父のこと 03

「借金を払ってもらおうか」  そう迫る声に怯えた目を向けると、鋭いシッポを生やした赤目の男がニタニタ笑いながら立っていた。 「ひっ」  わたしが立ち上がり、思わずそばの人にしがみつくと、それは姑であった。 「だいじょうぶよ」  姑は、立ち上がって男に向かって拳を振り回した。「出て行け!」  男はぶわっと膨らんだ。視界いっぱいに広がり、黒い霧になって消えていった。  あとになってそれが幻だったことに気づいたが、その当時はほんとに怖かった。突然の借金という現実を受け容れるには、わたしの精神は脆弱すぎたに違いない。普通の人なら、この程度のことで精神を病むことはないのだろう。不意に急所をつかれても、平然としていられる人が多いのかも知れない。  しかしわたしは、その20年ほど前に精神を病んでいた。原因は職場のパワハラで、契約では定時で帰れるはずだったのに、残業を強要されたのである。家庭を持っているわたしには、それはキツイ要求だった。仕事との両立に悩み、ちょうど倒れたおばあちゃんの面倒もみなければならず、ついに力尽きてしまったのである。  その病気も癒えぬ間に、今度は父の自殺。  借金取りからの電話もかかってきた。自分には関係ないと夫や同居している姑は拒否した。特に夫の活躍はめざましかった。  3ヶ月以内に相続放棄すれば、責任はまぬかれる。わたしと離婚するよりも、わたしに成り代わって処置をしよう。  夫はわたしの実印を持って、裁判所や役所を渡り歩いた。書類に実印を押し、わたしの筆跡をマネして代筆し、相続放棄の手続きを取った。父の姉や兄たちにも相続が行くことから、連絡を取って相続放棄の手続きをするよう助言した。  なさけないことにその間、わたしはずっとイカれたままだった。  その看病をしたのは、姑と夫だった。ふたりともわたしと離婚することは考えもしていないようだった。病気が重くなれば、自分で食事も排泄も出来なくなる。しかしふたりとも自分の仕事も家事も放り出して、うわごとを言って走り回るわたしを面倒見てくれたのであった。  3ヶ月後、相続放棄の手続きは済んだ。わたしは病気が軽くなり、まともな会話が出来るようになった。財産も、人格も守られたのだ。すべては元通りになっていた。生活は安定したが、わたしの心は荒れた。父のことを見殺しにしたのではないかと思ったからだ。  実は生前、わたしは父からお金を貸してくれと頼まれていた。理由を告げずに30万ほど貸してくれと言うのである。財産が1600万あるのにとわたしは首をかしげ、その申し出を断っていた。思えば、そのときに父は自己破産するつもりだったのではないか。それをわたしは知らずに拒否していたのではないかと。

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