戴冠、或いは暁を待つ | 三章:大嘘つきたちの夜
かなた

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 夜明け間近の門前広場は、しんと静まり返っていた。まるで泉の底に沈んでしまったようだと思ったのは、ここが壁と斜面に挟まれた土地であるからだろう。  当然ではあるけれど、ここにクロイツの姿はない。むしろひとの姿自体が稀有である。  遠くを歩く巡回の姿は見えたが、それさえもまばらだ。きっと彼らのうち何名かは夜目が利くのだろうけれど、誰もが僕に声をかけて来るようなことはなかった。西方に属する街同士の距離を思えば、これくらいの刻限に外へ出る者など珍しくはないのだろう。  僕は腕組みをして凍えたふうを装いながら、逸る心臓を抑えて歩き出す。  目指す先は門扉のかたわら、まず第一にひとの出入りを管理するための小屋へ。すでに何度か来た場所ではあるが、ひとりで来るのははじめてのことである。  深呼吸を繰り返して意を決め、閉じられた硝子の二重窓を拳で叩いた。  ややあって、黒《くろ》文《も》字《じ》の木の煎《せん》液《えき》で染めたと思《おぼ》しきカーテンを引く手が見える。その手の先にある、灰色に塗られた二重環《にじゆうかん》の腕輪も。 「……急ぎ?」  問うて来る男の声は若く、眠そうだ。そして、ダーヴィトのものとはまったく違う。 「割符は受け取って来ているかな? 役所から取り寄せだと昼まで待ってもらうんだけど」  その事実に安堵しつつ、僕はひとつうなずく。  すると男は欠伸を隠そうともせず、少しだけ窓を開けた。紐を指にかけたまま、開いた隙間へ捩じ込むようにして、ふたつ揃いの割符――身分証と滞在証を見せる。  男は黙ってそれを改めると、帳簿を開いてペンを走らせた。 「両方があるならここで特別な手続きは要らないな。通用口からそのまま出ていいよ。帰りはまた必要だから、気をつけてね」  小屋の奥から別の声が上がったのは、ちょうどその言葉尻に重ねるように。 「そいつ、大佐のところで預かってるやつじゃないのか」  考えるより先に、ひとならざるものが作った珊瑚朱の紐を引く。けっして頑健には見えないそれは、窓枠に擦れて切れることなく割符を僕の手中に納めてくれた。  紐をベルトに通す手間も惜しみ、僕は空いた手を伸ばす。  門についた通用口の取っ手を掴む。ひねる。鍵はかかっていない。開く。背中に伸ばされる手の気配があったが、それが伸び切るより早く戸を潜る。  分厚い背中の布地を擦って行く、誰かの指先の感触があった。遅れて舌打ちがひとつ。 「――力尽くでも連れ戻せ! 責任はわたしが取る!」  聞き覚えのある女の声がした。  雪を踏んで城壁から距離を取る僕の背後、わずかな混乱の気配が湧く。  首だけで振り返ってみれば、眼に入るのは通用口を抜け出た軍装の姿がふたつ。それから獣が一頭。 「どこへ行くつもりです」  三者は唐突にこちらを捕らえようとはしなかった。距離を開けて振り返る僕に対し、まずは説得を試みようとする。  ケイの声が叫んだような、力尽くでの捕獲には気が引けたのだろう。  そして彼らは彼ら自身の慎重さゆえに、以後僕を捕らえる機会を永遠に失うこととなる。 「退け、愚《ぐ》図《ず》ども!」  彼らにとっての不幸は、僕を単独犯だと思い込んでいたことに尽きる。  騎手の怒号とともに雪上を駆けて来た二頭の馬に対し、三者は散り散りに逃げ出した。ヒトふたりは倒《こ》けつ転《まろ》びつ、虎の姿の獣は走るよりも飛ぶようにして。 「ルカ、乗れ」  雪を蹴り立てて走る馬は、春夏の暖かい時期に使うような馬と比べて、ひと回りもふた周りも大きい。馬脚の太さは比べるまでもない。もし彼らに蹴られれば、さしもの獣も無傷では済むとは思えない。  そんなものを嗾《けしか》けた張本人である魔術師は、僕のほうを見ることもしなかった。空いた馬のほうへと駆け寄ると、黙って手綱を放って来る。 「このろくでなしめ」  通用口から顔を出したケイの長い髪が、ぞわりと逆立つのが見えた。軍装をまとった体《たい》躯《く》が溶けるように輪郭を歪め、空《くう》に滲むように体積を増す。 