戴冠、或いは暁を待つ | 三章:大嘘つきたちの夜
かなた

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「――ねぇ、クロイツ。起きている?」  微睡《まどろ》んでいた目を開く。  といっても本当に自分が眠っていたかどうかすら、今の僕にはあやふやだ。なにせ、今朝は日が昇る前から起きていた。眠りに落ちた自覚はなく、白い緞帳を通した陽光も、未だ明るさを保っている。 「そういう声のかけ方はどうかと思うぞ、俺は」  布の向こうから返る声音は、雪の降る朝の清冽さ。含まれた鋭さがもたらすものは、霜の花を咲かせた窓に触れたときの痛みに似ている。  ささやくように謝意を告げれば、返答のかわりに薪が爆《は》ぜる音がした。この部屋を温めている備え付けの暖炉は、間仕切りの向こうでその火を燻《くゆ》らせている。 「……イラテアの言ったこと、覚えている?」  寝台の上で寝返りを打ったところで、見えるものは少ない。壁と布と扉と床、それですべて。落ちる布《ふ》帛《はく》の皺を目で追っても、向こうの寝台は影すら見えなかった。 「俺は馬鹿じゃないんでね」  聞き違いのような軋みの音がひとつ。  その音によって、僕はクロイツの居場所が寝台の上であることを悟った。  声色にこそ眠気に翳《かげ》った気配はないが、眠っていたのかもしれない。もしくは寝台の上に横たわった姿勢で、考えごとでもしていたか。 「念のために聞くけど、僕らが彼女の腹に収まるかどうかを賭けているという線はない?」 「あいつは刑死者くらいしか食わねぇよ。希望者がいねぇからな」  刑死者といえば、獣たちの中でそうと望むものに呈される食材である。  ヒトによっては死後に残る遺体を獣に食わせることを望むが、誰からも食うことを望まれなかった獣は、長命を求める限り刑死者を食すしかない。  ――僕はなんとはなしに口許を押さえ、次の可能性を探ろうとした。 「というか、ルカ。そっちから外に出られるか?」  その思索を留めた声に、僕はついと首をかしげる。体を起こして床へ降り、言われたとおりのことをたしかめるべく扉へ向かった。  指先を伸ばしてドアノブを掴み、回しながら向こうへ押す。 「あれ」  動かない。引く動きに切り替えても結果は同じだ。ドアノブを逆にひねっても、開かないという事実に対する理解を深める結果に終わる。  それでも何度か試行したのちに、僕は間仕切り布のほうを振り返った。 「開かない」 「だろうと思った」  布の間から顔を覗かせた魔術師が、黒い眼《め》を眇《すが》めてこちらへ歩んで来た。細い指先が戸板を緩々と撫で、蝶番の螺子《ねじ》留めへと至る。 「失せもの探しの術でぶっ壊してやってもいいんだが、ヴィガが怒ると面倒だからな……」 「……失せもの探しで?」 「その辺からドアを探せば吹っ飛んで来るぞ。どうだ、試すか?」  僕が首を横に振ると、彼はひどくつまらなそうな顔をした。試したいのか、などと尋ねる勇気はあいにく持ち合わせがなかった。 「あの女は嘘だけはつかねぇけど」  クロイツは頭を振ると、戸板に耳をつけた。 「賭けごとになると、いつも勝ち方が卑怯でよくないね。俺は嫌いだ」  言葉に合わせて閉じられた瞳は、束の間の眠りを模す大理石の彫像のよう。それが耳を澄ませる仕草だと判じて、僕は息を止めた。  そこに息苦しさを覚える前に、魔術師はうそりと目を開く。 「今なら行けるな」 「行けるって、外に?」  点《てん》頭《とう》すると同時に白い裾が翻った。よく似た色味の帳の向こうへ消える姿を追い、僕もまた布を跳ね上げる。その向こうにあった寝台の上に敷布はなく、無残に引き裂かれた布切れが床の上に落ちていた。 「あいつは俺らを閉じ込めて、賭けに勝った気でいるんだろうよ。そうは行くか」  裂かれた敷布はその何箇所かに結び目がある。それがロープがわりに使うための細工であることを、僕はよくよく知っていた。小さいころに同じものを作って、王宮の露台《テラス》から庭に降りた経験があったので。 「おまえがなにかやらかす原因が、この街にはあるんだろうな。俺はそいつを探しに行く」  クロイツは手早くすべての布を拾い集めると、その端同士を結って結び目を噛ませた。長い一本の綱と化したものの端を、さらにベッドの脚に括り付ける。 「どうせおまえも行くだろ」  問われて肩をすくめた。敷布の亡骸を見た時点で予想はしていたが、答えまでは考えていなかった。あまりに当然のことであったから、その必要性を感じていなかったせいだ。 「行くよ」  換気のための窓を開けば、すぐ眼の前には壁が広がる。屋敷の裏にある建物のものだ。  