第二十二話:力勝負

「あそこの立て看板を見たんだが」  そう言ってひとりの旅人がおきんの見世を訪れたのは、それから半刻《約一時間》ほど過ぎた頃のことだった。  旅装束の上からでもわかる、がっしりとした肩幅を持った男だ。  年は三十路といったところか。  その風情から察するに、おそらくは飛騨路を行く小商人《こあきんど》なのだろう。  どこか大沼のがま蛙を思わせる大きな口をにやつかせながら、おきんにむけて彼は尋ねた。 「腕相撲で勝ったら一両もらえるってのは、おまえさんの見世のことかい?」 「あいあい、さようでございますよ」  とりあえず注文された白湯をその旅人に差し出し、愛想良く彼女は答えた。 「お気になられますかねえ、お客さん」 「おお、気になるねえ」  床机の上にどっかと腰を下ろした彼は、出された白湯をひと口すする。 「俺はこう見えても地元の草相撲じゃ関脇だったんだ。腕力《かいなぢから》にゃいまでも自信がある。そんじょそこいらの連中には負けやしないよ」 「じゃあ、いっちょう挑んでみられますかい?」 「いいのかね?」  ぴくりと眉を動かして旅人は言った。 「一両損するだけだぜ」 「やるのはあたしじゃありませんで、全然構いやしませんよう。どうぞどうぞ」  まるで他人事のように──いや、実際に他人事であったのだが──応じたおきんが、ひと声大きく呼び声をあげた。  それに呼応して見世先に駆けてきたのは、年の頃十歳ほどの少年だった。  宿場客がまとうような男着物を、その小さな身体にだぶつかせている。  お伊勢参りでもあるまいに、子供の旅路とはいかにも珍しいものだ。  そんな風に内心で思いながら、旅人はその少年と向かい合った。  単刀直入に質問を飛ばす。 「坊主。おまえさんが、俺の相手かい?」 「まさかまさか」  少年は、あたりまえだとばかりに首を大きく左右に振った。 「お客さんの相手はおいらの師匠がするよ。それより──」 「それより?」 「立て看板のほうは、ちゃんと見てくれたんだろ?」 「おお、見たぞ見たぞ」  頷きながら旅人は応える。 「腕相撲に勝てば一両。負ければこの見世の串焼きを十本、それも倍の値段で買い入れること。そうだったな」 「間違いない」 「だが本当に良いのか。俺は強いぞ。約束は守れるんだろうな」 「莫迦にするなって。おいら、ほかに悪いことはしても嘘だけは吐かないからよ」  見た目の体格と比べてひと回りは太い腕と盛り上がる力瘤を旅人に誇示されてもなお、少年は余裕の表情を崩そうとしなかった。  「ちょっと待っててね」と短く告げると、彼はやや遠目に向かって声を上げた。  自らの言う「師匠」とやらを呼んだのだった。  旅人の顔色がみるみる蒼白になっていったのは、それからすぐのことだった。  それまでどこにいたものか、少年の声に応じてぬっと姿を現した彼の対戦相手。  それは、身の丈六尺を優に越える雲突くような大男であった。  その男はのしのしと旅人の眼前に歩み寄ってくるやいなや、威嚇するよう腕組みしつつ傲然と胸を張って仁王立ちする。  確実におのれを数段上回る広い肩幅と分厚い胸板、丸太のごとき太い腕──長着の上からでも判然としてしまうその膨大な筋肉量に、旅人の戦意は文字どおり木っ端微塵に打ち砕かれた。  瞬きすることも忘れ愕然とその威容を見上げるしかない彼の喉が、一瞬の間を置いてゴクリと鳴った。  右手に持った湯飲みが、思わず下に落ちかかる。  だが少年はそんな旅人の変化を一顧だにせず、傍らの「師匠」と並んで胸を張り、自慢げに鼻の下をひとこすりした。 「この人がおいらの師匠だよ」  そう少年は旅人に告げた。 「じゃあ、早速始めようか」 「ふざけるな!」  突如として激高し、旅人は弾けるように立ち上がった。  