父のこと 02

 わたしは今もはっきり思い出せる。  父の部屋には、生活の匂いがしなかった。乱雑な書類が散らばっていて、殺伐とした雰囲気があった。この書類はすべて、消費者金融からの借金証明書だった。  父の好きだった本も、雑誌もなかった。父の好きだった服もなかった。  あるのは、みすぼらしいポロシャツとチノパン。  台所はあったろうか。仮にあっても、料理をしていただろうか。  父はビルから飛び降りて死んだ。「ご迷惑をおかけします」とだけ書き置きして。靴は履いたままだったが、クリスチャンだったからだろうか。 父のアパート部屋のカレンダーの日付欄に×が書いてあった。父の自殺した日付でそれが止まっているのを見て妹が、「お父さんが×印を付けてる」と言っていた。  父はどんな気持ちで印をつけていたのだろうか。  ショックなことは続いた。わたしの名義で30万の借金があったのである。  身に覚えのない借金だった。  警察から濡れ衣を着せられそうになったことも加わって、足下がガラガラ崩れる気がした。グラグラする現実から意識が引きずり落とされていくのを感じた。  重力が呼んでいる。わたしはよろよろとよろめき、倒れるように座り込んだ。  それからのことは、切れ切れにしか覚えていない。遺言書を親戚の前で開封した夫が、そこにあった記事の不自然さに眉をひそめ、 「墓を妹に管理させるってどういうことだ?」  とつぶやいたことや、借金取りが現れて香典を奪うのを避けるために、すぐに牧師が呼ばれて葬儀が行われたこと。  大雨の降る墓場では、開いた墓の中が水浸しになっていて、牧師がそのなかに散骨したこと(この乱暴なしぐさは、いまだに悪夢の中に出てくる)。 のちに、遺言書は家庭裁判所の前で開くことを知ったこと。  母のときのように、盛大なお葬式が出来なかったこと……。  父は、香典の3分の1を社会福祉協議会に寄付しろと遺言したが、わたしはその通りにしなかった。社会福祉協議会が、父のために借金を肩代わりしてくれるのだろうか。父は最後までカッコ付けではないか。見栄っ張りの、身勝手な男。 そう責めたものではない。死んだことがすぐに判ったのはラッキーだったのだ。警察に出頭したとき、その電話相談で、アパートで独り暮らししていたおれの父親が腐乱状態で発見された、父には借金があった。死後3ヶ月経っているが、相続は死後3ヶ月から発生するのかどうなのか、という質問が寄せられていたことを思い出したからだ。 相続は、血族の死を知って3ヶ月経ってから発生する。それを証明するには、この相談者はかなりの苦労が予想された。わたしは心が痛んだ。

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