戴冠、或いは暁を待つ | 三章:大嘘つきたちの夜
かなた

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「いやはや悪いねえ、お姫様」  扉の閉まる音の余韻も絶えた後、イラテアは足の上下を組み替えた。  彼女が摘んだ髪は白い。黒い毛先まで指が滑るのを眺めてから、僕はうなずく。イラテアからの呼び名に対し、驚く気持ちは自分でも不思議なほどに湧かなかった。  呈した問いは、あくまで確認の意味合いが強い。 「それについてはエクリールから聞いたのですか?」 「いいや? というか君、なんだい。父君母君からなにも聞かされていないのかね?」  ヒト喰いの獣は、ふたたび指先で白い髪を摘んだ。対して僕は、紛《まご》うことなき疑心を込めて首を傾ぐ。――彼女はなにが言いたいのか。 「とくに君の母君、フローリア妃といえば、蜘蛛の巣谷の学長選を争った頴《えい》才《さい》だろうに」 「母は」  ただそれだけの単語を乗せただけで、舌はそれきり動くことをやめてしまう。  おかあさま。母上。何度でも口にしたはずのただひと言が、芯《しん》金《がね》かなにかのように続く言葉を妨げている。  唇の開閉だけを繰り返す僕を金の瞳に囚えて、白い獣はふわふわと笑った。 「前王夫妻はともかくとして、本当であれば宵守《よいもり》のやつが責任を持って、君にこれを教えておくべきだったねえ」  彼女は、僕の応《いら》えを待たなかった。 「――私達は王を見分けることができるんだよ」  響く声音は、瓏々《ろうろう》と。  その響きを耳にした刹那、かたくなであったはずのものが緩む。 「わたしは王ではありませんよ、イラテア」  ひと息にささやく声音はいつものとおり。それは少年のようであり、同時に少女のようでもある。僕らが、わたしたちが、これまで培《つちか》って来た声――前王の嗣子《し》として生まれた双子が、互いを守るために繕って来た声だ。  旧《ふる》い獣はそれを耳にすると、ひとつふたつと瞬《まばた》きをした。黄《おう》鉄《てつ》鉱《こう》を想わせる瞳は、最後にどこか鼻《はな》白《じろ》んだような色を宿す。 「王位を望めば、なれないわけではないだろう?」  この国において、王を王たらしめる一番の由《よし》は血筋だ。最果ての獣より践《せん》祚《そ》を受けた王の血筋は、唯一にして最大の、王位を得るに足る資格を示すもの。それ以外のすべてなど、結局のところはすべて後からついて来る。  いずれその人生を捧げるために傍に控える王の獣も、竜より賜った言葉で道行きを示す賢者も、権威を示す王冠も、座すべき玉座も。すべて、ひとしく。  でも。あるいは、だから。 「わたしは、王にはなりません」  それらすべては僕のきょうだいのものだ。対するわたしには、王たる資格がない。 「わたしには〈次〉がないので」  丸みの少ない体と薄い胸。下腹に右手を当ててみれば、言葉はするすると唇から溢れて落ちて行った。  けれども白梟であるイラテアの聡《さと》い耳は、落ちるばかりのそれをたしかに拾い上げたのだろう。彼女は目を細めて、なるほどねと応じた。 「君は王位を諦めざるを得なかった娘か」  角度をつけて傾いた顔を正面に見やりながら、失ってしまったものから手を離す。 「諦めた、というわけではないんです。元々次に王冠を戴《いただ》くのは、わたしのきょうだいの役目ということになっていましたから」 「意志は硬いということだね」  首肯を返せば、ましろの獣は首の位置を正した。  考え込むように輪を描く人差し指は、似ても似つかぬかたちのくせ、風切羽によく似た優美な指だ。その先に備えられた爪だけが、ヒトと同じくまろい形をしている。 「仮に僕がそうありたいと願っても」  王を王たらしめるものは血統だと言ったが、実際に王冠と玉座を支えるのは竜の名代《みようだい》たちだった。彼らはこの国のあるじたる|偉大なるかたちの獣《アデライード》の意を受けて、この国における王の威権を盤石のものとする。  