網渡りの猫に問う(上)

 パン屋の朝は早い。  今日も今日とておいしいパンを、店頭に並べるため焼き続ける。  永遠に巻かれることを運命づけられたクロワッサン。  芳醇な香りで鼻腔くすぐる網目模様のメロンパン。  張り込み時には決して欠かせないこしあんぱん。  きらりと光る焦げ茶色の表面が固めのカヌレ。  挙げていけば枚挙の暇なし。  多岐に渡るパンの種類の中でもっとも人気なのは、熊の形をかたどったクリームパンだ。噛んで断面を覗けばバニラビーンズが点々と散る甘さ控えめカスタード。これ以上ないという程にふっくらしたパン生地がそれを柔らかに包む。  |氷熊《ひぐま》ひよりが一年前に開業したヒグマベーカリーは、面積百八十平方キロメートル以上ある離島の片隅に位置する。  パン屋の後方には雪化粧を施された美しい山があり、前方には厚い白を被った三角屋根がまばらに見える。そしてなにより、ヒグマベーカリーの扉の前に立つと海が広がっているのだ。  肺腑を抉るような寒さを携えた二月の海。  寄せては引いていく白波が真冬の気配を連れてくるようだった。  ひよりは自分の店から望む、その風景を好ましく思っている。開店準備の合間や仕事を終えたあとに、目を奪われることはままあった。  ひよりにとって、大学に進学するまでこの地だけが唯一だった。自分に甘い両親も、なにかと気にかけてくれる親戚も、心を許せる友達も、にこやかに挨拶をしてくれる隣人もいる。  満たされた島から飛び出すには勇気が必要だったが、島外での大学生活はそれなりに円満に終えることができた。就職面においても順風満帆で、こうしてパン屋を開業できる資格やノウハウを手に入れることができた。  都会での日々は十年に満たないものだった。  それでも離れていた間に、離島の景色への恋しさが募っていたようだった。帰ってきた当初は、いつまでも海を眺めていたものだ。  とはいえ、パン屋稼業はいつまでも惚けてはいられない。そして一人で回せるほど甘くはないので、三人の従業員を雇い、計四人で重労働をこなしている。  ヒグマベーカリーには販売とイートインのスペースがある。パン種は十五、それとは別に月ごとに限定のパンを売り出している。午前中に半数が売れ、昼下がりには完売するのだが、あらかじめ予約をしている客がいる場合は十九時まで取り置くことにしていた。  イートインスペースは広くはない。二人掛けのテーブルが窓側に二か所あるだけだ。自由に飲めるようにコーヒーメーカーと紙コップを置いておき、購入したパンを食べるならここでどうぞ、という形にしている。近隣の住人や中高生の利用が多い。  窯場の高い位置にある小窓から、陽が差し込む昼頃には角食が焼き上がる。角食を最後に、パンの製作を終える。あとは片づけと売り切れるまでの販売に力を入れて、本日も早朝から夕方にかけてみっしりと働いたことになる。  定休日の前日ともなれば、仕事量はかなり減る。従業員にはもう上がるように伝達した。  島の西へと沈みゆく陽を視界の端で認めながら、ひよりは閉店に向けての準備をする。  接客中に降り積もっていた少量の雪をはねていく過程で、後方から人が近寄る気配がした。テンポのずれた音が、雪道を踏みしめる足音に交じって聞こえてきた。  ひよりは表情を緩めて振り返る。 「そろそろ来るかなって思ってたよ、ふたりとも」  氷点下続きの日常では、吐く息はどうしても白くなってしまう。  ひよりはてのひらを擦り合わせながら、防寒具を装備した女子高生と松葉杖をついた男子中学生を歓迎した。 「ひよりさん、お仕事お疲れ様です」 「そちらも学業お疲れ! 愚弟の付き添いありがとね、葵ちゃん」  ひよりの弟の眉が一瞬、跳ねあがる。それでも感情の発露を抑えたらしく、氷熊|鈴一《すずいち》は無言だった。  鈴一とは対照的に、|草壁葵《くさかべあおい》の表情は明るい。頬と鼻先が冷え切った空気のせいで赤くなってはいたが。 「鈴と話しながら帰るの、楽しかったですよ。