「使いもしないくせに伝令の馬なんて飼ってるから悪《わり》ィんだよ、馬鹿が」  彼女を含めた通関の警備隊の誤算は、もうひとつあった。  それは、僕のきょうだいに乗馬の才がなかったこと――僕は彼の代理だ。遠乗りも狩猟も式典も、全部かわりにこなして来た身の上である。 「遅くとも明後日になりゃ帰って来るさ。大将には全部正直に話してやるから、おまえらは安心して待ってな」  四足で地を蹴ったケイは、狭い通用口の縁を叩き割って飛び出して来る。その脚が再度雪を踏むより前に、僕らは馬の腹を蹴った。嘶《いなな》きを残し、二頭の馬が走り出す。  こうなってしまえば、もはや獣が何頭いようが僕らを止めることなどできない。  僕らを止めることはすなわち、馬の脚を止めることだ。それをしようと思うのならば、徒手空拳のヒトなど役に立たず、獣たちは喰らいついて止める以外の方策を持たない。銃でもあれば増える選択肢もあったかもしれないが、なんにせよ騎手が無事で済む道理がない。  全力で走る馬の上で、クロイツはひらひらと手を振っていた。その小器用さに呆れるうちに、門扉近くの人影はひとつも見えなくなる。  きちんと馬を借りるには相当な時間がかかるから、彼らも今すぐ追っては来るまいとクロイツは言った。 「伝令用の馬なんて、壁の外にいたんだな」  馬の脚を緩めながら、僕は嘆息した。魔術師はひとつ首肯してみせる。 「壁が邪魔で突っ切れないからな。反対側まで伝令に行くのに使う」  振り返れば、トゥーリーズの街並みはまだはっきりと見て取ることができた。丘陵に沿う地理と城壁の高さ故に、かの街はもうしばらく僕らを見送ってくれることだろう。 「はじめて見たけど、たしかにあれを回るのは大変そうだ」  僕の言葉につられたように、クロイツもまた街を振り仰ぐ。 「おまえ、あれを見るのははじめてか」 「来たときは馬車だったからね」  と僕は苦笑した。――王都からトゥーリーズを訪《おとな》うにあたり、僕は馬車を使ったのだ。窓にも鎧戸と鍵のついた、居心地のよい牢屋のような馬車を。  たしかあれは「顔を見られれば障《さわ》りがあるかもしれない」という理由に基づく措置だったと記憶している。けれども本当の理由は、おそらく僕を逃さないためであったはず。その証拠に僕を馬車に乗せた伯爵の代理など、哀れになるほど顔を引き攣《つ》らせていた。  彼の青ざめた顔を見ていたら、逃げはしないなどと言い出すことはできなかった。 「どんだけ箱入りだよ」  クロイツは片腕で腹を抱えて笑う。明るさを増した曇天の下、笑い声は雪に飲まれてどこか空虚に聞こえた。  僕は嘆息しながら、おとなしく歩く馬の後ろ頭へと目線を移す。借り受けたというより押し付けられた馬ではあるが、彼ははじめて乗る僕を厭《いと》う気配がない。思えば虎たちにも尻込みせずに突っ込んで行ったのだから、性質が豪胆であるのだろう。  見事な月毛の毛並みは美しいが、誰かさんと同じく馬も見た目によらないことの好例だ。  そこまで考えてから、僕は昨日からの疑問を口にする。 「……ところで君、行き先は本当に古巣のアルシリアじゃなくてよかったのか?」  山向こうのと形容されるアルシリアは、地図上でこそ半日ほどの距離だが、実際には数日をかけて山道を通らなければ行き来ができない。対する〈|壁の外《トゥーラ》〉は地図から測れるとおりに、馬を使えば半日で行き来のできる距離にある。 「最果てのあるじに誓って、言い間違えではないことを宣言します」  言いつつ、クロイツは首許に結んだ紐を解いた。引き絞った形で留められていたフードが風を孕み、見慣れたまろい輪郭を象《かたど》る。 「君、どうあってもそれを脱ぎたくないんだな……」  門前広場で被り直した僕のフードは、とっくに脱げてしまっていた。フードなど得てしてそんなものだが、クロイツにとっては違うらしい。 「俺はこいつを脱ぐと障りがあるのさ」  しかも僕が馬車に詰められたのと同一の理由と来た。  僕はしげしげと白い姿を見る。生物《ひと》と無生物《にんぎよう》、あるいは男女、大人と子ども。あらゆる境を曖昧に遷《うつ》ろう美しい容姿は、僕が知る限り誰とも似たところがない。