢の中と決まっている。  紙幣の偽造にまで携わっていたというのなら、収監中の死も充分に有り得るだろう。 「ろくでなしの私が、ひとを救ってみようと思う機会を与えてくれたことだけは、王后陛下に感謝しなくてはなりませんね」  僕は、黙してうなずいた。  ――正しいものを愛した母は、けっして正しいひとではない。正しくない道を歩んでいたリセリが、結果として正しい道へ戻る程度には。 「よろしければ今度」  リセリに救われたひとびとは、誰もがはじめから救われるべきひとびとではなかった。 「僕が会った親子の話をさせてください。あなたに助けられた方々です」  彼らを救った魔術師の行為は賞賛されこそすれ、本来ならば為される謂《いわ》れのないものにほかならない。  そう考えると奥歯が軋んだ。なにが正しくなにが誤りで、なにをどこまで正せばよいと言うのか。すべてを、とひと口に言っても、もう戻せないものは山のようにあるだろう。そもそも僕が言う正しさとは、一体何を指すべき呼称であるのか。 「ルカ」  思考の水に沈みかけていた頭を現実へ引き戻したのは、階段の上から降る高い声だ。  どこかから失敬して来たらしい角燈を掲げ、ストーが階段を下りて来る。 「狼煙《のろし》が上がった。領主邸の警備の連中が帰って来る」 「……彼らは領主を支持するという点において、大変強固な一枚岩です」  返答に迷う僕に対し、リセリが硬い声で告げる。振り返れば、彼はおだやかな顔に苦いものを浮かべていた。 「あなたがここに来られたということは、おそらく素通しをした連中がいたはずです。このまま行くと内輪揉めが始まるでしょう」 「その混乱に乗じて外に出られませんか?」  問うと、魔術師は首を横に振った。 「私は早くは走れません。それに……」 「俺たちがどうにかします!」  ストーの声は悲鳴のようだった。  軍人同士の内輪揉めといえば、その実情は殺し合いに近い。彼らは全員が全員武装しているのだ。もしも銃の撃ち合いなど始まれば、勝敗は数の寡多《かた》によって決するだろう。  少ないほうが負け、多いほうが勝つ。より具体的に言うならば、僕らのほうが負ける。 「私はあなたたちが死ぬほうがずっと悲しいですよ、ストー」  苦い笑いを織り交ぜた声で、リセリは告げた。彼には現実がよく見えている。  ――でも。 「リセリ。あなたが戻ってすべて済むならそれで構いませんが、僕が無事に出られる道理がありません」  俯いていたストーが、弾かれたように顔を上げた。 「残念ながら、僕の連れは外で陽動をしているんです。……もうひとを撃ってしまった」  リセリの手を掴んだままの指先に、力を込める。彼をここから逃がすためだけに、僕は絶対にこの手を離さない。そうでなくては、クロイツに合わせる顔がない。 「あなたがいれば、こちらの士気も上がるでしょう。そうすれば僕も逃げやすいはずだ」  指先から伝わるのは困惑の気配。  僕の指先が震えていることを、手をつなぐリセリははっきりと悟っていたことだろう。ややあって、深々とした溜息がたしかに耳朶を打った。 「わかりました。私も参りましょう」  ストーは文字どおりに胸を撫で下ろし、それから慌てて背筋を伸ばす。やはり彼は猟兵であるより前に、年相応の子どもに過ぎないのだ。 「本当に撃ち合いが始まるかどうかはわからないが、覚悟だけはしてくれ。それから……」 「ちゃんと先生は連れて行くよ。僕の安全を保証してもらわないといけないから」  続けて、くつくつとリセリが笑う。 「私も商売柄、銃で狙われたことぐらいはあります。あまり気負わずに行きましょう」  恥ずかしいよりも情けのない気持ちを隠すため、僕はそっと指先に込めた力を緩めた。それでも、手を離すことだけはしない。  獣脂の燃える明かりを頼りに軍人の身体を跨《また》ぎ越し、階段を登って、廊下へと出る。扉を潜った刹那へ耳朶に飛び込んで来たのは、見えない誰かが上げた怒号だった。  ストーはもちろん顔色ひとつ変えずに聞き流したが、意外なことにリセリもまったく同じ反応をする。彼はかえって涼しい顔をして、行き先である出口のほうへ青灰の目を向けた。 「君と同じ考えのひとは何名ほどいるのかな、ストー」 「十人と少しです」 「なるほど、わかりました。背後からの流れ弾にはあまり注意を払わなくてもよさそうだ」  濁りの気配が強い目が、そのまま窓硝子の向こうに向く。黙り込む魔術師のかわりに、ストーが僕に説明した。 「領主の子飼いの連中がほぼ同数、陽動で外に出たやつも同じくらいだ。街中の警《けい》邏《ら》の担当が駆けつけて来ても、倍で頭打ちになる。要は四倍だな」 「多くて四十か」  敵味方あわせて五十余名の軍人は、トゥーラほどの規模の街には少ないほうだ。クロイツはそのうち何人を撃っただろう。  ひとりでは装填の時間もかかるはずだから、そう多くはないと思うけれど―― 「あいつが敵だけを撃ってくれているよう、祈るしかない」 「……うん」 「後は、本格的に撃ち合いになる前に距離を稼げれば幸運だな。行こう」  ストーは夜用の黒い外套を翻し、早足に廊下を歩き出す。  それを追って歩む足取りは、けっして軽快とは言い難かった。  しかしながら廊下をすれ違った軍人のひとりは、先生に、と軍服の上に羽織る上着を渡してくれた。――ただそれだけのことで、前へ踏み出す気力が湧いて来る。