戴冠、或いは暁を待つ | 三章:大嘘つきたちの夜
かなた

19

 喧嘩はできない、と魔術師は言った。  けれども、なにもできないわけではない、とも彼は言った。  白い布の向こうで辰砂《しんしや》の光が翳《かげ》り、みずからの瞳と同じ色の闇が落ち切ったころ、魔術師は堂々たる態度で帳を開いた。 「起きてるな。行くぞ」  たしかに眠っていたわけではないけれど、これには文字どおり飛び上がるほど驚いた。慌てて体を起こす僕を鼻で笑い、クロイツは間仕切りの向こうへ去って行く。去り行くその背を慌てて追い駆ければ、彼はちょうど窓を開くところだった。  降りられるか、と彼は聞かない。煉瓦の目地も見えない眼下の闇へ、慣れた手付きで敷布製の綱を放る。  僕はこれでも王女であるので、こういう闇の中へ降りた経験があった。さらには一度降りた先なのだから、降下に臆する理由はない。  そんな僕が降り切るより先に、クロイツもまた窓枠に足を乗せる。彼は先刻と同じく、命綱なしの自由落下で僕を追い越して行った。 「どうせもう戻らねぇから」  路地に降りた僕を迎えて、彼はそんなことを宣《のたま》う。  頭上に見上げた三階の窓は風に揺られて、所在なげに揺れていた。  クロイツは特に構う気配もなく、足音を殺して路地を抜ける。忍び足で付き従った先は屋敷の正面、ヴィガに招かれて入った玄関口だった。ましろの指がノブを回すと、扉はさしたる抵抗も見せずに口を開く。クロイツは呆れたように片眉を上げてから、足取りは変えずに屋内へ入った。  屋敷の中は妙に静かだ。吸音性のよい絨毯のおかげかもしれないし、ひとが中にいないせいかもしれない。どちらであるかを判じるより先に、クロイツは僕を応接間へ導く。 「あいつの商《あきな》いは趣味だからな」  部屋の奥には棚があった。屋敷のすべてと完璧な調和を見せる、瑠璃溝隠《ロベリア》の花の螺鈿細工がその戸を彩る。  蒼い蝶に似た花弁の細工を指でなぞって、魔術師はゆっくりと真鍮の把《は》手《しゆ》を引いた。優美な外見とは裏腹に、開いた戸はひどく分厚い。 「管理が杜《ず》撰《さん》で助かる」  棚の中を覗き込めば、嗅ぎ慣れない匂いが鼻を掠める。こればかりはほかに表現のしようもない、強烈な火薬の匂いだった。 「おまえ、銃の装填はできるか?」 「嗜《たしな》み程度でよければ」  夜闇に浮かぶ月が落とす青い光は、室内を青紫に近い色に染めている。  その色彩の中で顔を見合わせ、僕らは笑った。 「相手が三人以上じゃ、喧嘩なんかしてらんねぇからな。まとめて鴨撃ちにしてやる」  棚に入っていた銃は四|挺《ちょう》。それらを半分ずつ抱え上げて、弾は箱ごと拝借する。  ――これを使って陽動をするのがクロイツの役目だ。そして僕は詰所へ入り、ストーが言う先生を捜して、助ける。黄昏の光が消える前に、僕らはそのように段取りをしていた。  男にしては小柄なクロイツと、女にしては大柄な僕と、荷物を抱えれば歩む速度はそう変わらない。  煉瓦敷きの通りを駆け抜けて、街の中のひときわ明るい一角を目指す。  魔術師の処刑という大事を前に、遠いいずこかに座《おわ》す獣の目を避けるため、家々はすべて明かりを落としていた。そんな中で僕らが目指す先は、けっして燈火《ともしび》を絶やすことができない場所――有事の際は避難先として用いられる、トゥーラの役所だ。  トゥーラは兄弟都市と同じく、役所と軍の詰所がひとつの敷地を共有している。その所在地が街の中で一等高いのも、同じ。暗闇に沈んだ街の中、見失うことなどありえなかった。  詰所へと続く斜面が見えて来れば、背後に控えた防雪林の姿も見えて来る。クロイツは顎を使って、そちらに向かう旨を示した。  応じて整えられた道を逸れ、獣道さえない斜面へ分け入る。  あるかなしかの風に吹かれた木々が、唸りにも似た声でざわめいていた。 「弾をけちるなよ。どうせ元手がかかってねぇんだから、どんどん入れろ」  ざわめきの向こうから届く声は、新しい玩具を手に入れた子どものような喜色を宿す。 「君のそういうところ、心底尊敬する」  言い返す声に笑いながら、魔術師は完全に役所の敷地の裏を取った。茂る枝葉の合間から届く明かりは、僕らの手許を十分に照らしてくれる。  拝借してきた槊杖《こめや》を使って弾を込めるのも、おかげでさほど難しくはなかった。