窓枠とそこまでの距離を目視でたしかめ終えたころ、クロイツが即席のロープを投げてよこす。  降りられるか、とは聞かれなかった。降りられる、とは言わなかった。 「僕は、君の目付役だからね」  そして、応《いら》えは待たない。片手にロープを掴んだまま、窓枠を踏み越えて外へ飛び出す。  露台からの懸《けん》垂《すい》下《か》降《こう》と比べれば、背後に壁のある空間を降りることなど容易い。体のほうも、意外に当時の技術を覚えてくれていた。  易々と降り立った煉瓦造りの路地の上、僕は掴んだロープをそっと引く。路地を見下ろしていた魔術師はその合図を受けて、するりと窓枠の向こうに引っ込んだ。ややあって落ちて来るのは、結び目のついたロープの端と、金の尾を引く短躯《たん く》――  目を瞬《またた》かせる僕の手から、たおやかな手が布地の感触を奪い取って行った。 「なに間抜け面してんだ、阿呆め」 「……本当に君が魔術師なのか、いよいよもって疑《うたが》わしいな、と」  クロイツは目を細めた。訝《いぶか》しむような、憐れむような、蔑むような、とかく複雑な色が黒い瞳に揺らめく。僕がその意味するところを明確に悟る前に、彼はまた白い裾を翻した。  建物の間の細い路地から顔を出し、通りを覗く後ろ姿は、いつぞやと同じく幼い子どものように見える。 「トゥーラはずいぶん静かなんだな」  静けさに合わせるように落とした声音は、さも不思議そうな響きを帯びていた。 「ひょっとしてトゥーラははじめて?」 「残念ながら」  なるほどと内心で応じつつ、僕もまた路地の出口へ足を向ける。 「ひとの少ない街ではないはずなんだけどな」  肩を並べて歩きながら、クロイツはうそりと夜の色のまなこを細めた。 「ひとの少ない街ではない」 「聞いた話だよ」  煉瓦通りの上に満ちているはずの住人の姿は、ない。  けれども堅牢であるはずの煉瓦の表面には、ひとの往来にともなう摩耗が見て取れる。一定の距離を保って並ぶ車輪の跡に至っては、より明確に。  その流れを目で追いながら、僕は肩をすくめた。 「……それに、そのひとも直接見たわけではないから」 「魔術師の千里眼か」  すかさずの問いに対しては、ひとつうなずく。  僕にこの街について教えてくれた先生は、高等な部類の魔術師であったのだ。この街についての僕の知識は、彼が魔術によって視た情報に基《もと》づく。  クロイツはなるほどと点頭を返し、みずからの耳許に手を充てがった。 「――――うん、見間違いでもないだろう」  それが耳を澄ませるための仕草であることに気づいたのは、彼がふたたびその目を閉じていたから。わずかに震える睫毛の動きがなければ、やはり精緻《せい ち》なつくりをした人形にしか見えない姿だった。  けれども彼の耳は人形のものとはまったく異なる。それは押し殺された猟兵たちの足音さえ聞き分けてみせる、遠《とお》耳《みみ》でないことが奇妙なほどの耳なのだ。 「ひとはいる。建物の中だ」 「やっぱり、呆れた地獄耳だね」  彼の聴覚を持ってすれば、隠す気の無い生活音など、見え透いた内緒話よりも明瞭に聞こえたことだろう。クロイツは開いたばかりのまなこを細め、唇の端を持ち上げて、顔全体で笑みを作る。  これを下品な笑いと取るか、ひとだからこそ作れる表情であると取るかは見る者次第だろう。とりあえず僕は後者だ。そういうことにしておく。 「俺がいたときは、ここに来たことがねぇからな。ほかの魔術師の話は助かる」  止まった歩みを再開しながら、僕は首をかしげた。 「俺がいたって、どこに?」 「イラテア商会」  ああ、と僕は小さく応じる。ちょうど数日前、彼が昔は荒事を生業《なりわい》にしていたことを聞いたばかりだ。それを踏まえて考えれば、この情報は驚嘆には値しない。 「あの女はこの街があんまり好きじゃねぇんだとさ」  中洲と呼び得る立地にあるトゥーラは、天然の濠《ほり》に堅守された難攻不落の街である。イラテア商会は必要に応じて武器を扱う人員も貸し出すが、トゥーラがそれを必要とすることは永久にないだろう。  それを思えば、イラテア自身がこの街を嫌う理由は明白だ。まったく金にならない。 「でもその割に拠点があるんだね」 「前に山に来た連中が、新しく用意したって言ってたぞ。あいつの商売は趣味みたいなもんだから、金に物言わせたんだろ」  クロイツは一笑し、歩きながら首を巡らせる。  耳に手を当てず、目を閉じることもないが、それはたしかに音を聞く仕草だった。より的確な表現を用いるなら、音の出処をたしかめる仕草だろうと思う。  その証拠に、クロイツはすぐに陶磁器めいた指先で、曲がり角のひとつを指し示す。  