周囲に唾を撒くほどの勢いで、少年に向かって喚き散らす。 「こんなの相手に勝てるわけないだろ。勝負なんてできるかっ!」 「え~っ、そりゃないよ、おじちゃん」  両手を広げて少年が抗議する。 「さっきまでやる気満々だったじゃん。それをいまさら逃げ出すなんて、男として卑怯だと思わないのかよ?」 「卑怯で結構! こんな負け戦に自分から首突っ込むほど俺っちは莫迦じゃない」  不平たらたらにくちばしを尖らせる少年に対し、大人げもなく旅人は言い放った。 「悪いがこっちも商人《あきんど》なんでな。手前の損得勘定って奴にはちっとうるさいんだ。おまえさんらになんと言われようが、とにかくこの勝負、俺は降りる。帰らせてもらうぜ!」  叩き付けるように御代を置き肩を怒らせて見世先を離れていく旅人の背中を黙って眺めたあと、立ちすくむ大男──古橋ケンタは傍らの弟子《鼓太郎》に向かってぽつりと言った。 「行っちまったなあ」 「うん……」 「これで逃げられたのは何人目だっけ」 「五人目……」 「そうか」  ケンタの口からため息が漏れた。 「やっぱり初めから無理があったんじゃないか、この作戦」 「全部、師匠が悪いんだからな!」  鳳仙花のように鼓太郎が弾けた。  両手を大きく振り回しつつ、高まった感情を思い切り爆発させる。 「だいたい師匠が見るからに強そうだから、みんなみんな逃げちゃうんだぞ。まったく、なんでもっと弱そうに見えないんだよ! 自覚しろよ!」 「俺か? 俺のせいなのか?」  降って湧いたようなとんでもない言いがかりに、ケンタはその目を丸くするしかなかった。  激しく地団駄を踏む鼓太郎の八つ当たりが、なおもそんな彼に石つぶてのごとく襲いかかる。  それは、まさしく《《かんしゃく》》だった。  火山の噴火を思わせる制御不能な自我の爆発。  いったん火の点いたこの手の感情は、いつの時代であってもまこと始末に負えない代物だ。  なんと言っても、その怒りの矛先となっているものがなんなのか、当の本人にもほとんどわかっていないのである。  そんなわけだから、この時どれほどケンタが大人の対応に徹しようとも、そこに具体的な落とし処など見出せるはずもなかった。  やれやれ、そろそろ勘弁してやろうかしらねぇ。  巌のごとき屈強な巨漢がどこにでもいそうな子供ひとりに散々振り回さている情景を心の底から堪能しつつ、おきんはふとそんな思いを巡らせた。  日の高さからうかがうに、刻はおおよそ昼八ツ半《午後三時頃》といったところだろう。  客足も大分少なくなり、普段ならそろそろ見世仕舞いでもしようかなどと考え始める時分である。  あとはあそこのふたりに旅籠から金を持って来させれば、それを待っている間にちょうどいい頃合いにもなろう。  たまさかの来客に向け残った鮎を竹串に通しながら、おきんはふたりに声をかける機会をさも楽しげに見計らった。 「ごめん」  彼女の見世を唐突にひとりの客が訪れたのは、まさにそんなおりのことだった。  放たれた第一声。  それは、いささかたどたどしさの漂う野太い男の声だ。 「あの、立て看板を掲げたのは、おまえか?」  抑揚なく客は尋ねた。  重くて低い、まるで牛の鳴き声のごとき発音だった。  おきんが聞き慣れた旅人たちの話し口とは、明らかにどこかが異なっていた。  一瞬、強い違和感がおきんを襲った。  だがそれでも彼女は客商売の常として、「いらっしゃい」という歓迎の言葉とともに顔を上げ精一杯の愛想を振りまこうと試みた。  だが、できなかった。  思わず喉の奥から込みあげてきた短い悲鳴が、それを中途で遮ってしまったからだ。  みるみるうちにその表情が引きつり、全身が仰け反るように硬直した。  声の主は、そんな彼女を前にしてなお平然と言葉を紡ぐ。  彼は言った。 「立て看板の内容、見た。