なにせ僕にとっては、乗馬と同じく慣れた作業であったもので。 「当てられそうか?」  四挺すべての銃に紙製薬莢の中身を詰め終えてから、僕はクロイツの見やる先――篝火が焚かれた詰所の囲いへ目を向ける。 「誰に向かって言ってやがる。弾が届く距離なら盲《めくらう》撃《めくらう》ちでも当てる自信があるぜ、俺は」  花祭りに臨む娘の笑みで、魔術師は応じた。――春のはじめ、娘たちはこれ幸いと想い人の手を取って、祭りの踊りの輪へと加わる。けれどもクロイツがこれから手に取るのは、僕が弾を込めた銃だ。  それによって踊りの輪へと導かれるのは、囲いの上と中に控える軍人たち。 「弾切れは」 「心配しなくていい。銃も元手はかかってねぇからな」  地面に並べられた四挺の銃のうち、手近なひとつを白い手が掴む。およそ争いごとに向いているとは思えない手だが、僕は彼がこの手で成し遂げたことを知っている。  だから今回も、なにをするつもりかと仔細を尋ねる気はしない。本来とは違う用途に用いられ、遠からず破壊される定めの火器に、心の中でひそかな弔いを唱えるだけだ。 「そういやさ」  構えた銃の照門を覗きながら、魔術師がふと小さな声を発する。  そのとき僕はちょうど木の陰に座り込み、箱の中の弾を数えているところだった。顔を上げても視線が交わることはない。 「俺、おまえに俺の座右の銘って教えてあったっけ」 「……聞いてないと思うけど」  照門を覗くために傾けた顔を正すことなく、ああそう、と彼は言った。 「一に先手必勝、二に手加減無用、三に死なば諸共のつもり」 「つまり死んではやらないぞってことだな」 「あと、殺すのもなし。なぜなら俺は比較的優しいからね」  僕はうなずいた。  クロイツは鋭く息を吸い、銃口を上げる。白く美しいその指が銃《ひき》爪《がね》を引き、高らかな銃声が耳を打った。着弾位置はわからない。  僕は努めて銃弾の行く末から意識を外し、弾の入った銃を拾ってクロイツへ手渡した。  詰所にも役所にも、目立つ動きの気配はない。しかしながらクロイツは気にするふうも見せずに、新たな一挺を構える。火薬が爆ぜる音色がしつこいくらいに鼓膜を揺らした。その中でようやく、誰かがなにかを大声で叫ぶのが聞こえた気がした。  三挺目の銃をクロイツへ渡し、はじめの一挺に弾を込める。  続く銃声は少し間が空いた。いよいよひとを撃った音であるかもしれない。なにせ向こうに灯りがある以上、防雪林からの銃撃は狙いを定めるのが容易だ。  対する詰所の側は自分たちが抱えた火のために、むしろ周囲の闇を濃くしている。  付け加えるならば、僕らが使っているのは火縄への着火と、それに伴う発煙を必要としない燧石式《フリントロック》の歩兵銃《マスケット》。あちらからこれを見つけるには、それなりに時間がかかるはず。  僕はそんなことを考えつつ、四発目の銃声と入れ違いに、弾の入った最初の一挺を差し出す。ひと巡り後の銃声は、ふたたびわずかな間を空けて響いた。  枝葉を揺らす風に乗って、悲鳴じみた声の残滓が銃声より明瞭に響く。六度目の銃声は僕らが銃を入れ替えるより先に鳴った。  クロイツは舌を打って、僕の手の中に収まっていた銃を奪い取る。銃爪を引くより先に七度目の銃声。続いた鈍い音が木への着弾音であるとわかったのは、単に僕がそれを聞いた経験を持つせいだ。――正直に告白すると、僕は獲物のかわりに樹を撃つ機会には嫌というほど恵まれていたもので。  僕は身体をなるべく縮こませながら、太い木を背にして弾を込めることに集中する。銃声を数える余裕はとうに消えた。自分が撃たれるまでは絶対声を上げるな、とクロイツからは言われている。そんな彼は緊張した様子もなく、淡々と銃を撃っている有様だった。  軍で正式採用されている型の歩兵銃は、予算との兼ね合いで不発も多く、まともに撃てる数も決まっているが、呆れた胆力であると思う。しかしながらここに来て、不意にクロイツの肩を掠めて細い枝が落ちた。来た、と僕が思うより先に、彼は素早く膝を折る。  もちろん、それは被弾による動作などではない。  座ることで身体を支え、少しでも命中率を高めるための構えだ。つまり、ここからは本気で撃ち合いをするという意思表示。そして、僕への合図。

ブックマーク

この作品の評価

2pt

Loading...