5話

 両親の心配は、いい意味で外れました。手足、それから、頭上から角のように生えた耳。それらを除けば私は、人間の子供と何ら変わりはありませんでした。夜鳴きだって、獣のようなそれではなかったそうですし、頃合が終わると這い這いも辞め、二足で立って歩くようになりました。  そんな私にお母さんは読み書きを手解き、お父さんだって、私の事を、たっぷり可愛がってくれました。 「パパ、抱っこ」 「よし、それじゃ、そこに座って」お父さんは、ようやく腰に届くくらいだった私を両腕で抱っこしてくれました。そして、上下に軽く揺すりながら、抱っこしてくれたのです。私は窓から見える街の様子を眺めました。そこには、私と同じくらいの子供達が走り回っていました。  私は母譲りの大きな目を力いっぱいに見開き、その景況を、うっとり眺めていました。「パパ、ミアもあの子達と遊びたい」純然たる思いで、この時の私は言った事なのでしょう。  この時、お父さんは、レモンでも齧ったように一瞬酸っぱい顔をしたのを覚えています。けれど、お父さんは、すぐに笑顔を繕ってこう言いました。 「ミアは、女の子だからな。男の子と遊ぶのは、賛成できないな」 「どうして?」 「女の子は、おしとやかなのが一番だ。母さんみたいにな」と言って、お父さんは、洗濯物を干しているお母さんの方に目を向けました。私もお母さんの方を向きました。すると、お母さんは、私とお父さんの視線に気づいて、にっこりと優しげな眼差しで微笑みました。  美醜の判断すらつかない子供の私にも、その時のお母さんの顔は、今でも、くっきり思い出せるくらい、美しかったと、記憶しています。  私が外に出られるのは夜だけでした。お父さんと一緒に馬車に乗り、鎧を身に着け、剣を腰に差した家来と一緒に、街の中を巡ります。夜の街は墓場のような静けさがあり、人影一つありません。昼間、窓から見た男の子達もいなければ、ワイワイがやがや、道端で話すおばさん達の姿もありません。あるのは、闇夜で青黒く染まった建物ばかり。ようやく見つけた、と思った人影は、動きもしなければ、喋りもしない。人を象った彫像です。実に味気のない光景ではありましたが家では見られないものばかりで、私は一々、感動したものです。けれど欲深い私は見慣れた夜の街の風景に、すぐに飽いてしまいました。そして、お父さんに昼に外出してみたい事を再三、お願いしました。  私はお父さんの腰ほどの背丈しかない体を伸ばし、お父さんの顔を振り仰いでから、袖を引っ張りながら言いました。 「パパ、お昼の街を見てみたいの。お外に連れて行って」 「駄目だよ、ミア。お昼は、危険がいっぱいなんだ」お父さんは微笑を傾け、優しい声音で、説明します。不満がなかったわけでは、ありません。けれど私の我侭で、困惑するお父さんの姿を見るのは、偲びなかったので、私もそれ以上、無茶を言いませんでした。  それからしばらくして、私はお母さんの様子が変化していく事に気がつきました。お母さんのお腹が、日に日に大きく丸くなって行くのです。蛙が喉を膨らませるみたいに。それに、時々、気分が優れないようにも見えました。洗濯物を一緒に干していると、時々、お手洗いに駆け込む事が増えたのです。  私は湿った衣服を両膝に叩きつけて、皺を伸ばしながら、戻ってきたお母さんの顔色を伺うみたいにして言いました。 「大丈夫?」しかし、私の心配は杞憂でした。お母さんは何事もなかった所か、口角をきゅっと持ち上げて、かえって嬉しそうに言うのです。 「全然、大丈夫。ありがとうね、ミア」そうして、私の頭を撫でてくれました。しかし、お母さんのお腹は、やっぱり膨らむばかりで、もう、一人で歩くのも、難しい様子でした。変な病気じゃないかしら。そう思った私は堪らなく心配になりました。 「お母さん、死んじゃ嫌……」その時の私は、きっと涙ぐんでいたように思います。