従って進めば、また耳を澄ませる仕草。指先は行くべき先を提示し続けた。  これではイラテアも彼を閉じ込めておきたかったわけだ、と僕は考える。  あの部屋の鍵は僕を閉じ込めるためではなく、クロイツを閉じ込めるためにかけていたのだ。事実としてヴィガは、僕を部屋に案内したとき、間違いなく鍵を開けていた。  この白いばかりの容姿の魔術師は、あまりに自分の欲求に忠実だ。そしてそれを叶える意志があり、能力があり、障害を跳ね除ける力がある。ゆえに彼はみずからの目的を果たすことができるのだ。  諦めず、過《あやま》たず、妨げられることもなく。  ――だからこそ今の僕には、すでに前を歩み始めたクロイツの背中が少し眩しい。  それはもちろん外套の色のことだけでなく、彼が持つなにかがひたすらに目《ま》映《ばゆ》く見えてしまうのだ。  そんな感情に名前をつけるより前に、前を行く魔術師の爪先が形の違う煉瓦を踏む。  道の終わり――ぐるりと丸い広場に輪を描いて並ぶ小さな煉瓦は、トゥーリーズの広場のタイルによく似ていた。  トゥーリーズの広場の中央には瓦斯《ガス》灯があるのだが、トゥーラの広場が抱いているのは白《しら》石《いし》を積んで作った花壇だった。そこに咲く花の姿はなく、かわりに光を透かす鉱石の姿がある。否、それを花と呼んでも間違いではないだろう。  なぜなら、それを支える枝も萼《がく》もあるからだ。  無造作に黒土へ差された銀の木肌は、雲を通して落ちる光をまばらに跳ねる。煌めきの色彩は白に似ていた。 「銀の枝と|水晶の《枯れない》花……」  偉大なる竜と争ったがゆえに水底へ沈んだと伝わる、貝の都の呪いが咲かせる花である。  子守唄としてその姿を唄っていた男を見れば、ぴたりと足を止め、ずいぶん急な角度で首をかしげていた。もはや耳を澄ませるのではなく、ものを考える所《しよ》作《さ》にしか見えない。 「どうした?」 「――いやね、音が、」  聞こえにくい、と続いたはずの言葉を攫って、高く鈴の音色が響く。おそらく出処は広場へ続く通りのどれかひとつだ。  複雑に反響した音は、出処をひとつに絞ることを困難にしている――が。 「君、ひょっとしてこれがなんの音か知らずに追ってたの?」  僕は、この音を知っている。だからこそ、もっと早くから聞こえていれば、広場を経由せずとも音源を特定できたかもしれない。そしてそれが叶っていれば、僕は屋敷に引き返すことを主張していただろう。 「今まで聞いたことねぇわ」  呆れて溜息を吐いた刹那、またしゃんと音がした。  その正体を脳裏に思い浮かべて、どうにも重い口を開く。 「僕らは、最果ての御方の夢がなにより大事でしょう。特に、君たちみたいな魔術師は」  クロイツは考え込むように口許を引き結び、それから頭を縦に振った。迷うようなことではなかろうと呆れつつ、僕は先の彼と同じく通りのひとつを指し示す。  示した根拠は、通りの太さ。この音を立てる原因は、必ず街の一番広い道を選んで通る。 「だからね、魔術師を殺すのはあんまりよろしくないんだよ。将来の自分の側仕えが望まぬ死を迎えるのは、あの方にも気分のよい話ではないし。それでね、ほら」  覗き込んだ先には、白衣の影と白い煙を見出すことができた。細くたなびく煙を吐き出す蒼玻璃の香炉と、それを吊るす白木の杖の姿もまた同じく。  杖の石突が煉瓦を叩くごとに、しゃんとひとつ鈴が鳴る。先触れの、獣避けの鈴が。  一団が身につける白もまた、最果ての獣から一番離れた忌事の色である。同時にその威光を――魔術を隠すとも言われる色であるから、儀礼において用いる理由は少ない。 「魔術師の処刑をする前には、ああやって通る道を先に隠しておくんだよ」  蒼の玻璃で飾った吊り香炉から漏れる煙の匂いは、風向きのためか広場までは届かない。  けれども僕の記憶が正しければ、香炉の中で焚かれているのは薫陸香《くんろくこう》のはず。それも北方の万年雪の土地に存在する、死した樹海で採取される琥珀から精製されたものだ。あれは焚くとわずかに甘く清涼な香りがし、竜はそれを厭《いと》うと伝えられていた。 「ふぅん、なるほどね」  白の意味など斯《か》様《よう》な儀礼でもなければ形骸化して久しいのだが、その色をまとう魔術師はどうやら、人一倍理解が甘いようだった。  相鎚はどこか適当な風情があったし、布の縁から見える横顔に至っては、食い入るように通りの向こうを見つめている。 「一番太い通りを使うのはそのほうが目に付きにくいからだって先生に聞いた。処刑のために広場を使うのも同じ理由のはずだよ」 「……おまえ、自分の知ってることはやたら早口で話すな」  僕ははたと口を押さえた。