いつでもお任せください」 「え、えー、最近こいつ私の前では全然喋んないのに」 「荷物持つよっていっても全然鞄を手放さないので、ひよりさんからもわたしを頼るよう鈴にいってあげてくださいね」 「いや、こいつは今私のいうことを全くきかないからね、鞄のことは諦めて」  と、ひととおり女子高生との会話を楽しむ。  突然、こんっ、と硬質な音がした。  葵と同じように鼻を赤くした鈴一が、松葉杖の先端で足元の氷をはじいたのだ。口を利こうとしないところは小生意気だが、意思表示の仕方がいじらしいように、ひよりの目には映る。  ひよりは外開きの戸を開けて、こどもたちを促す。 「寒かったでしょ。暖房まだ切ってないから入って。葵ちゃんが予約してた食パンもあるよ」                  *  店内の暖かさは寒さで強張った体を弛緩させていく。  ひよりはレジカウンター内の戸棚から、透明のビニールに包まれた一斤の角食を取り出す。  柔らかな角食からふわりと香りが漂った。  ヒグマベーカリーの常連客である葵が代金をトレイに乗せる。 「取り置きありがとうございます。来週水曜日に同じものをお願いできますか?」 「もちろん。こちらこそ、いつもお買い上げありがとうございます」    にこやかな応酬をしながら、横目で鈴一の姿を目で追う。鈴一は奥の席にコートを脱がずに座っていた。ギプスで固定された左足をつまらなそうに眺めている。  鈴一は師走に凍った路面で足を滑らせ、左足を骨折していた。  松葉杖があるので歩行は可能だが、年が明けてからの降雪は例年より容赦がなかった。早朝は人が一人やっと通れるくらいにしか除雪されておらず、道は狭い。すれ違うのも難しい場合がある。  怪我人に悪路を歩かせたくないし、再度転倒して骨折箇所が増やすというのもかわいそう、そんな理由でもって、ひよりは自動車で登校時のみ、鈴一を中学校まで送り届けていた。  帰宅時は葵に頼み、ヒグマベーカリーまで鈴一に付き添ってもらっている。   「じゃあ、急ぎの用事がなければ座って待っててね。今日も帰り送っていくから」 「はい、わかりました」  草壁家は氷熊家の斜向かいにある。お礼がてらに車で送迎することなど、ひよりにとっては造作もないことだった。  葵は紺色のダッフルコートを着たまま、鈴一がいるテーブルに向かった。右手に角食を携えて。  それを見届けてから、ひよりは奥の流し台の方へと歩いて行った。                   *    手についた水滴をタオルで拭いながらレジに戻ると、葵の躊躇いがちな声が聞こえてきた。 「え、調べものしてるだけだよ……気にしないで勉強続けてていいよ」    対して、鈴一も何事か返したようだが、元来声量が不足しがちなタイプなのでまったく聞き取れなかった。  幸いなことに、あとの仕事はパンの取り置き依頼した客の来店を待つことと最終的な清算くらいだ。  ひよりは物音を立てないように木製の椅子を引き寄せた。これから、こども二人の死角になる位置で盗み聞きをする腹積もりだ。 「あ、あー、先輩にメール打ってるって言えば誤魔化せたのかなぁ……うん、そうだよ。わたしが調べてたのはカミネソウジについてだよ」  押し問答で敗北に喫したのか、渋々と葵が語りはじめた。 「実は……円谷先輩から小説家のカミネソウジが学校に来るかもって、連絡があって」    円谷先輩とは、葵の所属する部活の先輩であった|円谷杏子《つぶらやきょうこ》のことだろう。  ひよりも葵の紹介で何度か会ったことがある。確か鈴一とも面識があるはずだ。パンの会計時に五回ほど小銭を床にぶちまけたことがある少女だったので、覚えていた。  人懐っこい笑顔で興味を持った者の周囲をくるくる周る、元気な女子高生だったと記憶している。現在は島外の短大に進学したと聞いたような気もする。  初対面の時、円谷は鼻先に絆創膏を貼っており、なにかとそそっかしいところのある少女だったように見受けられる。 「あ、カミネソウジって知ってる? 二年前にデビューした推理作家なんだよ」  カミネソウジを漢字でどう書くかは、話の流れですぐに知れた。  加峰宗司、現在二十七歳。  二年前に創設された雨宮文学賞長編小説部門にて新人賞を受賞した推理作家。受賞作品『恩は仇で』は猫とカレーライスを巡って謎を紐解くライトなミステリーだ。  