2-3.水槽の魚

玄関を開けると、懐かしい匂いがした。 キッチンから、トントンと何かを刻む音がして、同時に小さくアラームの音が聞こえてくる。 パタパタと慌ただしく足音がして、静かになったところで、仕切り棚の影からそっとキッチンを覗く。チヨちゃんが何かを皿に盛り付けているのが見えて、なんとなく嬉しくなる。 「ただいま。起きてて大丈夫なの?」 声を掛けると彼女は振り返って「おかえり。大丈夫みたい。」と、対して感情もこもらない調子で返事をした。 「……料理、出来るんだ?」 「出来るのよ。なんでか知らないけど。」 「何作ったの?」 「あった材料で、テキトーに。ごめんなさい、勝手に使って。」 「構わないよ。自由にしてくれて。」 調理台には大きめの皿が二つ並んでいた。それぞれに同じものが盛り付けられている。 「お。美味しそう。……これ、僕の分ある?」 「うん。一応。食べないなら、私、明日食べるから。」 “卵とハムを焼き、野菜をちぎるだけ”の、僕の作る料理とも呼べない何かとは違い、目の前に並ぶそれは、カフェで出てきても不思議でないくらい、ちゃんとした料理だった。自分のセンスのなさを振り返って、同じ材料とは思いたくない。 「食べる。」 「じゃあ、運んで。」 「あ、その前に、見せたいものがあるんだ。」 「何か、わかったの?私のこと。」 「え?」 彼女の口から当然のように投げられた言葉を、思わず聞き返す。 空になったフライパンを洗いながら、チヨちゃんは他人事のように繰り返した。 「私のこと、調べに行ったんでしょ?」 「いや……違うよ。」 「そう。まだお昼だけど。お仕事、早かったのね。……で、見せたいものって何?」 咄嗟についた嘘を、彼女は見抜いたのだろうか? それについてはそれ以上追求せずに、すぐに話題を元に戻す。 「魚、飼おうと思って。」 そう言って、リビングのテーブルに置いた水槽を見せると、チヨちゃんはその小さな水槽を覗き込んだ。 「きれい……。」 呟いて、その青い魚を興味深げに見つめる。 青い魚は水槽の中をぐるりと回って、チヨちゃんの前でヒレを広げて彼女を見上げた。やはり、飼い主がわかるのだろう。 彼女がいつ部屋に戻れるかわからない以上、家主のいないあの部屋に水槽を置いておくのは偲びなかった。面倒を見るためにあの部屋に出入りするわけにもいかないし。 「ベタって言うんだって。」 「うん。」 「チヨちゃんは、魚、飼ったことある?」 「……わかんない。この子、可愛いね。人間が怖くないのかな?」 「どうだろう?ベタは人に慣れるって聞くけど。」 「賢いんだね。」 「水槽、どこに置こうか?」 「槙野さん、自分の部屋でしょ。」 「ねえ、チヨちゃん、その呼び方やめてよ。」 「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」 「名前で呼んでよ。呼び捨てでもいい。」 「……輝くん。」 「輝でいいよ。」 「んー……。輝……やっぱ、輝くんがいい。」 チヨちゃんは、ちょっと照れたように笑って、それらから「輝くん、先に、ゴハン食べない?冷めちゃう。」そう言ってキッチンに消えていった。 夕方、僕を迎えに来た結城さんは、少し迷ってから彼女のことを「神田さん」と呼んだ。 「神田さん、何か困ったことはない?」 「記憶が、戻らないことですね……?」 控えめにそう答えたチヨちゃんに、結城さんは笑いを漏らす。 「ははは、君、面白いね。そういうんじゃなくて。えぇと、着替えとか、体調とか…化粧品とか?そういうの。」 「大丈夫です。輝くんがよくしてくれてますし、服も借りてるんで。」 「それじゃ外、出られないでしょう?」 チヨちゃんは、僕を横目で見て苦笑を浮かべた。 「どっちにしろ、出られる気がしないですけど。……私、いつまでここにいればいいんですか?」 「僕としては、ずっと居て欲しいけど。」 「え?」 