#25 いずれ終わりを迎えるための

 それから何日か、クロイツは朝方に神殿を出て湖上を渡り、まっすぐ工房にに通うことを繰り返した。ヤツルギはあいかわらず出かけていて、留守を預かるコウはというと、出迎えてくれたりくれなかったりした。 「眠い……というより気持ちが悪くて寝付きが悪い、ような気がする」 「ようなって」 「――寝ても寝た気がしないというか。まあ、これをおまえに話してどうしようっていうわけじゃないんだけど」  今日のクロイツは前日のコウの言葉に従い、肩掛け鞄を持って来た。言われたとおり、中にはあるだけの教本を詰めてきたが、コウがそれを改めることはない。彼は中身をろくに見ることもせず、すぐに教本を鞄から抜き出してしまった。  かわりに詰め込まれたのは、小奇麗な着替えが数枚。どれもコウ自身が小さいときに着ていたものであるという。  それを詰め終えたコウは寝台の端に腰を下ろし、深く長く息を吐いた。 「で、どこまで話したっけ」  問われて、クロイツもまた寝台の端に腰を下ろした。考えごとに伴うか細い唸りをこぼしてから、 「森の抜け方まで聞いた」  と応じる。村を囲う森は深いが、きちんと通える道がある――という話を、先刻コウから聞いたばかりだった。 「そこまでか。ええと、そうしたら道を抜けて――」  けっして細くはない節くれだった指が、つうと空を滑ってなにかを描いた。線のように思えたがさほどまっすぐではなく、曲がるどころか途切れさえする。  ひとしきり虚空への書きものを終えると、コウは首を捻ってクロイツを見た。 「川沿いにずっと行けば街に着く。これは間違いない」 「街に着いたら、たしかおまえの知り合いの知り合いがいるんだよな」 「うーん……、知り合いの知り合いだと少し近すぎるような気もして来た。とりあえず、その知り合いの組織で雇っているのは確実だ」  その知り合いに話をつけてあると聞いたのは、金貨を受け取った翌日のことだ。街に出たらまずその伝手を頼って、生活の面倒を見てもらえ、とコウは言った。国内で手広く武器の流通を手がける商会の女主人であるとのことで、未成年ふたりくらいは容易く面倒を見られるはずだ――とも。  記憶を辿りながら、クロイツは静かにうなずいた。  視界の端で揺れる白い髪は、梟の姿で生まれた獣の証だ。コウの知り合いはそれも含めて面倒を見てくれるはずだと言う。  不安がないではないが、彼女に頼るよりほかに術はないように思われた。 「気のいい方だよ。部下から連絡が来たら、すぐに迎えに来るなりして下さると思う」  コウはシーツの上に手をついた。  袖からのぞいた腕は赤い。火に焼けるばかりで、外の日に当たっていない証拠だった。  クロイツはなんとなくその様から目を逸らし、右脚の上に左足を乗せた。組んだ足の上に頬杖をつく。目線は少し悩んだ末に、コウの顔に据えた。 「おれひとりでも平気かな」 「手紙を書くから持って行けよ。こいつは間違いなく俺の知り合いですって」  たぶん、と思う。――コウは本当なら、いっしょになって村の外へ出て行くつもりだったのだろう。だからこそ、こんなに準備が手慣れているのだ。 「じゃあさ、おれもおまえに手紙を書くよ。そな知り合いのところで暮らすのが決まったときと、出て行くことにしたとき」 「ああ、出て行くのは確定なんだな……」  うなずくと、コウは体を支えた腕を外した。  そのまま畳んだ毛布の上に横になり、ほどなくして体を丸める。クロイツは彼の仕草を猫の子のようだと思ったが、表現としては微妙なあたりだ。  ヤツルギは猫ではないし、コウもまたヤツルギだけの子どもではない。それに―― 「買い物の仕方も、宿の取り方も、乗合馬車の乗り方も教えたな」  コウは言葉を話すことができる。だから、猫の子とは根底が違う。 「困ったときの駆け込み先も、街道を歩くときの決まりも、いい感じの店の選び方も、ぜんぶ聞いたよ」  こうしてクロイツと意思を疎通できるのもまた、きっと猫にはできないことだ。  ――ふわふわと笑う気配から目を逸らすかわり、そうと金の目を閉じる。  コウからはたくさんのことを聞いた。そのどれもが長い長い話で、おそらく永久に役に立たない話も山ほど混じっていた気がする。ひとつふたつは役に立つこともあるかもしれないが、果たしてその日が来るのかどうか。 「手紙さ」  なんにせよ、聞いてしまったという事実は不可逆なものである。取り消しの効かない言葉は血肉となり、永久にともに生きて行くよりほかにない。 「全然関係ないときに書いたら、迷惑かな」 「迷惑というほどではないかな。でも、返事は期待しないで欲しい」  それから、不可逆なものはこの場にもうひとつ。その名前を口にしてしまえば最後、本当になにもかもの取り返しがつかなくなる気がしてならなかった。  結果として押し黙ったクロイツに対し、コウはなにも言わなかった。喘鳴めいた――あるいは笛の音に似た細い呼吸が鼓膜を揺らし、余韻と呼ぶにも弱々しい痕跡を頭の片隅に残しすばかり。  やがてそれにも厭いて口を開きかけた折、扉の開く音がした。数日の間、自分が立てた以外には聞くことのなかった音だ。続く足音は微塵も遠慮を見せることもなく、工房の中をぐるぐると回っている―― 「誰だろ」  クロイツは目を開いた。  ヤツルギのものにしては目的が見えない。荷物を置くとか、上着を脱ぐとか、そういう類の音もしない。顰めた眉を見たわけでもなかろうに、コウが身動ぐ気配があった。 「本当にたまにユリシスが来ることもあるけど」 「ユリシスにしてはでかいと思う」  とはいえ実際のところ、ヤツルギと比べると少しだけ小さい。  やがてクロイツは頭を振り、寝台の上から飛び降りる。 「見て来る」  普段ならばやめておけと咎めるはずのコウは、今日に限ってだんまりだった。

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