俺、あの勝負受けたい。それ、おまえに言えばいいのか?」  それは疑いようもなく、|例の勝負《腕相撲》の申し込みだった。  即座に要件を理解したおきんは、反射的に鼓太郎の名を呼ぶ。  あらんかぎりの大声で、だ。  その声色は、半ば以上助けを求める悲鳴に近い。  だがそんなお召しであっても、鼓太郎にとってはまさしく渡りに船のごとく聞こえた。  待ち望んだ好餌《カモ》が時を置かずやってきてくれたのだ。  今度こそ、の意気込みを込め、それまで活火山のように鳴動していた態度をひと息で豹変させる。  「お客さんかい?」と努めて軽快な声を張り上げつつ、鼓太郎は見世の方向へと顔を向けた。  そして次の瞬間、彼もまたおきんと同様、おのが表情を凍り付かせた。  「ひいっ!」と短く叫喚し、木石のごとく絶句したまま立ちつくす。 「どうした、鼓太郎?」  身動《みじろ》ぎひとつしない愛弟子の様子を訝しんだケンタは、その視線の先を見遣るべくひょいと肩越しに振り返った。  そしてその瞬間、彼がこんな具合に陥ったわけを一も二もなく理解した。  その驚愕の対象は、そこにいた。  それは、まさしく目を見張らんばかりの大男だった。  身の丈六尺を越える自分《ケンタ》をすら余裕で上回る巨躯の持ち主。  高密度の筋肉繊維で膨れあがった小山のごとき胸板が着物の下から激しく自己主張を繰り返し、その前面に組まれた図太い双腕も決して存在感で劣りはしない。  だが真にケンタを刮目させたものは、男の持つそんな肉体の質量などでは断じてなかった。  それは、明らかに自分たちとは異なる彼の容貌そのものであった。  まるで僧侶のように剃り上げられた無毛の頭部と密集して口元を覆う黒い髭。  顔面の中心軸を占める大きな鼻と分厚い唇。  肌の色は日焼けのそれと比べものにならないほど黒く、それゆえ眼球の持つ白さが異様なほどにぎらついて見えた。  間違いない。  その男は「黒人《アフリカン》」だった。  疑うべき要素など、どこをどのように探そうともひと欠片も見当たらなかった。  無意識のうちに、ケンタはごくりと息を飲んだ。  それは、異人種の存在を目の当たりにしたからではない。  この時代の日本で黒人と出会ったという現実を、彼の脳が容易に受け入れようとしなかったからである。  二十一世紀の世で実際に異人種との接触経験を持つケンタであってもそうなのだから、これまでの人生で典型的な「日本人」をしか目にしたことのない鼓太郎やおきんであれば、その受けた衝撃たるや彼の十倍二十倍などでは利かぬであろう。  呆けたように「……黒鬼だ」と呟いた鼓太郎の表情が、見事なまでにその事実を知らしめていた。 「おまえが、俺の相手か?」  大股で歩み寄ってきたその黒人が、肉厚の唇を器用に動かしケンタに尋ねた。 「おまえに勝てば、一両もらえると、立て看板に書いてあった。あれ、嘘ではないな?」 「もちろんだ」  大きく頷き、ケンタは答えた。  両者の間合いは、すでに一足歩の距離を下回っていた。  眼光が真正面から激突する。  「見《けん》を合わせる」という行為は、闘士にとって礼儀に近い。  それをもって相手の力量を測ると同時に、おのれの力量をも相手に知らしめることに繋がるからだ。  だから、ケンタは一歩も退かなかった。  相手もまた同様の態度を示した。  言葉を交わすことのない自己紹介が、互いの間だけで完結する。  黒人の口の端が、ほんのわずかだが綻んだように見えた。  その次の刹那のことだった。 「おまえ、名前、なんという?」  無機質な声で男は尋ねた。 「戦う前に、相手の名前聞くのは、これ、れっきとした作法だと教わった。俺の名前、ボブサプという。おまえの名前、聞かせて欲しい」 「古橋ケンタだ」 「古橋ケンタ、だな。おぼえた。