たしかに少しは饒舌《じようぜつ》だった気もするが、早口になっている自覚はさっぱりだった。慌てて謝罪を告げたものの、それに対する返答はない。 「というかあれはね、見ると縁起が悪いって言われてるんだよ」  なるべくゆっくりと告げた言葉に、黒い瞳がこちらを見る。 「ああそう」  そしてまた、通りのほうへと向き直る。 「……今の僕の話、聞いてた?」 「聞いてた」  言葉を喰《は》んで、澄んだ鈴の音がする。香炉に取り付けられた鈴はどれも音《おん》階《かい》が少しずつずれていて、重なり合う和音は長く余《よ》韻《いん》を残した。  それがすっかり途絶えてしまう前に、僕は金糸に彩られた裾を掴む。とたんにクロイツは煩わしげな声を上げ、それを強く引っ張った。指先から布地が逃げていく。 「呪われるっていう話もあるんだよ」 「だからなんだよ」  恐ろしくないのか、とは問えなかった。――あの香炉の煙が成す帳《とばり》を嫌うあまりに、竜はその周囲にあるものを呪うという。だからこそ、今この街にひとの姿はないのだ。  恐れもせずにあれをじっと見ているクロイツは、なにかがおかしい。豪胆であるとか、不信心であるとか、そういう括りすら超えている。父祖が交わした契約のおかげで竜の呪いを受けない僕ですら、あれをひどく恐ろしいものだと思うのに。 「こっちが広場だから、あれ、たぶん帰って来るよ。見られるとろくなことにならない」  僕は今度こそしっかりと白い布地を握り込んだ。 「だとしても服を引っ張るな、服を。俺はな、子どもじゃねぇんだ」  ふたたび布を引っ張り返して僕の手を逃れた彼は、腕を組んだ。なにがなんでも三度目は受けないという意思表示である。  僕は呆れ返った。そのまま肩をすくめて踵を返しかけ、 「あー……」  最終通牒を叩きつけようとした口を噤む。クロイツの胡乱げな眼差しを受けて、僕は顔を俯けた。よく考えるまでもなく、僕はひとりであの屋敷へ戻ることはできないのだった。  まさか正面から入って行くわけにもいかない。 「まあ、ちょっとぐらいなら見てもだいじょうぶ……かもしれない」  辛うじて告げた言葉には、舌打ちの音が返される。 「おまえが駄目でも俺は見たいんだよ、おまえごときにどうこう言われる筋合いはねぇぞ」  僕は本日何度目になるかもわからない溜息をつき、通りから離れた煉瓦の壁に背中を預けた。一体なにがどうしてあれを見たいのかは不明だが、彼はもう梃《て》子《こ》でも動かないだろう。  やはりアマリエやハイロがそう判じたとおり、僕は彼の目付役としては無力に過ぎる。彼が成そうとすることを、こうして見ていることしかできない。  ――無事トゥーリーズへ帰り着いたら、僕は目付役の任を辞すべきだと思った。エクリールはそれが原因で寝付くかもしれないけれど、もっとひどいことが起きてからでは遅い。もしかしたら次は彼の命がないかもしれないのだ。  そう決意を固めたころ、クロイツの顔が通りのほうから逸れた。  いよいよ帰れるかと思って背中を浮かせたが、垣間見えた顔には警戒の色が濃い。鋭く細められた眸が細い路地に向くのに合わせて、僕も思わず同じほうを見る。  そして、目を剥いた。  広場へ駆け込んで来た人物もまた、おおむね僕と同じような顔をしている。  けれども僕と目が合うと、彼は慌てたように片手で口許を覆った。見様によっては口を塞いだふうの動きだが、真実は異なるように思われた。まだ細い指の間からは、隠し切れない白色が覗いている――  クロイツは彼と僕を交互に見やって、鼠を見つけた絵本の猫のようににまにま笑った。  おかげさまで僕は、広場へやって来た三人目の正体を明確に知ることができる。 「あなた、あのときの!」  僕が上げた声に対し、少年の動きは迅速だった。本物の獣か猛禽がそうするように、ほとんど飛びかかるような動きで花壇に駆け寄る。そうしてただ一輪、咲くのではなく埋められた花を抜く。  続け様に別の路地へ駆け込もうとした姿はしかし、白い姿に行く手を塞がれた。 「……退《ど》け」 「退いてやってもいいけど、おまえの足で逃げ切れるのかよ」  足を止めたその場で、少年は空いた左手の拳を握った。対するクロイツはあいかわらずのにまにま笑いだが、完全に目が笑っていない。 「そういえばおまえだけは、あそこで俺とやり合わなかったもんなぁ。先輩たちの雪辱戦と洒落込むか、オイ」  両者ともに、殺気と呼べるものはない――ように見える。少なくとも睨み合いには至っておらず、構えもそれとは呼べないほどのものでしかない。  僕はふたりをしばらく見比べ、それから先程まで魔術師が覗いていた路地に目をやる。  