王の獣と、黒髪黒瞳《こくはつこくとう》の魔術師。いかに貴《たつと》い血を継《つ》ぐ者であろうが、わたしたちは彼らの権威なしにこの国を治めることはできない――王として君臨することはできない。 「我らのあるじは、それをお許しにはならないでしょう」 「敬《けい》虔《けん》だこと」  イラテアはそっと紅茶に口をつけた。 「では、今の君は私の商売相手にはなり得ないというわけだね」 「それが、きょうだいを王宮から追い出す味方を求める、という意味なら」  次の王を用意することのできない僕のために、彼らが王位を用意してくれることなど、絶対に有り得ない。たとえ片方が――先生が身内の好《よしみ》で許してくれたとしても、より竜に近しい獣たちが許してくれるとは思えなかった。同時に、許されてよいことではないとも思う。  それが正しい証拠に、イラテアもまた契約を持ちかけて来ることはない。  きっと彼女だって、僕を王位につけてはいけないことを、よくよく理解しているのだ。もちろん僕には、それを責める気など一片たりともありはしないが。 「それだけわかれば充分だ」  イラテアは紅茶を運んで来た盆の上から、真鍮のベルを摘み上げた。りぃんと軽やかな音がひとつ響いて、それとは真逆の重々しい足音が、扉の向こうから近づいて来る。  扉を開いた手付きは恭《うやうや》しく、伴う音を一切持たなかったが、もはや後の祭りと呼んでも差し支えないように思えた。そのことばかりが今は妙に笑える気がする。とはいえ、当人を前にして本当に笑い出すわけにもいかない。僕は笑いを噛み殺したままで、イラテアに頭を下げて部屋を辞す。 「うちの主人は、なにかろくでもない話をしなかったかね」  ヴィガからの問いかけには、首を横に振ってみせた。  ならよしと笑う彼の顔は溌《はつ》剌《らつ》として、仔細を語ろうなどという気は起きない。元より語る気はなかったのだが、その片鱗さえ失せてしまった。  ヴィガはそんな僕の意を知ってか知らずか、顔を緩めたままで夕食の献立を仔細に語ってくれる。  なんでも、イラテアにはお抱えの腕のよい料理人がいるのだそうだ。  ヒトも家畜も、それはそれは見事な手腕で捌くという彼の腕前についてを聞きながら、ぐるぐると螺旋階段を登って行く。  イラテアが用意させたという部屋は、三階の一等奥まった場所にあった。周囲に窓は存在せず、客間を置くにはずいぶん暗い空間に思えてならない。そんな奇妙な場所に置かれた部屋の扉は、真鍮の鍵によって開かれた。  にわかに僕の目を奪ったのは、部屋の中を満たしたましろの色―― 「一体なにをしとるんだ、おまえは」  すかさずヴィガが声を上げる。怒っているというより、ひたすら呆れたふうの声だった。 「見りゃわかるだろ」  二枚重ねの布《ふ》帛《はく》の向こうから顔を出したのは、フードを被った魔術師だ。頭の位置は、直立したにしてもずいぶん高い位置にある。 「目隠しだ、目隠し」  首との境が曖昧な顎を揺らしながら、ヴィガは溜息をついた。  彼の脇から覗いた部屋の中、目隠し布よりこちらの空間にはベッドがひとつ。敷いてあるはずだったシーツの姿は、そこから失せている。  外套を脱げば障《さわ》りがあるとクロイツは言ったけれど、就寝にあたってそれを隠すための手段が乱暴過ぎると僕は思った。  ヴィガは大きく頭《かぶり》を振り、僕の横を抜けて螺旋階段のほうへと戻って行く。おそらくは敷布を取りに行く腹《はら》心算《づもり》だろう。彼の姿が消えるのと入れ違いに、クロイツは僕を手招いた。 「あの女、なんだって?」  近づいてしまえば、もはや彼の顔は見上げなくては視界に収められない。首を反らした姿勢で、なんでもないと肩をすくめた。 「取り立てて話す内容でもないよ。世間話をしただけ」  イラテアが同じことを尋ねられても、おそらく同じ答えを返すだろう。あれはきっと彼女にとっても、世間話の範疇に収まるはずの話題だった。  