では、勝負といこう」  ボブサプと名乗ったその黒人は、あたかも自分に付いてこいと言わんばかりに踵を返した。そのまま振り返ろうともせず、おきんの見世先へと足早に向かう。  ケンタと鼓太郎は、黙って彼に追従した。  自ら挑んだ勝負事からは決して逃げないという、それは明確な意思の表示だった。  床机のひとつを見世先から表へと引きずり出したボブサプと、彼らは向かい合うような位置で対峙する。  どちらとも言わず片膝を付き、床机を境に睨み合うケンタとボブサプ。  やがて両雄の肘が机上に置かれ、ごつごつしたふたつの右手ががっしりと力強く握り合った。  もちろんそれは友情の確認などではなく、疑うことなき闘争のためにである。  異様な熱気が周囲に満ちた。  それは照りつける太陽光に起因するものではない。  にもかかわらず、誰もが肌で感じ取ることのできるはっきりとした熱量を帯びていた。  その気に当てられた十数人の旅人たちが、すわ何事かとばかりにふたりを中心とする円陣を形作った。  それは文字どおり、無責任な野次馬の群れに過ぎなかった。  そのはずだった。  しかし、そうでありながらも旅人たちの口数は驚くほどに少なかった。  おそらくこれがよくある諍《いさか》い事の類であったなら、さまざまな形の野次や私語が周囲の空間を飛び交っていたはずだ。  つまるところ、彼らも本能的に感じていたのだろう。  いま自分たちの目の前で展開しようとしているこの対決が、後々までの語り草となるだろうという確実な予感を、だ。  そんな滅多にお目にかかれない非日常を軽い気持ちで茶化す真似など、余程のひねくれ者でない限りできる相談ではなかった。  固唾を飲んで旅人たちが見守るなか、鼓太郎の掛け声がことの始まりを唐突に告げる。 「はっけよい……のこった!」  刹那の間も置かず、ケンタとボブサプの上腕二頭筋に大量の血液が流入した。  その中に含まれるグルコースを細胞内のミトコンドリアが|アデノシン三リン酸《ATP》に変化させ、筋肉繊維に活力源として叩き込む。  瞬発力を生む白い筋肉が猛然と奮起し、利き腕の骨格筋に爆発的な収縮をもたらした。  それにより発生した膨大な圧力が、床机の上で小細工なしに激突する。  土俵中央で四つに組んだ大兵のごとく、ふたつの腕力がまさしくど真ん中で拮抗した。  骨と肉との双方が、みしりみしりと軋み音を立てる。  太い血管が腕の表面に浮かび上がり、まるで別の生き物のように脈動した。  瞬きもせず睨み合う両雄の眼が真っ赤に血走り、全力で食いしばられた奥歯が耳障りな不快音を奏で出す。  その心拍数はみるみるうちに増大を果たし、全身を巡る血流量に比例して双方の肉体がぐっと大きく膨れあがった。  パンプアップ──血液の注入による一時的な筋肥大。  それは人体にとって極々普通に起こりえる生理現象であり決して物珍しい事柄でなどありはしなかったが、それでもこの時の両者のごとき有様はそうそう目にする機会にあずかれない。  苛烈な鍛錬によって練り上げられた極上の肉体のみが成し得る、それは一種の芸術品と評しても過言ではなかっただろう。  数十に及ぶ熱視線が全周から注がれるなか、もはや無限に続くのではないかとすら感じられた均衡を打ち破ったのは、古橋ケンタの右腕だった。  その手首が、じりじりと相手方向への傾斜を強めていく。  来た!  観衆たちははっきりそれを認識した。  あからさまな決着の兆候に、鼓太郎の瞳が喜色に輝く。  それと時を同じくしてボブサプの顔面に張り付いたのは、紛れもない苦渋の色彩だった。  眉間に刻まれた峡谷をなお一段と深くしつつ、彼は上半身を倒すことでケンタにおのれの目方を浴びせていく。  数瞬前であれば、まだそれは有効な戦術だったろう。  