ぽつりと呟いたのを、彼女は聞き逃さなかった。 「いや、なんでも。……チヨちゃんが、何か思い出して、その身の安全が確保されるまで。」 僕は仕事用の荷物の詰まった鞄を玄関に放って、小さなショルダーバッグに手荷物を詰める。 「どういうことです?」 僕の言葉に眉根を寄せて、チヨちゃんは結城さんを見上げた。 僕に訊いたってきっと、望んだ答えが返って来ないのを、彼女はわかっている。 「輝、神田さんに話してないのか?」 「話しても混乱するだけだろ?」 「……ねえ、何?」 さすがに不安が大きいのか、僕達の顔を見比べて、それから僕のシャツの裾を掴んで引っ張る。困らせているな、とは思うが、頼られたようで悪い気はしなかった。 結城さんは少し何かを考えて、壁の時計にチラリと視線を送る。 「神田さん。困ったことに、君は誰かに狙われていたらしい。どういう理由かはわからないけれど。薬を飲まされて、記憶を失ったことだけは確かだ。」 「……はい。」 「詳しい話をしたいところだけど、ごめん。今日は時間がないんだ。明日、朝、輝と一緒に事務所に来て貰えないか?」 「……事務所に?」 「そこなら、安全だし、個室も使える。輝の目の届く場所で、落ち着いて話が出来る。」 「わかりました。」 「よし、輝、スタジオいくぞ。着替え持ったか?」 「大丈夫。鞄に入ってる。」 スニーカーの紐をきつめに結んで、振り返ると、チヨちゃんと目があった。 「じゃあ、いってきます。今日は、遅くなるから、ゴハン食べて寝ちゃっていいからね。」 「うん。いってらっしゃい。」 不安げな目をして小さく手を振る彼女を残して、外に出る。 車に乗り込むと、結城さんは小さく溜息をついて、後部シートの僕を振り返った。 「おとなしい子なんだな。」 「ええ。もともとの性格だと思います。……初めて会った時、僕らのファンにも、ああいう子っているんだなって、思ったんです。」 「意外か?」 「意外でした。」 「居ないわけじゃないんだよ。目に付かないだけで。」 「そうですね。」 「……彼女に、何があったんだろうな。」 「何がって?」 「仕事を辞めて、髪を切って染めるくらいの、何かそういう変化が必要なことがあったんだろう?」 「ああ。」 「ただのイメチェンで、あそこまで思い切れるひとはあまり居ないよ。」 「うん。それでも、彼女は同じ空気を纏っていました。コンサートの時に会場で見かけた時には。」 「クラブでは?」 「……何か、思い詰めたみたいな、困ったような顔して。あとは作り笑いで。」 「あの男達……彼女に何をしようとしたんだ?」 「さぁ。……あの辺り、あまり良い噂は聞かないです。被害に遭った女の子、他にもいるみたいで。星が気にしてました。」 「噂だけじゃ取り締まれないか……。目的がただのレイプだったとしても、運が悪いじゃ済まないよな。」 「気になることがあるんです。」 「何?」 「彼女、お酒に何か混ぜ物をされたのに気付いてました。」 「は?」 「知ってたんです。自分が何をされるか。多分。」 「じゃあ、何か?彼女は承知していたのに、おまえはそれを騒ぎにしたってことか?」 「見過ごせないでしょう!?」 「輝、おまえな……」 「それに。多分、彼女は承知していたわけじゃない。他に方法がなかったんだ。気付かないふりをして、それを口にしなければいけない理由があった。」 「忘れろ。手に負えないだろう。」 「彼女はどうなります?」 結城さんは答えない。 ただ、長い沈黙のまま車をスタジオの駐車場に駐めて、溜め息をついた。 「…………仕事だ。一旦、忘れてくれ。」 「見捨てるみたいなこと、絶対に嫌ですからね。」 車を降りて乱暴にドアを閉める。 地下駐車場にバンッという音が響いて、割れたガラスを踏む感触を思い出した。

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