それを待ち構えていたかのごとく、路地の向こうからは大きくしゃりんと鈴の音がした。  けっして耳聡くはない僕にもわかるほど、音源は近づいて来ているように思う。慌ててふたりのほうへ目を向けると、煉瓦と同じ赭《そほ》の瞳と目線が絡んだ。  とたんに彼はなにを思ったか、魔術師には構わずこちらへ向けて駆けて来る。そうして呆気に取られた僕の手を掴み、手近の路地へと駆け込んだ。もっとも足はすぐに止まったが。 「おまえたち、トゥーラまであんなものを見物に来たのか? 呪われても知らないぞ」  吐き捨てるような言葉に、僕は眉根を寄せる。まさか彼の口からこんな台詞が出るとは思わなかった。 「呪いが怖くてみんな家に引き篭もってるわけだな。……で、おまえは?」  ひょっこりと通りへ顔を出したクロイツは、呆れたと言わんばかりの様相だった。 「おれのことはいいんだよ」  告げる少年の声には、苛立ちと敵意が透けている。  ――頬から顎にかけて貼られた白い硬《こう》膏《こう》薬《やく》は、火傷の治療に使われるものだろう。これを負わせた相手がクロイツであることを思えば、敵意の理由は考えるまでもない。  そんな少年の意に構うふうもなく、黒い瞳の魔術師はひどく喜ばしげだ。少年の目線が自分を見上げる形であることが、よほど嬉しくてたまらないと見える。  あいもかわらず、好き嫌いの基準が子どもじみた男だと思った。 「少年、お兄さんはめちゃくちゃ親切だから教えてやるんだけど」  喜色に弾む声音が紡ぐ言葉は、いつかと同じ。 「そいつを連れて逃げても、殺しても、俺はどこまでも追い駆けるからよろしくな」  少年は唇を引き結んだ。ついで深々と息を吐き、姿勢を正して僕とクロイツを見る。 「人質にしようなんて思っていない。それから、おれはそんなに子どもじゃない」  魔術師は腕を組み、数度、首を縦に振った。それはどこからどう見ても、ひとの話を聞こうという態度ではなかったし、 「それはともかく少年、俺はおまえに聞きたいことがあるんだよ」  実際きちんと聞いていないようだった。あるいは意図して聞かないようにしているのかもしれないけれど、そのあたりの判断は難しい。 「……ストー」  煉瓦の色に似た赭《そほ》の目を細めて、少年は言い捨てる。それは百を意味する古い言葉だ。ただし日々の営みの中においては、その意味を失って久しい言葉でもある。とかく大きな数字を意味する言葉であるから、今ではありきたりの末子の名としての意味合いが強い。 「でさ、少年。あれが誰の先触れかは知ってるわけ?」  みずからを少年と呼び続けるクロイツに対し、ストーはおもむろに鼻面に皺を寄せた。  肌を刺すような殺気が湧いて、消える。続く嘆息の音はおそらく、なにかを諦めるためのものだろう。 「トゥーリーズのアンタたちは知らないかもしれないけど、トゥーラに在野の魔術師はひとりしかいない。その御方だよ」 「野良の魔術師はおおむねロクなもんじゃねぇな。で、やらかしたのは脱税か? それとももっと大がかりなこと?」  ストーはまっすぐにクロイツを見た。  クロイツは彼らを――猟兵たちを猟犬と揶揄したが、ストーの鋭い目線は、どちらかというと山猫を想起させた。けれどもそれだって、瞳の色と同じ赭の髪が抱かせた錯覚であるかもしれない。  なにせ僕は、本物の山猫を見たことがないのだ。だから僕は、山猫がひとに懐くものであるかを知らない。恩を忘れない類の獣であるかどうかも、同じように。 「先生はそんなことをするひとじゃない」  ただ確実であるのは、目の前の年若い少年は恩を忘れる性質ではないらしい、ということばかり。ゆえに僕はクロイツが口を開く前に、急いで言葉を紡ぐ。 「事情を聞かせてくれないかな、ストー」  実際には紡ぐというより、出来合いの言葉を抽斗《ひきだし》から引っ張り出して、大慌てで投げつけたような気分だった。その表れとして、言葉はえらく早口だった自覚がある。さらに付け加えるならば、ストーの側も目を丸くして僕を見ていた。  けれども彼は、否とは言わない。しばしののちに唇を引き結び、路地の奥を顎で示す。  彼の挙動に素直に従ったのは、僕よりもむしろクロイツのほうだ。雪の斜面を駆けるのと同じ軽やかな足取りで、示された先へ馳せて行く。  ストーと名乗った猟兵《りようへい》は厳しい顔を変じることなく、静かにこちらを見つめて来る。それに背中を押されて歩き出せば、あえて音を立てながらついて来る気配があった。  そうして僕らが行き着く先は街の端――川面を臨む水車小屋のひとつ。  作り自体は真新しく見えたが、建材に用いられているのが煉瓦ではない。