#16 予祝と宿痾〈Ⅰ〉

 それから数日、クロイツは学び舎に行かなかった。  かわりに何人かの老人の訪問を受け、澄ました顔で彼らの言葉を聞いた。老人に手を引かれた子どももふたり来たが、彼らの話はウィラリアが聞いた。  ――子ども同士で弱みを握ったなどと言われるのは癪だろう、とはかつてのウィラリア曰く。当時、物心ついたばかりだったクロイツは首をひねるばかりだったが、今では彼女が言わんとしたことが理解できる。  子ども同士なら無駄に嫌われたくはないだろう、と彼女は言っていたのだ。ティステンが口にしたように、得意ではないと思われる必要はないと。  だから、子どもの語りはいつでもウィラリアだけが聞く。  大人についてはほぼ半々といったところだ。子どもの分を聞かないことを踏まえ、少しだけクロイツのほうに比重が偏るが、こなさねばならない人数にあまり差はない。慣れの分だけウィラリアのほうが多く聞いているような気もする。  そうこうするうちに二度目の葬送の日が近づいて来て、準備に追われてまた学び舎には行けなかった。さらに三度目、四度目と準備に追われ続けて、ようやく学び舎に行った頃には月が変わっていた。  ほとんど遅刻気味にやって来たクロイツに対し、ティステンはどこか安堵したような視線を向けて来る。いっぽうの彼の子分は顔を見合わせ、ひそひそと何かを語り合っていた。  クロイツはそのどちらにも無視を決め込み、鞄の中の教本を漁り始める。とりあえずユリシスを見て彼女と同じ本を出し、真ん中のページを開いて机に立てた。ユリシスも全く同じことをしてノートに向かい合っている。  その様を一瞥してから、クロイツは教本ではない本を取り出した。革張りの表紙にタイトルはなく、かわりにウィラリアの手による大雑把な字が踊っている。  ――イェナ・ルクサ。  この村にはいない女の名前だ。いたはずの女と言うべきかもしれない。麻紐を用いて綴られたページを開けば、まずは朱書きで死去済みの旨が綴られている。  それからおよそ十二年前の日付が、その隣に。――イェナ・ルクサはコウが生まれるほんの少し前に死んだ女である。  朱書きに続く文章を綴るのも、ウィラリアが書いた大雑把な字だった。雑ではないが、別段読みやすくもない。およそ活字には見えない文字と言えばそれまでである。  その字が綴ったイェナの生涯は、さほど数奇と呼べるものではない。  生まれは今から五十八年前、村の広場の近くに居を構えるレツェの家の出。十三で樵夫のナータン・ルクサに嫁ぎ、以後別れることのないまま病によって没した。享年は四十六、若干早いが早過ぎるというほどでもなく、死因は病。風邪を拗らせたのだろう、とウィラリアの推測が文を締め括る。  この村にはよくある物語の始まりと終わりだ。けれどもクロイツにとって、彼女の人生は書かれている以上の意味があった。  イェナ・ルクサは大層な噂好きで、当時はただの祭司であったウィラリアに対しても、当時の村の出来事をつぶさに語っている。書き手であったウィラリアも彼女自身の物語で頁を増すのに苦心したと見えて、紙面には当時の言葉が聞いたとおりの言葉で記されていた。  ある種当然のことながら、種々の噂の中には、村の外からやって来た者のことも含まれている。  夢破れて街から戻って来た隣近所の息子、乳飲み子を捨てに来た見知らぬ女、人知れず捨てられていった水晶肢の幼子。それから、《《大工を連れてやって来た変わり者の夫婦の話》》。  ――ユードヴィールに対し、ヤツルギは大恩があるのだと言った。それを踏まえて考えるに、この変わり者の夫婦とはヤツルギとユーリアのことだろう。  紙面の中のイェナは森の端に作られた工房を指して、あんなに大きなものを建てて、と腹を立てている。けれども領主から金子を受け取り、大工たちに飯を用意する役割を請け負うと、彼女の態度はたちまち軟化したようだ。炭焼きに木を卸すことが増えたのも相まって、変人ふたりに対する言葉も柔らかなものが増えた。  そうして最後は、ふたりの間に子どもが生まれるようだと語っていた――とウィラリアの筆跡は綴る。コウのことだ。  そのあたりからイェナはひどく体調を崩したらしく、彼女の日常に関する記載な大幅に減る。かわりに夫から体調の報告ばかりが来るようになり、最期は幼子のように無垢であったと記述されていた。  そこまでを読んで、クロイツは亡きイェナの本を閉じる。  学び舎のやる気のない授業はそろそろ終わりのようだ。教師が教本を閉じるようにと眠たげな声で告げている。  ユリシスは涼しい顔で頁を閉じているが、黒板と彼女が開いていた頁の記載は内容の乖離が激しい。クロイツはどこか呆れた気分で教本を閉じると、イェナの本と重ねて鞄にしまった。  ついでティステンのほうを見やると、彼はおもむろに首を横に振る。真鍮板の名前はまだ書けていないらしい。  文字を刻むのに使う鏨は釘のようなもので、尻の側を槌で叩いて少しずつ板を削って線を描くから、誤りなく文字を綴るのは意外と難しいのだ。非力であれば言うまでもないが、膂力に自信がある者であっても、力加減を間違えればそれまでの努力が水泡に帰す。  クロイツは肩をすくめて返したのち、人差し指と中指を立てて二を示した。  葬送が行われるのはあと二回。その後は森の土を掘り返す作業を経て、神殿は村と分かたれる。それまでに用意を済ませておけ、の意である。  ティステンがうなずくのを見届けてから、クロイツは鞄を肩にかけた。帰宅する子どもの一団を追い越し、振り返ることなく学び舎を飛び出す。  向かう先は村のどこでもなく、森の外れに位置するヤツルギの住まいだ。話したいことは山ほどあり、聞きたいことは山ほどあった。  鞄に収められたイェナの本の角が、咎めるようにクロイツの足を叩いていた。

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