ベッドで横たわるお母さんの左手を両手で包み込んで、何かに懇願じみた声を上げていました。すると、お母さんは一瞬、驚いたような顔をしましたが、薄く瞼を閉じ、優しげに微笑み諭すように言いました。 「何も心配いらないわ。ミア」 「でも、お母さん。最近、ずっと寝てばかりだし。私、心配で……」と言った所で、言葉が続かず私は一度、二度、滲んだ目元を擦り、大きく肩を上下しました。  すると、お母さんは、そっと壊れ物にでも触れるように、私の頭に手を置き、思いがけない事を口にしました。 「大丈夫よ。それよりミア。あなたは、もうすぐ、お姉ちゃんになるんだから。もう少し、強くならないとね」 「え?」私は目元から袖を離しました。すると、涙で曇った視界には、霞がかったように微笑むお母さんの姿がありました。  それから子供ができると、今のお母さんみたいに気分が悪くなったり、お腹が大きくなる事を教えてくれました。その後も、お母さんのお腹は膨らむ一方でしたが、私ももう心配はしていませんでした。お父さんは既に、その事を知っていたようで、少年に若返ったように、目を輝かせていて、妹か弟が生まれてくるのを心待ちにしているみたいでした。  私の兄弟はそれから暫くして、無事生まれました。生まれてきたのは、男の子でした。けれど私の体とは違っていて、手足に肉球も無ければ、耳だって顔の左右についています。弟に対し、私は興味半分、恐怖半分でした。目はピンポン玉みたいに大きくて丸いのに、頭が異様に大きく、天辺に至っては禿げたおじさんみたいに、毛がうっすら。  おまけに生まれたばかりなのに、顔中、お爺さんみたいに皺だらけ。別の生物にしか見えなかったのです。 「この子は、お猿さんが、置いていったんじゃないかしら」と、思いました。その事をお父さんに話すと、お父さんは酷く可笑しいと言った様子で、涙目になりながら大きな笑い声を上げました。そして、一頻り笑った後に 「この子は、正真正銘。ミアの弟だよ」と言いました。  私は揺り篭の中で眠る弟をいつも遠目に眺めるばかりでした。そんな私を見かねたのでしょう、揺り篭の中を覗き込むお父さんが私を呼び寄せました 「ミアも、こっちにおいで」たぶん、その時が初めてだったと思います。  弟と、ちゃんとした形で向かい合ったのは、私は、牛が歩くみたいに重く鈍い足取りで、埋まった地雷でも避けるように一歩一歩、慎重に近づきました。そして、お父さんの隣から、揺り篭の中を覗きます。すると、弟の寝顔があったのですが、私には、やっぱりお猿さんにしか見えません。 「ミア。撫でて、ご覧」もう十分でした。顔を見るだけでも、やっとなのに、触れるなんて、考えられません。  私は横目でお父さんの顔色を伺いますが、お父さんは静かに、優しげな目つきをしていて私の顔を見るなり、黙って、力強く頷きます。私は怖かったのです。自分とは似て非なる弟が。  だから障ろうとした瞬間、手に噛み付くんじゃないかと、そんな不安事ばかりが頭の中にあり、どうにも気乗りしないのです。けれど、お父さんに言われるもんだから拒否する事はできません。私はおっかなびっくり。手を噛まれないように、と祈るような気持で、弟の頭に触れました。その瞬間、弟と目が遭いました。弟の目は、ゴミのない海のように澄んでいました。そして、私が撫でている始終、ずっと私の顔を眺めていて、私が手を離そうとした瞬間、はっきりと確かに微笑みました。 「この子は、ミアの事が好きみたいだな」お父さんも、そう言いましたから、弟が赤ちゃんだったとはいえ、私の事を好いてくれて居たのだと思います。これがきっかけで弟の事を少しずつ、可愛いと思うようになりました。

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