木だ。  一度や二度は河に攫《さら》われ、都度再建された結果であるかもしれないと僕は思った。事実として建屋の扉に鍵穴は存在せず、ストーは慣れた手付きで錠前の鍵を捻る。促されるまま僕らが中へ入ると、彼は眉ひとつ動かさず、箒を閂《かんぬき》にして扉を閉めた。 「ここなら近くにひとが来ても、外まで声が漏れないから」  水車が跳ね上げる水の音と、せせらぎと呼ぶには大きな川音。ともすれば掻き消えそうになる声に対し、僕は先のクロイツと同じく耳に手を当てて傾聴の姿勢を取った。 「うるさいけど、勘弁してくれ」  大きく口を動かして、ストーは言う。僕はただの相鎚としてではなく、確実な了承を示す手段として、大きく頭を上下させて見せた。  いっぽうのクロイツは小屋に唯一の椅子に腰かけ、背もたれの上に伏せるようにしてこちらを見る。ストーは彼の姿を一瞥してから、街の煉瓦によく似たまなこを僕に据えた。  あくまで自身の話し相手は僕だけだと、腹を括った証左だろう。 「先生は」  僕から目を逸らすことなく、ストーは背伸びをした。吊り戸棚に手を伸ばし、塗りの剥げた木箱を下ろす。 「錬金術師と呼ばれていた」  胼《た》胝《こ》の目立つ細い指が箱から取り出したのは、たった一枚の羊《よう》皮《ひ》紙《し》。箱にも別段変わったところはなく、紙自体も同様に不審な点のない紙に見えた。  ただ一点、その左隅に朱墨《インク》で描かれた蔓草の文様が存在さえしなければ。  ――トゥーラの街を作る煉瓦の色と比べると、渦に似た模様を成す朱墨は赤味が強い。ほとんど橙と呼んでもよい、夕空に似た色だ。 「……役所で出してもらう書類に、仕上げで描いてもらうやつだよね、それ」  つぶやくような僕の声を、ストーは否定しなかった。彼が羊皮紙をしまい込んだ箱の中には、同じ模様の紙がいくつも入っている。おそらくは見えないほど下に入っている紙も同じだろう。  ――つまりここには、仕上げだけが終わった紙ばかりが山のように存在する。 「先生は御禁制のインクを作れたし、模写もうまかったんだよ」  役所が発行する公的な書類のみに用いられる朱墨は、王都にある造幣局が一括で製造するものだ。僕も製法のすべては知らないが、素材の入手からして楽ではなかったはず。  ストーが吊り戸棚へ箱を戻すまでを見届けてから、魔術師は喉の奥で笑い声を立てた。 「さてはそいつで旅券を出させたな?」  フードの下の黒髪を掻き上げ、問いかける声は低く、低く。それでも水音を苦にせずこちらの耳まで届くのだから、ひどく奇妙な気分がする。  ストーは眉をひそめて魔術師の姿を見た。 「当たりだ、と言ったらどうするんだ」 「どうもしねぇけど、そりゃあおまえ、脱税どころじゃねぇわ。今の時分じゃ、むしろ逮捕された時点でよく首と胴がつながって――」  乱れた黒髪から抜かれた指先が揃えられ、刃物を模す形で首裏へと落ちる。 「――るのは普通か。ありゃあ意外に手間だしな」  斬首は、この国においてごく一般的な死刑の手法だ。拿《だ》捕《ほ》した時点でそれを成すのは、後の刑死を免れない者であることを意味する。  そのあたりについては、僕よりもストーのほうがよほど詳しいだろう。  彼は唇を噛み締めて、未だクロイツを見つめていた。 「先生がやったのは御法度だけど、金目当てじゃないんだ。だから……」  ようやく開いた口からこぼれた声音は、まさしく子どものようだった。彼が猟兵と呼ばれる名誉兵科のひとりであることを、うっかり忘れてしまいそうになるほどに。 「それで君はこっそり先生を見送っていたわけだ」  僕の声には、自分でもそうと分かるほどに哀れみの色が溶けている。  花壇に挿されていた水晶花の枝は、今はストーの外套のポケットにしまい込まれている。  そちらに目を向ければ、眼に入るのは雪に落ちる影を模した白花色ではない。つまり今日の彼は、仕事のためにあそこを訪れたわけではないのだ。  ストーはあくまで自分の意志だけに従って、あそこに花を供えていた。――貝の都が咲かせる水晶の花は、いつかクロイツが唄っていたとおり、善き夢を見るためのまじないの花である。それを死すべきヒトに手向《たむ》けるのは、死後の安寧を願うための祈りにほかならない。 「死刑になる人間のために祈るのは御法度だぞ、少年」  宣告する魔術師の声は、いっそおだやかだ。そこに威嚇や軽蔑の響きはない。同時に本当に違法だと思っている気配もまた、皆無だ。彼は事実だけを告げている。 「それ、くらいは……」  だというのに、ストーの声はひどく掠れて聞き取りづらかった。  彼に告げる言葉を探そうとして、僕は深く息を吸い込んだ。