内容的には若年層向けだが、表紙が日本画風の楚々とした面持ちの猫だったためか万人受けし、重版にはそう時間はかからなかったという。  翌年、雨宮文庫から二作目が出版される。『恩は仇で』の続編『恩に着ぬ』が発売されるやいなや、恩知らずシリーズとして好評を博した。表紙は猫の水墨画だったのもあり、猫好きの間でも人気が出た。  推理作家、加峰宗司の第三作目『鷽の恩返し』は来月上旬発売予定。 「円谷先輩がこの小説家の大ファンなの。いろんな人におすすめしたり、加峰宗司先生が開設したサイトに日参するくらいに。高校の図書室にも一巻だけならあるから、入学したら鈴も是非読んでみて。あんまりミステリーを読まないわたしでもおもしろいと思えたから」  そんな今をときめく人気作家が、円谷杏子が通う短大に来るとなると、葵が気にして調べ始めたのも頷ける。 「でも、おかしいの。調べても加峰先生が学校でサイン会や講演会をするとか……そんな情報は一切出てこなかったんだよね」  雲行きが怪しくなってきた。 「出版社と先輩の学校のホームページも今チェックしてみたんけど、そういった記述がなくて」  かこかこ、そんな音がBGMをかけていない店内に響く。手持ちの端末の操作音だろう。 「でも加峰宗司はホームページになら、もしかしてこれかなっていうのはあったよ。でも、なんか、違うような気がするっていうか……」  どうにも、歯切れが悪い。  ひよりはエプロンから白い携帯電話を取り出す。操作音を響かせないために、一度作業場に戻る。 「加峰宗司っと」  著者名でネット検索を試す。  出版社やウィキペディアのデータが浮上するが、その中でも一際異彩を放つ項目があった。 「……謎之羊羹?」  ページを開いてみると、それが加峰宗司個人によるホームページであることがわかった。  小さな画面で謎之羊羹を閲覧していく。画面の端にアクセス解析ツールが設置されてはいるものの、基本的なメニューは六つ。非常にシンプルな構成だ。  自己紹介、著作リスト、日記、掲示板、リンク、メールフォーム。     先程、葵から紹介された箇所を省いて、日記を選択する。直近の日記は昨日の二十三時頃に更新されている。来月発売予定の『鷽の恩返し』の書影が掲載され、文章は甘味レポートのようなものが五行ほど、綴られている。     そこから数行空けて、もう一文。 「『|綾月《あやつき》女短……?』」  読み上げて、ゆっくりと目を瞬かせる。  綾月女短とは、道央にある綾月女子短期大学のことだろう。それに三点リーダーと疑問符がついている。  ひよりは円谷杏子が通う短大名を知らないが、話の流れからいって、この短大に在籍していると考えるのが妥当だろう。  葵の歯切れが悪かった理由がこれなら、よくわかる。  この一端だけで、講演会等を短大で行うと考えるのは早計だと言わざるえない。  円谷杏子は発売予定の作品の書影を見て、テンションが上がってしまったのだろう。  続いて、よく知る短大名が憧れの加峰宗司の日記に記載されていたら。冷静さを欠いた女学生が勘違いしてしまう、そういうこともありえなくはない。  そそっかしいところがありそうな少女だったしなぁ、とひよりは嘆息する。  掲示板をチェックしてみたが、日記が更新される前の昨夜二十時頃で止まっている。日記の短大名について問い合わせる者はまだいないようだった。  掲示板自体に不審な点は特になかった。精々、冒頭で個人情報を載せないようにと促す文面があることくらいか。あとは月一ほどの頻度で書き込みをしている「粒餡」というハンドルネーム。これは絶対円谷杏子だろうと、ひよりは心密かに決めつける。  次は「謎之羊羹」のリンク先を確認してみる。  ラインナップは、出版社の雨宮社、懇意にしている小説家、加峰宗司の出身地である埼玉県の図書館、国立国会図書館、日本の古本屋、国立情報学研究所(NII)による総合目録データベース。上記のホームページや検索エンジンが主だった。  ひよりは目をつむって、緩慢な動きで眉間を揉み解した。

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