世間話、と小声で反駁《はんばく》してから、クロイツはふたたび布地の向こうへ引っ込んでいく。  それを追って二枚のシーツの間を潜り抜けると、彼の矮躯《わいく》は椅子の上にあった。といっても、乗っているのは座面ではない。背もたれの上だ。僕はやはり心底呆れた気分で、魔術師の顔を見上げた。  フードを被った魔術師は柳眉の片方を持ち上げ、つまらなそうに鼻を鳴らす。 「せっかく区切ったんだからあっちに戻れよ」  言われるまま帳の向こう――扉の側へ戻ると、廊下の向こうからヴィガが走って来るところだった。その姿に息を切らせる気配はない。健脚の自評に偽りはないようだ。  僕が麻のシーツを受け取ると、彼はにこやかに笑い、また駆け足で去って行く。  それを見送って、ふたたび緞《どん》帳《ちよう》のほうを見る。布地の向こうに身じろぎの気配はない。 「――ねぇ」 「なんだ」  呼びかけると、声だけが返って来る。 「獣は王を見分けられるんだってさ。これ、どういう意味だと思う?」 「そりゃあ、言葉のとおりだろう」  獣たちは己《おの》が祖の定めた則《のり》に縛られた存在だ。ゆえに、彼らは嘘をつかない。  言葉のとおりであることについては、僕にもはっきりと確信があった。しかもイラテアはその〈力〉を以て僕を王の娘と断じたのだ。  だからこそ、どうせ話はそれで終わると僕は思った。ゆえに―― 「獣は、純血のヒトの周りに文字が見えるんだよ」  続く言葉があったことには、心底驚いた。布の向こうから伸ばされた手がシーツを攫って行ったことにさえ、すぐには反応できないほどに。 「なんだ、それ」  僕は再度、布の向こうに半身を突っ込んだ。 「本当に見えるのか? なにかの比喩ではなく?」 「そうだよ。王家の人間は、それが必ず黒に見える。だから獣たちはどれだけ弱って、ヒトと同等まで落ちぶれても、根本的には別物でいられるんだ。知らなかったのか?」  呆れたと言わんばかりの顔をして、クロイツは椅子の上から飛び降りた。当然のように座面は経由せず、床の上までひとっ跳びだ。  その顔を見つめる僕の肩を押しやりながら、彼は溜息混じりに言葉を吐き出す。 「親父から聞いた話だが、嘘ってことはないと思うぞ」  呼吸をしようとする喉は、真綿か鉛を詰めたよう。――僕は今まで、そんなことを誰からも聞いたことがなかった。父からも、母からも、先生からも、|父の獣《ユードヴィール》からも。 「ああ、でも大事な秘密だって親父は言ってたな」  それならおまえも内緒にしとけと笑いながら、彼はついに僕を布の向こうへ押し出すことに成功した。  放逐されたその先で、僕はじっと白い境界を見つめる。けれども僕が求めて止まない、今し方聞いたばかりの言葉を咀嚼《そしやく》し、嚥《えん》下《げ》する術は布地の上に描かれていない。  散々迷ったあげくの行動として、僕は手にした敷布を寝台に敷いた。ついでその上に寝転んでから、そっとクロイツの言葉を復唱してみる。――獣は、ヒトの周りに文字が見える。  秘されるべきと言われた事実を、きょうだいは知っているのだろうか。彼は王になるのだから、ひょっとしたら誰かが教えているかもしれない。あるいは王になるからこそ、当然の事実として誰も教えていないかもしれない。  どちらにせよ、と僕は思った。獣は、彼を見つけてくれるのだ。  きっと獣はあの子を玉座へ座らせ、先生は来るべき日の諡《おくりな》と王冠を授ける。白夜《びやくや》を迎える朝の中で、そうしてあの子は王になる。そのかたわらに、僕の姿はない。  そしてこれからは、僕ではないひとたちが、僕の分まで新たな国王を支えてくれる。  もう帰れない故郷のことを思いつつ、ゆっくりと睛《ひとみ》を閉じた。  僕が知ることのない獣は、あの子によくしてくれる獣であるといい。僕がそばにいなくても、彼をよく支えてくれる獣であれば、なおのこと。

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