その意味するところはつまり、僕はかなりの確率で彼の身内を見たことがない、ということだ。  ヒトとは違う獣たち――ユードヴィールなども端正と言い得る姿はしていたが、あれは少し質が違う。獣たちの優美さは左右の均整がぴたりと取れているだけの、変《へん》化《げ》の惰性の結果にほかならない。  対して、魔術師の白《はく》面《めん》はそういう範疇に収まってなどいなかった。言うなれば、たしかな一個の意志を以て計算し尽くされたと思われる、一切の破綻を許さない顔立ち。もし一度でも似たものを見たことがあれば、忘れるはずなどないだろう。 「なので、本気を出すときにだけ脱ぐ」  せっかくのそれを、持ち主は平気で無駄遣《づか》いする。  ふふんと自慢げに持ち上げられた形よい頤《おとがい》を横目に、僕は心底呆れて口を開いた。 「……君、割と馬鹿だろう」 「馬鹿はおまえだ。脱いだときにびびるんじゃねぇぞ、阿呆め」  背に乗せたひとの話題になど興味を示さず、馬たちはまっすぐに歩いて行く。雪上、あるいはその下にある障害物を発見するのは、彼らではなく僕たちの役目だ。  目線をまっすぐ前へと据えながら、僕は考える。――魔術師とは実際のところ、なろうと思ってなれるものではない。クロイツが言ったとおり、不可視のものを視《み》る目が要る。  だから、魔術師を真に魔術師たらしめているのは、魔術の知識や意識の問題ではない。重要なのは体質であり血筋だ。ただのヒトの親から魔術師の素養を持つ子どもが生まれることもあるが、魔術師はおおむね魔術師の親から生まれる。  ――その結果として、見えざるものを見る目以外のものを引き継ぐ家もあったはず。たとえば先生の家は僕らが崇める竜の声を聞くことができたし、普通の魔術師より余計なものが見える家もあると聞いたことがある。クロイツもひょっとしたらそういう家の生まれで、顔を直視すると呪われるとか、最悪死ぬとか、実際の被害が出るのかもしれない。  ならば、なにをどう間違っても、あれを剥ぐことは避けねばなるまい。  そう意を固める僕の横で、クロイツが片手を上げた。 「このあたりで街道に出よう。里程標《りていひよう》が見たい」  うなずいて、僕は馬の手綱を引く。  王都から見て山を越えた先にある〈|壁の内《トゥーリーズ》〉と〈|壁の外《トゥーラ》〉は、その名が示すとおりに無関係な都市ではない。かつては同じあるじを戴《いただ》いていた兄弟都市である。ゆえに両者をつなぐ街道は整ったもので、街からの距離を示す里程標もあるし、雪解けのあとの水捌《は》けもよいように作られている。  しかしながら僕らが馬を進めた街道は、雪解けそのものが始まっていなかった。そればかりか雪に埋もれた道は、未だ誰を通した気配もない。 「やっぱり、君が通関で見たのは間違いじゃなかったんだな」  そこが街道であることを示すのは、背の高い里程標と常緑樹の頭だけ。  振り返れば二頭の馬の足跡が続くばかりで、眼前はただひたすらに真銀《ぎん》の野だ。吐き出した吐息の白に滲むものも少なく、あるかなしかの起伏が進むべき方角を曖昧にしている。 「俺は賢いからそういう失敗はしない」 「まぁ、その点は僕も信頼してるけどさ」  ならよしとクロイツはうなずいた。その顔はどこか眠たげで、唇はすでにまっすぐに引き結ばれている。  思えば彼は詰所の地下牢から協力者を連れ出し、僕の滞在証を持ち出すという行為の後なのだった。思うに昨日は一睡もしていないのだろう。なんとなくこちらの我儘で迷惑をかけてしまった気がして、僕もそれきり沈黙を守ることに始終する。  とはいえ、雪を踏みしめて歩く馬の足取りを感じるのは、黙っていてもなかなかに楽しいことだ。そう思える程度には、僕は馬が好きなのである。王宮から出た後は悠々自適に牧場主として暮らそうか、などと大真面目に考えていた時代もあった。  ――そんな回想を中断したのは、前方にひときわ高い里程標を見つけたときである。  里程標というよりは、三叉路であることを示す標識というほうが正しいかもしれない。三方を示す木の板には、それぞれに西方三都の名と都章《としよう》が焼印によって記されていた。  