音を立てて息を吐き出し、改めて肺腑を冷たい空気で満たす。 「――クロイツ」  そうして放った声が呼んだのは、眼前の少年ではなく、僕自身が目付役をしている相手のほうだった。僕がそちらを向くのに合わせて、彼は形よい眉の片方だけを持ち上げる。 「僕の記憶が正しければ、書類の偽装は死刑に値する重罪ではないはずだけれど」 「とりあえずはね」 「それに、先生とやらが死んだら困るひともいるだろう」  こちらを見ていた黒い瞳が、泳ぐと表現するには迷いなく横へと逸れた。 「……僕たちで助けることはできないか」  クロイツは答えなかった。ストーも声を発しない。  かわりに、両者のまなこは僕を基点に交錯した。けれども彼らは僕を見ていない。ただひたすらまっすぐに、互いの目を見ているだけだ。もしくは、互いの出方を。  そこに言葉はなかったが、それ以上に雄弁ななにかがあった。あえて僕の持ち得る言葉でたとえるならば、壁上と山麓《さんろく》の間で成された会話にも似たなにか。  いつぞやとの違いは、クロイツが逐一口語《こうご》に直してくれないことばかり。  ――沈黙の中で先に視線を動かしたのは、ストーのほう。対するクロイツは深々と息を吐いてから、今度こそたしかに僕を見た。 「ルカ」  名前を呼ぶ声が、騒がしい沈黙を破る。 「今のは聞かなかったことにしてやる。外に出な」  それは、今まで聞いたことのない声だった。僕はゆっくりとクロイツのほうへ目線を向け直す。王冠を飾る玖《ぎよく》に似た瞳は今、じっと部屋の片隅を睨んでいた。そこに議論の余地はうかがえない。  首を振って扉のほうに近づくと、ストーが閂がわりにしていた箒を外してくれた。彼に頭を下げてから、僕は小屋の外の地面を踏む。  振り返ってみると、クロイツはちょうど椅子から立ち上がるところだった。  近づいて来る姿を見つめる僕は、彼の唇からいつものような軽口が返ることを期待する。  しかしながら魔術師は、僕の希望になど応えない。  そもそも彼はいつだって、自分の言葉を翻すことはないのだ。やりたいことはやる、言いたいことは言う。そしてきっと、それを妨げる者に容赦をしない。 「……余計なこと考えるんじゃねぇぞ」  吐き捨てるような声音に、幼い猟兵は背筋を伸ばすことで応対した。魔術師を見上げることはせず、赤い瞳は明確に前だけを見つめている。  それを遮るように、すべらかな指先が扉を閉じた。トゥーラの街ははじめてだと言ったくせに、歩み出す足取りに迷いはない。脳内に地図が描けているのだろう。彼が土手を登り終えるまでを見届けてから、僕も小走りにその背を追った。 「君、それでもエクリールの部下か」  投げかけた声は白く凝《こご》る。その白さは見慣れた煙の姿を思わせて、今の僕にはひどく好ましかった。寒さなど、露も気にならない。 「それに中身は、誰か書けるひとがいるから書けるんだ。単独犯じゃない。――だから、」 「話したがりの子どもか、おまえは。外でその話はやめろ」  似たような建物の間を抜けて、僕らは先に降り立った路地へ辿り着いた。  僕が下降に使った裂き布は、まとめて雨樋《あまどい》の管にかけてある。輪にまとめられたそれを肩に担ぎ、クロイツは赤茶の煉瓦に指をかけた。  なんとなく予想はしていたが、彼はやはり鼠か猫のように悠々と壁を登る。かつての僕がやろうとしてできなかった、夢の垂直登攀《すいちよくとうはん》だ。彼は体が小さいのみならず、どうやら目《め》方《かた》も相当に軽いらしい。  危なげなく窓のところまで登ると、今度は足と背中で体を支えて肘を引く。その仕草だけで、それこそ魔術のように窓は開いた。  先生などは鍵を忘れて、ちゃっかり鍵開けの魔術を使うこともあったが、あのクロイツが同じ術を使ったとは思えない。その証拠に、彼の手許には鋭く光るものの姿が見える。温室で育つ天蚕を殺して作る、絹より貴重な儀礼の品――天蚕糸《てぐす》だ。  きょうだいのかわりに何度か作ったことがあるが、あれは普通の糸よりだいぶ強い。  内側から仕掛けておけば、窓の鍵ぐらいは容易く開くだろう。労力と金《きん》子《す》を惜しみさえしなければ、という条件はつくが。  ――呆れるよりも感心する僕の許へ、裂かれた敷布が落とされる。  それを辿って客間まで登ると、クロイツはすでに寝台の上に座っていた。 「刑量を超えた処罰は私刑の範疇になる。私刑は、領主にとっての重罪だぞ」  僕は遠慮なく彼の姿を見下ろし、ひとつひとつの音を明確に吐き出す。  警察機構を兼ねる軍と、それを統括する立場にある領主にとって、私刑はもっとも重い罪のひとつだ。彼らの上に立つ王家にとっても、同じく。