そもそもこれは僕の我儘なのだ。それを通すことをためらう理由など、端からひとつもありはしない。僕はリセリの手を強く握り、ずいぶん懐かしく思える外の土を踏む。  手を引かれたリセリは抵抗のひとつも見せず、素直に僕の後をついて来てくれた。  安堵する僕の耳に、またひとつ怒号が届く。ついで乾いた銃声がひとつ。  ややあって、塀を越えてこちらへ飛び降りる影があった。夜目に鮮やかな白に朱《あか》を散らしたその姿は、遠目に見ればひとが丹精込めて育てた特別な花にも見える。 「クロイツ」  名前を呼ぶより速く地を蹴った彼は、いつもより白い顔をしているように思えた。処女雪めいた頬に飛んだ雫の色が、服を濡らしたものと同じ色をしているせいだ。 「怪我は……」 「してねぇ。返り血だ」  駆け寄って来た魔術師は、外套の縁で血飛沫を拭う。そうしていつものとおりになった顔で、不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「……殺したのか?」 「猫に組み付かれたから撃っただけだ」  竜の子らたる獣の身体は、往々にして頑健だ。もちろんそうでない者も零ではないが、軍籍に属する者であるならまず間違いなく、ヒトとは比較にならない堅牢さを誇る。  彼らの命を奪うのに必要な銃弾は、一発では済まない。 「信号の狼煙《のろし》は見たか?」  クロイツに向くストーの目は、知性のない野良犬でも見るようだった。 「合図の空砲だけ聞いた。どこで撃ったんだってくらい近かったな」  応じるクロイツの側は顔を緩め、にへらと笑う。  彼は一層に目を細めると、目線を逸らさずにストーを見た。 「いちおう念のために聞いてやるけど、黙って死ぬなり捕縛されるなりするつもりは?」 「おれたちにそんなつもりがあれば、はじめから先生を助けようなんて思わない」  ストーははっきりと魔術師の白面を見上げる。まだ幼いと見えた赭《そほ》の色のまなこに、黒い瞳はなにを見たのだろう。最果ての獣と同じ色の双眸は薄い瞼を閉じ、いくぶん時間を空けてから開いた。 「それもそうだったな」  川面を渡った冷たい夜風が、血の匂いを運ぶ。  それは今の僕にひどくとって懐かしい匂いであったし、親しみのある匂いでもある。刃を研ぐ音まで聞こえた気がして、僕はそっと自分の耳を押さえる。  ――もしも無事にあの丘の街へ帰れたら、またあの工房へ顔を出したいと思った。 「先生については、おまえらにとってただの銃爪《ひきがね》でしかなかったわけだ」  掌の向こうからひそやかな声が伝って来る。  猟兵は答えず、かすかに唇を噛んだようだった。 「ま、捕縛はまずないだろうな。可哀想だとは欠片も思わんが、先生とやらだけは俺たちが預かってやるから、安心しろ」  それでも、聡いと謳う魔術師の耳にはなにかの言葉が届いたのか。彼はフードの縁を前へと引きながら、品定めでもするようにリセリを見た。  背後のリセリが困ったように微笑《わら》う気配が、指先を通して伝わって来る。 「せめて短剣を持って行くか?」  白い布地が持ち主の顔にすっかり影を落とし切ったころ、低い声でストーが問うた。同僚であったはずの男を容赦なく殴った得物は、今は彼の腰に下げられている。 「短過ぎて使い勝手が悪いから嫌いなんだよな、それ」  言って、クロイツは前を見たように思う。夜の深みを掬って落としたような、黒い瞳で。  いっぽう、ストーは最後にリセリと僕にひとつずつ頭を下げた。そうして駆け出す足取りに迷いはない。行く先はクロイツが見つめる先と同一だ。  リセリはなにも言わなかったが、彼は僕より正確に物事を理解していることだろう。  彼の逃走を防ぐために、それを手引きした人間の処罰のために、もしくはその両方のために、街中に散った軍を集める必要はない。わざわざ労力を割くのは、ほかの目的があるからこそ。それはたとえば、今後の叛《はん》意《い》の芽を摘むこと。逃げる羊を囚《とら》える柵を築くこと。  頭数を揃えているのは全員に平等に手を汚させるため。かつての仲間を撃つのは気が引けるから、本当に殺した人間の存在を隠すためでもあるのだろう。そうして全員の首に巻き付いた、けっして切れない縄を綯《な》う。  それが誰の為になされることであるかを考えると、ひどい寒気がするようだった。けれども僕は唇に犬歯を立てて、震えそうになる身体を叱《しつ》咤《た》する。 「銃声がしたら出るぞ」  強く背を押すように、クロイツの声が言う。 「二段撃ちは警戒しなくていいのか?」 「……おまえってひょっとして、自分の仲間が転がってるところにすぐに撃ち込めるほど神経太いのか?」  問いかけは小さく、呆れたように。  対する僕は、黙したまま首を横に振る。  門の外からは、すでに沸き立つようなざわめきが聞こえていた。それは書物の中に見られる潮騒のようでもあり、木々のささやきのようにも思える。  そして始まりが唐突であったように、終わりもまた唐突だ。  遅れて訪れた沈黙は、むしろ耳が痛いほど。ふたたび耳を押さえようと持ち上げた指はしかし、続く叫びによって空を掻いたに留まった。  鼓膜を震わすその声は、言葉というには瓏々《ろうろう》とした――――

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