だが、いまとなっては余りに遅すぎる決断だった。  こちらもまた目一杯の体重を掛け返したケンタの手首が完全に相手のそれを支配したのは、文字どおり次の瞬間の出来事だった。  重心の移動をもって敵を押しつぶそうと目論んだ体勢が、ボブサプにとりかえって裏目に出た形となった。  彼がどれほど絶大な膂力を誇ろうとも、こう後ろに反らされた手首をもってしてはその力を発揮することなどできるわけがない。  そして、いったん崩れた均衡がそのまま勝敗に直結するという展開は、まさしく当然の帰結とも言えた。  ひと呼吸置いて、だんという激しい音とともにボブサプの手甲が床机の上に叩き付けられた。  その直後、行司役たる鼓太郎の口がはっきりと戦いの勝敗を宣言する。 「勝負あり。ケンタ師匠の勝ちだ!」  ふたりを取り囲む旅人たちの輪から一気に歓声が湧き起こった。  ほんのわずかな時間であったが、駆け引きなしの熱戦、真っ向からの好勝負は、娯楽に飢えた観衆たちが持つ心の鐘を大きく打ち鳴らす結果となった。  賞賛の声がそれらの中から自然発生的に飛び出してくる。 「おまえ、強いな」  激しく息を乱しながら、ボブサプは短い言葉でケンタを讃えた。  その口調は相変わらず抑揚のない淡々としたものだったが、それは間違いなく純粋な敬意を縦軸にして編み上げられた台詞だった。 「あんたこそ、な」  全身を汗でしとどに濡らしつつ、ケンタは笑顔でそう返した。  こちらもまた、対戦相手に対する畏敬の念を濃厚に孕んだひと言だった。  意外なことに、ボブサプは白い歯を見せてこれに応じた。  彼なりに相好を崩してみせたのだった。  戦い終えたそんな両雄に向けて新たな賛辞が呈されたのは、それから少しあとのことだった。 「見事見事、まったくの見事」  その声は、ほかの旅人たちのものとは一線を画す奇妙な存在感を携えてやって来た。  やや甲高く聞こえる男性の声だ。  発声に続いて、観衆たちを割るようにしてひとりの老爺が進み出てくる。  それは、少女の葵と比べてもさほど差がないのではと見受けられる、小さな体躯の持ち主だった。  真っ白な頭髪と品良く整えられたあご髭、それに加えてやや垂れ気味のまなじりとが、いかにも好々爺然とした容貌と雰囲気とを醸し出している。  枯れ草色の旅装束に身を包んだその老爺は、右手の杖を突きながら足早に歩み寄ってくると、そのまま一足歩の位置にてケンタと真っ直ぐ向かい合った。  その視線がケンタの眼を射竦めた。  老爺の全身が形作る印象とはまったく正反対な、まるで一線級の闘士を思わせる力強い眼差しだった。  無意識のうちにケンタの上体が後ろに反れた。  改めて老爺が口を開いたのは、それを見越したかのごとき瞬間だった。 「まったくまったく。世の中というものは実に広い。広いものでございますな」  小さく何度も頷きながら彼は言った。 「よもやこのボブサプに力勝負で勝つ者がおるとは思いませなんだ。これは、まこと良いものを見させていただいた。感謝いたしますぞ」 「失礼ですが、あなたは?」  あまりに不躾なその態度に気を悪くする素振りも見せず、ケンタは努めて丁寧な姿勢で老爺に応じた。  それを受けた老爺のまなじりが、より一層の垂れ下がりをみせた。  まことに人好きのする、まさしく最上級の笑顔がそこに出現した。 「これはこれは。私としたことがとんだご無礼を」  頭巾を被ったおのが頭をぽんと掌で軽く叩き、彼ははっきりとした発音でもってケンタに名乗った。 「申し遅れました。私は、常陸《ひたち》のちりめん問屋『水戸屋』の隠居で光右衛門《こうえもん》と申します。そこにいるボブサプの、いわば主でございますよ」

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