クロイツはその釘打ちされた板を見上げ、僕は三叉路の先の道を見る。トゥーラとアルシリアをつなぐ道には、すでにひとが通った形跡があった。 「急ぎの用があるひとでもいたんだろうか」  雪を掻いたというわけではないが、ところどころは整備された街道の石畳が露わになっている。残る雪はぬかるみ、馬車の轍《わだち》がそれを引く馬の足跡を完全に消していた。  トゥーラからアルシリアへか、あるいはその逆か。ひとが通ったことはわかるが、それ以上のことは一切わからない。 「さぁね。考えてもわからねぇことは、考えねぇことにしてるから、どうでもいいわ」  ならば彼に仔細を問うても無駄だろう。  常《なみ》歩《あし》で馬を進めた彼を追うべく、僕もまたみずからの騎馬の腹を軽く蹴った。軍馬として育てられたと思《おぼ》しきこの馬は、思い切り蹴ることをしなくても、おとなしく僕の意を汲んでくれる。  本来なら馬が恐れるはずの獣にも容赦なく突っ込んで行くような、一種の豪胆さとは結びのつかない態度であった。  おかげで僕はさして疲れることもないまま、トゥーラが近づいたことを示す標《しるべ》を目にするに至る。  この里程標は、小高い丘に植わった針葉樹のほど近くに設《しつら》えられていた。ほかよりもわずかに乾いた地面の上に並ぶようにして、僕らは馬の脚を止める。  斜面の下に目をやれば、トゥーラの赤い街並みがはっきりと見えた。  対であるトゥーリーズはひとの手が作った城壁によって守られているが、トゥーラは自然の濠《ほり》とも呼べる二本の河《か》川《せん》と湖によって守られた街だ。河の水源は、アルシリアとこの近辺を隔てる翠珠山脈《すいじゆさんみやく》のいずこか、もしくはすべてであるという。  クロイツも目を細めてトゥーラを眺めていたが、そのうち不意にこちらを向いた。 「ここで別れよう」  思えば彼は身分を示す割《わり》符《ふ》を持っていないのだ。当然正面から街に入ることはできない。 「構わないけど」  僕は服の上から、朱に染められた組紐を撫でる。 「トゥーラの通関は、トゥーリーズから来た人間を通してくれるかな」  割符の裏には、先に滞在していた領地の名が書かれる決まりだ。ゆえにこれを見れば、持ち主がどのような移動をして来たかがひと目でわかる。  僕の心配をよそに、魔術師は年頃の少女のようにふわりと笑った。 「そのあたりは摂政殿に感謝するんだな」  首をかしげた僕を見て、澄んだ声音が朗々と、見えるはずのない文字を読み上げる。 「国《こく》法《ほう》に則る限り、人民の如何なる道《みち》行《ゆき》も妨げてはならない」  それはいつだったか、役人と領主に向けて出された触書《ふれがき》の一節であったはず。居住する領地の混乱に伴い、外へ逃げようとする者への措置に対する苦言と言い替えてもよい。  実態はともかくとして、意味合いは読むまま、聞いたまま。領地を出る者も、領地へ入る者も、割符さえ提示するならば出入りをして構わないということである。  もしもそれを妨げ、ましてや害するようなことがあれば、王都を敵に回すことと同義だ。  だからおまえはトゥーラに入れるぞと、クロイツは言外に告げている。 「ま、通れなかったらそのときに考えようぜ」  僕はひとつうなずいて、ベルトに通した珊《さん》瑚《ご》朱《しゆ》の紐を外した。クロイツは馬を降り、手綱をこちらへ渡して来る。馬はおまえがどうにかしろと言うことらしい。  左手でそれを受け取ってから、僕は騎馬の腹をゆっくりと蹴った。トゥーリーズ育ちの馬は、むしろ慣れた様相で丘の斜面を下り始める。伝わる前後動も恐怖を煽るほどのものではない。そうして丘の麓へ辿り着いたところで、僕はそっと来た道を振り返った。  雪の薄い道の向こう、雪にも映えるはずのましろの姿はどこにもない。――善き隣人《妖精》たちにでも化かされた気分で、僕は前に向き直った。  なにせ、相手は魔術師なのだ。見えざるものを見る目を持つ彼らが、見えざるものと同じことをしない道理など、きっとこの世のどこにもありはしない。

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