――そう教えてくれたのは先生ではなく、母だった。 「今はそういう時代なんだからしょうがねぇ。罪人が出過ぎると、今度は領主の首が飛ぶんだ。知ってたか?」  魔術師は僕の顔を見上げ、黒い眸《め》を眇《すが》めた。 「知っている」  それは僕にとって、一番近しい女《ひと》が定めたことだ。罰を軽んじて罪人を増やすことは罪であるが、過剰な制裁によってそれを防ぐこともまた同様に罪であると、王妃《はは》は言った。  斯《か》様《よう》にして罪人を出さず、残酷な刑罰も最低限に納めること。それこそがもっとも美しい国の在りようなのだと、彼女は深く信じていた。そのために彼女は国費を費やすことを厭わず、私財さえも投じ続けて来た。  けれども領主たちは、その薄《うすらい》氷《うすらい》のような美しさを創るため、おおむねが後者《こうしや》の罪を犯すことを選んだ。つまりは弱者を――守るべき領民を、的確な暴力によって黙らせることを選択したのだ。そうして彼らが搾取した財は、この国のいつくしさを守るために費やされる。 「正直なところ、意外だ。おまえはもう少し物知らずだと思った」  クロイツは嘆息し、寝台の上に横たわった。 「ならこれもわかってるとは思うが、先生とやらを助けるのは脱獄の幇《ほう》助《じよ》になるぞ」 「わかっている」 「それを踏まえて聞くけど、おまえは誰かが他人を傷つけないためなら、そいつが傷つけたい相手を自分で殺して解決するわけ?」  脱獄の幇助《ほう じよ》は、公的書類の偽装以上の重罪である。仮に課せられた刑罰が私刑に相当するとしても、受刑者を逃がすことは、受刑者以上の罪を被ることを意味する。  肘枕の姿勢でなお、クロイツの目線は僕を捕らえて離さなかった。獣と魔術師に一切の虚偽を許さぬ、絶対の法を定めた獣と同じ色の目。それを正面から見返すためには、なによりも勇気が必要だった。  ――領主の罪は、王家の罪だ。ならばそれを肩がわりするのは、母を、きょうだいを守ることと同義だ。それを思うからこそ僕は、俯けかけた顔をしっかりと持ち上げる。 「僕は」  それでも声を出したとき、口の中はひどく乾いていた。唾液の粘つく感触がある。 「自分が正しいと思うことをしたい。……たぶん」 「たぶんってなんだ」  クロイツは寝返りを打ち、部屋の中央を横切る間仕切りの布のほうを向いた。ややあって手を振り、窓を閉めろと僕に命じる。  言われるまま窓を閉めて振り返ると、彼はさもつまらなそうに言った。 「先生を助けるなら、たぶん身柄は詰所の下にある地下牢だろう。トゥーラとトゥーリーズは兄弟都市だし」  うん、とうなずく。それを見ているわけでもないはずなのに、次の言葉は僕が再度顔を上げるのと同時のことだった。 「そうなると、やり合うのは猟兵三人どころじゃ済まねぇわけよ。そして俺は本ッ当に残念なことに、武器もなしに三人以上と喧嘩できる腕がねぇの」  その言葉に嘘があろうはずもない。雪野の真のあるじが定めた法規においても、僕が目の当たりにした光景においても、絶対に。  この言葉に嘘がないからこそ、彼は猟兵の顔に煮え湯を浴びせかけることを選んだのだ。 「それは」  ストーの上げた悲鳴は今でもよく覚えているし、彼が手にしていた刃の冷ややかさも忘れていない。この暖かな部屋の中にあってなお、思い出せば寒気がする。 「僕が手伝ってもか」  クロイツは背中越しにこちらを見た。 「おまえが切った張ったでなんの役に立つんだよ。文句言わねぇぶん箒のほうが優秀だぞ」  うそりと細められたまなこは煩わしげで、声《こわ》遣《づか》いはいつになく咎めるよう。見返す僕の目は、彼の黒い瞳にどう映ったことだろう。ただたしかであるのは、それが一切逸れることがないという事実だけだ。  僕はみずからの意思で、しっかりと尖晶石《せんしょうせき》の双眸を見下ろしていた。 「おまえひとりにできることなんざ、高が知れてる」 「知っている」  でも、僕は助けたいのだ。先生と呼ばれたひとを、僕の弟を。――たとえそれが一時のことであるとしても、知ったことから目を逸らしたくない。  思考は言葉にならず、けれどもクロイツは秘め事を耳にした子どものように口の端を吊り上げる。ゆっくりと、ゆっくりと。  最後に唇で三日月の形を模してから、彼はすいと目線を逸らした。 「でもな、俺は箒以下のおまえとは違う。喧嘩ができねぇだけだ」  暖炉の火を舐めて戻って来た目線は、ふたたび僕を見る。  新月の夜の深みを掬い上げて零したような、深さの知れない瞳だと僕は思った。

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