1章:作家の話①

 1. 【尾毛貴美雄】東京 /9月3日15時48分 「……遅い」  座りっぱなしで書き物をしていた身体をほぐすため、伸びを一つ。  関節付近から音が鳴り、伸ばした筋に心地よい微量の痛みが走る。  少し効かせ過ぎていたが面倒くさがって放っておいたエアコンの温度をようやく2度上げた。  立ち上がり、近くの金物屋で買ってきたヤカンを火にかける。  ここに越してきて早3日。  家具の手配を任せていたはずの同居人の姿はまだない。おかげで慣れない日用品の買い物を先にしてしまった。  それもこれも版権エージェントなんていう飛び回る仕事をしているあいつのせいだ。連絡もないが、どうせまた忙しさにかまけているに違いない。学生時代から考えればこれが初めてというわけでもないし。  ……単にそうなら良いのだが。携帯に掛けても何故か繋がらない辺り、不安はある。  もしかして何か事故にでも遭ってはいやしないだろうか。  って、僕は何を心配しているんだか。30近くになる大の男の心配をしている暇があるなら、自分の仕事の心配をしなくちゃならない。  ほうじ茶を淹れ、手持ちのノートパソコンを開くとホームポジションに手を添える。  さて、投稿用の旅行記の続きに取り掛かろう。華々しいフィクションではないが、淡々と感情の機微を描く私小説。今取り掛かっている題材だ。  眼に映るのは小説のタイトル、「カワラナデシコ」。

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